第二話


「くそっ……」
 小さく呟いた長義は言葉を飲み込み、庭の池に繋がる小川にかかる朱に塗られた太鼓橋を叩く。じんわりと拳に痛みが広がるが、長義が押さえたのは胸だった。
 何度も何度も胸の奥に蘇るあの恐怖。長義の目にも、男に宿る穢れは見えたのだ。……見えたのが少し遅かったが。主を失ってしまうのでは、その恐怖は長義の全身に広がって、体の動きも思考をも鈍らせる。まるで極寒の地に投げ捨てられたかのような絶望が、体の芯を冷やし燻っている。脅威から刀を守る為己の身を危険にさらしてまで結界を張るなど、一軍を引き入る審神者の行動としては褒められるものではない。
 だがしかし、主の意図もわからないわけではなかった。己はあのままでは、相手の五虎退と刃を交えていた可能性は高い。怨霊なのか化け物なのか知らないが、邪気に中てられていただけの審神者に手を出せばまずいことになるのは頭では理解している。だが、己が守るべきは歴史と己の主の筈だ。
「相手が誰だろうが知ったことではないな。斬って捨てればいいだけだ」
 覗き込んだ水面の先に、離れていく審神者の後姿が見えた気がした。ゆらゆらと揺れるその先に、拒まれる。手が届かない。審神者の向こう側で、黒く深い穴が審神者を飲み込もうとすらしているように見えて、長義は拾った小石をばしゃりとその水面に叩きつける。小石は容易に阻んでいたあの結界を消し去った気がして、ずるりと長義はその場にしゃがみこんだ。守らせろ、と。俺に守らせろと叫んでしまいたい。
 少しして、ぎしぎしと橋を踏みしめ近づく気配が二つ。屈んだまま視界にその人物の足が映りこんだ辺りではぁとため息を吐きながら立ち上がった長義が視線を向ければ、そこにいたのはなぜおまえらが組んでいるんだと口にはしないが突っ込みたくなるような二振りだった。
「huhuhuhu……山姥切もその水面を前に脱ぎたい衝動にかられましたか?」
「ああっ! 長義さんもこの水辺で身が竦むような冷たさを体験したいのかい!? ぜひご相反にあずかりたいな! でも脱いでしまうとぼくとご主人様だけの秘密がバレてしまうね!」
「待て、別に脱ぎたくはならないし、亀甲貞宗はよくその台詞を俺の前で言えるな!? というかなんでお前たちが一緒にいるのかな!」
 口に出さずにはいられなかった。
 きょとりと首を傾げた二人は、揃って今日は手合わせで一緒だったのだと笑い、そうだったと呟く長義に亀甲が「服の下はご主人様との秘密だけど長義さんが心配するようなことはない」と丁寧に訂正を入れる。知ってるよ、と叫んだ長義は己は悪くないのではないかと頭を抱えた。なんのことが察しがつきやすくて亀甲のそれは既に公然の秘密である。
 長義に心配をかけるつもりではなかったのだと落ち込みながらもご主人様に怒られてしまうとなんだか頬を染める亀甲はさておき、どうしたのデス? と尋ねてくる村正は……まぁ、恐らく亀甲も、こうして一人橋の上で屈む長義を気にかけてやってきたのだろうということはわかっている。二人は同じ打刀であり、長義と同じ部隊で戦場を駆けることも多いのだ。……この二人のみという組み合わせと鉢合わせたのは初なので、切実にこんな時ツッコミに回ってくれる歌仙兼定か、なんだかんだと言いつつ一緒に振り回されてくれる和泉守兼定の存在のありがたみがわかるが、残念ながら彼らは遠征と畑当番でこの場にはいない。

「……少し、風に当たっていただけだよ」
「そうデスか。……そういえば、今日は厨で昼八つの為にクッキーを作っているそうデスよ」
「ぼくたち、そこに手伝いに行こうと思ってたんだ。ああ、ぼくが丹精込めて象ったクッキーを、ご主人様が躊躇いなく噛み砕いてくれたら……たまらないね! 長義さんも一緒にどうかな!?」
「だから亀甲は……はぁ。クッキー、ね。なら、俺も行こうかな」
 なんだか気が抜けてしまった。そう気づいた長義は苦笑し、楽し気な二振りに続いて橋を降りる。主が焼き菓子を好んでいるのはこの本丸で知らぬものはいないだろう。焼いたらそれを持って行って……忠言を述べるにしても先ほどのように感情を露わに怒るようなことはしてはいけない、と考えていた矢先だ。

