第一話

「どうして穢れや澱みがあると見れば突っ込んで行くのかな、これで何度目だと……っ、君はこの本丸の主なんだ、そういった調査は俺たちに任せればいいだろう!」
「だってもしあなたたちに穢れが移ったらどうするの! 怪我でもしたらっ」
「手入れすればいいだろう! 君の霊力で手入れすれば傷は治るし穢れは払われる!」
「それまで苦しいじゃない! ただでさえ皆には戦場に出てもらってるんだからそれ以外でくらい……私なら結界で多少の穢れはなんともないけど、皆は、」
「戦場に立つのは当然だ、俺たちは刀なんだから、その為にここにいるのを忘れないでくれないかな!」
「……二人とも、少し落ち着――」
「偽物くんは黙ってろ!」
 だん、と振り下ろされた拳が机を叩き、がちゃんとカップが跳ねてソーサーとぶつかり合う音が立つ。それにびくりと主が目を丸くして驚いたのを見て、長義ははっとしてその拳を解く。
「……すまない。気が立っているようだ。……少し頭を冷やしてくる」
「長義、その」
「……主、俺は穢れだろうが化け物だろうが斬って捨てればいいと考えている。これでは……今の方が苦しい、かな」

 後半になるにつれて声が何かを耐えるように小さくなっていった長義の言葉にショックを受けた様子で審神者が固まり、長義が部屋を出て行ったことで執務室がしんと静まり返った。おろおろと視線も腕もさ迷わせていた審神者がやがて力なく椅子に座り込むと、一歩前に出たこの本丸の初期刀……山姥切国広が、大丈夫か、と伺いながらも机の上に手を伸ばし、紅茶が零れ落ちたソーサーごとカップを引き上げた。入れ替わるように審神者の目の前に置かれたのは湯飲みで、中に入っているのは緑茶だ。ふわりと湯気が鶯丸絶賛のいい香りと共に広がり、ほう、と息を吐いた審神者がそれにふぅふぅと息を吹きかけてひとくち飲む。湯飲みを支えるその細く白い左手の指先は人差し指も中指も、そして薬指まで絆創膏が巻かれ、それを見た小夜左文字はやはり取っ手のついたティーカップの方が持ちやすかったかもしれない、と少しだけ後悔する。

「主、その……紅茶の茶葉切らしてたみたいだから……」
「あ、そっか。ごめんね小夜くん、美味しいよ。……はぁあ、どうしよう。長義怒ってたなぁ、私が悪……いやでも、だって」
「まぁ、今回は主が悪いな」
「うっ……はは、手厳しいね国広くんも。うん、そうだっていわれるのはなんとなくわかるんだけど……」
「……主、結界張ってまで僕たちを遠ざけて、穢れに一人で対応するなんてだめだよ」
「……やっぱり?」
 ぐったりと机に突っ伏した審神者は、そのまま机の上に飾っている青い目のテディベアを引き寄せると、ぎゅっと胸に抱いてため息を吐く。シルバーブルーのディストレス・モヘアにブルーのグラスアイ、そしてどこかで見たような裏地が瑠璃の色に染まる上等な布を肩に巻くテディベアは、万屋で見かけて珍しく審神者が欲しいと執着したものであり、己に見立てたそれに苦笑しつつ恋仲の刀が審神者に贈ったものだ。主が一等大事にしているものだとこの本丸の刀剣男士たちであればよく知っているそのぬいぐるみが主の腕の中にいるとき、それは決まってその恋仲の男士が傍にいないときである。
 そう、この本丸の審神者と山姥切長義は、恋仲であった。
「主。本科は、主を心配してるだけだ。……いや、俺が本科の気持ちを語るのは嫌がられるんだろうが」
「……うん、心配してくれてるってわかってる」
「指を怪我したんだよね……何が、あったの?」
 心配そうに小夜が覗き込んできたことで、ふにゃりと表情を崩した審神者は口を開く。それは、今日の演練でのことだった。