 目の前が、ふっと暗くなる。襲い来る絶望感にその場にいた三振りはそれぞれ顔色を変え、ひ、と喉を鳴らす。すぐさま身の内から本体でもある刀を呼び出した三振りが警戒し周囲を見回したときには、辺りは一変していた。
「なんだっ?」
「これは……」
「……ワタシたちの本丸ではありませんね?」
 本丸内は夏を終え、秋を迎えてぐっと気温が下がってはいたが紅葉が美しい景趣の筈だった。だが今はじっとりと汗ばみ、肌に湿気が纏わりつくような重苦しさがある。それでいて空は不穏な赤紫に染まり、暗くはないが昼夜もよくわからない様子に、ぞわり、と肌が粟立つ。土は渇き、草も力なく項垂れている。目の前に同じ本丸のような建物はあっても、これは違うと本能が訴える。
 何よりあの最初に感じた絶望感。三振りとも必死にその正体を探り、顔色を悪くしていく。
「……ご主人様の気配が……」
「薄い……? なんデスか、ここは!」
「……っ、主!」
 長義が慌てたように走り出し、二振りがそれに続いた時、パン、と弾ける音と共に、長義の目の前に何かが飛び込んでくる。思わずそれを掴んだ長義は、その手触りにはっとする。
「は、え? ぬいぐるみ……」
「見覚えがありマスね」
「それは……ご主人様が大切にしていた長義さんそっくりの」
「似てない、写し以上に似ている似ていない以前の問題じゃないかな、これは俺に見立てただけの、……は?」
 覚えのあるくまのぬいぐるみを掴んでいた長義は、そのぬいぐるみの目に違和感を感じて動きを止めた。消えぬ焦燥感の中、早く主を探さなくてはと焦る気持ちはあれど、長義はこの違和感を見逃せずその青い目を見つめ……じわり、と潤んだのを見逃さなかった。
「はぁ?」
「な、え、泣、えっ? ぬいぐるみって泣くのかい!? ああ、泣かないで、耐える方が心地いい筈だよ!」
「これは……」
 なんだ、と驚く二振りの戸惑いを無視し、徐に目を細めた長義はぬいぐるみを掴みなおす。と、次の瞬間、なんの躊躇いもなく突如、べろり、とその潤むグラスアイを舐め上げる。さすがに驚いて口を閉ざした二振りの前で、赤い舌をそのまま上唇に滑らせた長義は表情を険しくし……この霊力、と、ひくりと口元を引きつらせると感情のままに叫んだ。

「どういうことだ! なんっで魂がぬいぐるみの中にあるんだよおかしいだろうっ……主!」
「……ええっ!? ご、ご主人様!? それどんなプレイなんだい!?」
「huhuhu……脱ぎすぎではないデスか?」

 混乱する三振りの目の前で、恐らく長義の霊力を取り込んだせいか。ぴくり、と動いたテディベアが、ぺこぺこと必死に頭を下げはじめるのだった。


▽▽

「誰か、次郎太刀を知らないか?」
「んー? わかんなーい」
「見とらんばい、今日はずっと部屋におったけん」
「どうかしましたか?」
「いや、実は大将がまた無理したみたいでな。政府の人間が大丈夫だって無事帰してくれたらしいが……聞いてないか?」
「えっ」

 薬研藤四郎が粟田口の短刀部屋に顔を出すと、そこにいた乱藤四郎、博多藤四郎、そして前田藤四郎が話を聞いてぎょっとして顔を上げる。どうやら非番のこの三振りは部屋がゲートからは離れているせいか長義の叫び声を聞いていなかったらしいな、と判断した薬研は、軽くかいつまんで事情を説明した。といっても薬研も怒れる長義に聞いた話で、事情に詳しいわけではない。
「ひとまず穢れに対処したってんで一応念のため見てもらおうと思ったんだが、今石切丸も含めて大太刀の旦那方はほとんどが遠征でな。蛍丸と……次郎太刀はいた筈なんだが、実際その場にいたせいか蛍丸は少し興奮状態で今明石が休ませてる」
「えーっ、大変! 探すの手伝うよ、包丁や骨喰にいも確か演練だったよね? 何か聞いてる?」
「いや、俺っちは長義の旦那に呼ばれててな。こっちに戻ってないのか」
「あ、今日は厨でクッキーを作っているのでそちらかもしれません」
 主君と共に食べようと作る……いや、貰いに行った可能性はある。相手に慰謝料を請求せねばと憤る博多と共に前田が立ち上がり、次郎太刀がいるのはどこだろうかと四振りが歩き出し全員が廊下に出たところで、目の前が、ふっと暗くなる。襲い来る絶望感に全員がそれぞれ顔色を変え、ひっと怯えながらもすぐさま身の内から本体でもある刀を呼び出し戦装束を纏った四振りは、ぞわり、とその小柄な身を震わせた。
 何かがおかしい。廊下であることは変わりない、が、その廊下がどうしてこうも痛んでいるのか。しばらく掃除をしていないのか埃が積もった廊下に、自分たちの足跡がうっすらと残り、壁には亀裂が走っている。何かが、いや、間違いなく、おかしい。慌てて振り返ってみれば、そこに広がっていたのはつい先程まで自分たちが休んでいた粟田口部屋ではなかった。畳が腐り落ち、澱んだ空気に満ちている部屋の中に、先ほど博多が使っていたタブレットもなければ、乱が読んでいた雑誌も、前田が整頓していた本棚も何もないのだ。

「……主君?」
「おい、なんだ、何が起きて……」
「きつか……なんやこん空気……」
「やだ、なんか変だよっ? あるじさんとのつながりが薄くなってるなんて、こんなのっ」
 その言葉に、全員は青ざめた顔をがばりと上げて目を合わせる。

「……急ぐぞ! 大将を探せ!」
「はい!」
「急がんと!」
「うん! あるじさん、すぐ行くから……!」

▽▽

「ありゃ?」
「兄者! 結界が消えている! 恐らくここは俺たちのいた本丸ではないぞ」
「これは……おかしいね。主はどこかな? 縁は繋がってるけど気配が薄い。あの子が結界を切らすなんて考えにくいんだけど」

 おかしいなぁ、と呟きながら立ち上がった髭切が渇いた土への足を踏み出し、膝丸も慌ててその後に続く。
 二人がいたのは本丸東屋で、髭切は紅葉を楽しみ、それに付き合って膝丸も審神者に借りた本を読み穏やかな時間を過ごしていたはずだったのだが。ふと違和感を感じて二人が警戒したと同時に視界が暗転したかと思えば、まるで大切なものを覆い隠されてしまったような不快感を感じてつい抜刀したのだ。しかし目を開けてみればそこには何もなかった。そう、それまで膝丸が大切に扱っていた審神者に借りた本も、東屋すら。近場に広がっていたのは荒れ果てたと表現するのがふさわしいだろう枯れた草と渇いた土地、そして美しく色づいた葉の一つもない、黒く濁った大木のみ。少し離れた場所に本丸らしきものは見えるが、その間に瑞々しさを一切感じられない葉と黒い靄を実らせたような木々が立ち並び、不気味さを通り越していっそ現実感を感じられない。
 髭切が好んでいた庭も空気もそこにはない。審神者の気配はあるが薄っすらとしか感じられず、それもまた膜に覆われたかのように辿ることができず、髭切はぽっかりと胸に穴が開いているのではと感じて胸を擦る。失くした本をおろおろと探していた膝丸はそれを視界に入れてぎょっとして駆け寄った。
「兄者!? どうした、どこか調子が悪いのか!」
「うーん? なんかねぇ、ここがスカスカする感じがするんだ。ここはどこかな、主はどこだろう」
「……それは」
 膝丸が何かを言い淀むと、ああ、と穏やかな表情ながら剣呑さを孕む瞳を見せた髭切が口角を上げる。
「前に買い物のとき主が迷子になっちゃったときに似てるなぁ。はぐれたら、駄目だよねぇ」
「……それは兄者が、いや。主の気配は消えたわけではない。恐らくここにいる、と思う」
「だよね。探してあげなきゃ。えーっと、なんだっけ。化け猫切りのどっちかが傍にいてくれてるかな? でも刀は多い方がいいよね」
「山姥切だ兄者! あと猫を斬ったのはあいつらではなく南泉一文字だ! 早く向かうべきだとは思う!」
「じゃあ行こうか、肘丸」
「膝丸だ、兄者!!」

 小走りに移動を開始したその後ろで。黒ずんだ大木が、ゆらり、と嘲笑うように揺れたことに、二振りは気づいていなかった。

▽▽

「おいおいおい、なんだ、こりゃぁ」
「……畑が」
 畑当番であった和泉守兼定と桑名江が目を開いた時、つい先ほどまでつやつやと実っていた茄子が消え、枯れ果てた畑らしき土地が目の前に広がっていた。
 一瞬の眩暈にぞわりと肌が粟立ち、突如視界が暗転したかと思えば、目の前の光景が様変わりしている。二振りは呆然とし、わけがわからないながらも咄嗟に刀を取り出し戦装束を纏った。生温いというよりはじっとりと汗ばむような、湿気を含んだ風が首筋を撫でる。気持ちが悪い、と周囲を警戒しながら、土に触れた桑名は眉を寄せる。
「本丸じゃない」
「こんな澱んだ場所が本丸でたまるかってぇの、見ろよあの空、尋常じゃねぇだろ。……だが、どこぞの本丸なのは間違いねえな。あっちにそれらしき建物が見えるぜ」
「……おかしいな、さっきから、なんか……」
「……主の気配が薄い、か? 近くにいる、とは思うんだがな」
 桑名はこの本丸で一番最近顕現された刀だ。心配をかけまいと口を噤んでいた和泉守だが、察しているのならば仕方ない。口にしたところでじわりと己にも恐怖が這い上ってくるが、それを一歩踏み出すことで振り払った和泉守は、なんだかしらねぇが、と口を開く。
「異常事態だ、敵の襲撃の可能性も考えて動くぜ。主を探す。恐らく山姥切のどっちかがそばにいると思うんだが……偵察ってぇと、あー、国広と合流したいとこだな」
「敵の、襲撃……わかった。こんな良くない土のところにいつまでも主をおいてはおけないからね」


▽▽

「む?」
「……は? え、なんだ?」

 突如ひどい不快感と眩暈に襲われ厩の柱を掴んで耐えていた厚藤四郎と山伏国広は、次に目を開いたとき先ほどまで世話をしていた筈の馬が一頭もいなくなっていることに気づいてまず混乱した。すぐさま戦装束を纏い本体を手に周囲を探れば、場所自体は恐らく厩なのだろうとわかるが、問題はそこではない。いつ天井が落ちるともしれない朽ちた厩は間違いなく自分たちの本丸のものではないし、何より空気が違う。満ちていた筈の霊力がない。……主である審神者の気配が薄れた。
 どうやら一瞬のうちにおかしな場所に移動したのではないかと推測できる状況にまず厩の跡地らしき場所から飛び出した二振りが向かったのは執務室の方角である。主は、大将は、無事なのか。厚が先行し周囲の索敵を行いその後ろを山伏が後ろを警戒し進む中で、あ、という声が聞こえて二振りは土煙を上げながら体を反転させ声の方を警戒する。しかしそこに見えたのは、確かに同じ霊力を感じる仲間の存在だった。

「和泉守兼定に桑名江か!?」
「ああ! 厚に山伏か、お前らもここにいたんだな、主は!?」
「わかんないんだ! 今確かめに行こうと思ってたんだよ! そっちは他に誰か見たか?」
「拙僧たちは朽ちた厩からまっすぐここに来たのである! 馬は一頭もいなくなっていたぞ!」
「畑もまったく別のものになっていたよ。第一土が違うんだ」
「ったく何が起きてんだか! ひとまず主だ、行くぞ!」

 和泉守の叫びに全員が再び執務室を目指して足を踏み出した、

 その時。
 
「え?」

 声を上げたのはだれだったのか。
 突然の浮遊感。成す術なく体勢を崩したそこにいた四振りは、突如どさりとどこかに投げ捨てられる感覚に身を屈め、厚藤四郎だけがなんとか着地に成功しその手が地についたとき、ざらり、と覚えのある感触が指先に伝わって目を見開く。
 それは畳だ。嗅ぎなれたい草の匂いに、少し滑らかな表面は明らかに先ほどいた場所とは違うと告げている。ぐるりと見渡せば、見覚えのない襖に壁。比較的新しいのだろうとわかる傷のないそれを見て、一緒に飛ばされたらしい太刀、打刀勢が身を起こすのを確認した厚藤四郎は畳を蹴って襖に飛びついた。

「……開かない! どうなってんだ!」
「くっそ、何が起きて……」
「皆の者、平常心を保つのである。浮足立っては何も得られぬぞ」
「でもこんな……あれ?」
 こつり、と爪が何かをはじいた気がして視線を落とした桑名は、起き上がった畳の上に何かが散らばって置かれていることに気づいて手に取った。黒く丸い何か。碁石……ではない。裏返せば白いそれを、どこかで見た気がする、と首を傾げながら表裏交互に眺め、それに気づいた厚が目を丸くする。

「……え? オセロ? オセロ盤もあるじゃん、……なんで?」



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