「よし、五戦五勝零敗、皆すごい!」
 上機嫌で胸の前で拳を握る審神者は、その日の全ての演練を終えて刀剣男士たちを出迎えるとこれでもかというほど褒めまくり、参加した六振り全員、どころか自分の護衛を務めていた今剣まで「うちの子強い、大好き、可愛い」と褒めたたえてぴょんぴょんと跳ねていた。これは割と常からある光景で、刀剣男士たちも苦笑しつつも嬉しそうにしていたり照れていたりと様々な反応を見せる。中でも加州清光とへし切長谷部はひらひらと桜を大量に舞わせ、包丁は嬉しそうに主に抱き着いている。部隊長であった山姥切長義は「まったく……」とやや呆れた様子ながらもそれを見守り、蛍丸は照れたように得意げな笑みを浮かべ、そして無言ながら骨喰藤四郎も嬉しそうに微笑んでいた。その光景を見て微笑ましいと和む審神者や刀剣男士もいれば、無表情のまま視界に入れず先を急ぐ者も、負けて虫の居所が悪いのか不機嫌な様子で視線を逸らす者もいる。演練会場とは、普段本丸に引きこもりがちとなる審神者たちが、様々な思いを抱いて行き交う場だ。……だからこそ、稀にその場にはやや異質なものが現れる。
 演練会場にある出店を覗きつつ、本丸に帰ろうと一行が歩き出した時だった。わ、と小さな悲鳴を上げて審神者が体勢を崩し、隣にいた長義がはっとしてその体を支える。警戒していた長義は何が起きたのかと音のする方向、床を転がる缶コーヒーの空き缶を視線で捉え、ふと険しい表情で横を睨んだ。
 それにはっとした様子で顔を青ざめさせたのはどこぞの本丸の五虎退で、すみません、と涙目で表情を歪ませるその横に、ふん、と苛立った表情で視線をずらす男がベンチに座っていた。その男と五虎退に見覚えがあった長義はぐっと口を引き結ぶ。先ほどの演練での対戦相手の審神者とその刀剣男士なのだ。

「……ゴミはゴミ箱に捨てるべきだと思うけれど」
「落としちまったんだよ、さーせんっしたぁ」
「あ、主様っ!? あ、えっと、お怪我は、ありませんか? その、僕が捨ててくるので」
 慌てた様子で男の五虎退が転がる空き缶を追った瞬間だった。審神者が突如長義の腕を抜け出し、驚いた長義が手を伸ばすも遅い。主、と叫ぶ声に他の刀たちも振り返った瞬間その主と相対する男の周囲に結界が張り巡らされ、弾かれて慌てた長義の拳はむなしく己を阻む見えぬ壁を叩くこととなる。
「皆そこにいて、入ってきちゃだめ」
 同じく結界を追い出された形となった男の五虎退の瞳孔が開き、刀を手に主を守ろうとするそれに代わったことに気づいた包丁が五虎退の前に飛び出した。何をするのだ、とその場にいる全員がわからずとも結界に手をかけようとしたが、その時だ。何が起きたのかと驚いていた男は、伸ばされた長義たちの主の左手をばちんと払う。その瞬間審神者の指先から血が散って、五虎退が目を見開いて固まり、長義たちは己の主の傷にぶわりと殺気立つ。が、次の瞬間には既に男ははっとしたように立ち上がり、大丈夫ですか、とひどく青ざめた表情で審神者の傷ついた手に手を伸ばす。それを審神者はさっと手を隠すことで遮って、にこりと笑みを浮かべた。
「大丈夫なので、少し離れて。あなた穢れに中てられてましたよ」
「え」
「大丈夫、隔離したから、ちょっとここの職員さん呼んできてもらえますか? 私じゃ祓うの時間かかるので。あ、あとあなたも視てもらった方いいですよ、思いっきり憑りつかれてた」
「えっ、あ、は、はい! すみません、本当にすみません!」

 慌てた様子で男が結界を飛び出し、心配そうな五虎退を連れて走ったが、ふらついた様子で立ち止まると演練会場各所に設置されている非常ベルの一つを叩く。その頃には「主、主!」と刀剣男士たちが顔を真っ青にして自分たちを阻む結界が消えたことで駆け寄って審神者を囲んでおり、しかし審神者は己の刀剣男士たちに自分に触れるなと命を下してひたすらベンチの上にある薄膜に閉じ込められた黒い瘴気に手を翳し睨みつけていた。
 審神者は、非常に優秀な結界術の使い手だったのだ。
 己に悪意を向けた審神者が何かに纏わりつかれていると気づいた審神者は、それを逃さぬように、そして己の刀剣男士たちにあらゆる意味で害が及ばぬよう結界を張り、男に接触することで男に纏わりついた穢れのみを結界に押し込んで分離させ、隔離したのだ。
 自分では穢れを祓うには力不足と判断し職員が来るまでそれを押さえきった審神者は、左手の指先に怪我を負った以外は何も問題ないとあっけらかんと職員を迎えたが、ただ手を払われただけで傷を負ったわけではない。穢れを受けた男審神者の霊力とぶつかり合うことで裂けたのだと、危険な行為はしないようにと救護職員に注意された審神者は清水と消毒液で傷を清められ、問題なしと絆創膏で処置され解放された。それよりも非常ベルが鳴らされたこと、そして穢れに中てられていた男審神者が穢れを一度でも取り込んだ後遺症かひどく苦しみだしたことで場は騒然とし、演練を終えて戻ったその男の刀剣男士たちが半狂乱で苦しむ己の主を前に取り乱したことで、騒ぎを心配した職員に長義たちは本丸へと帰されたのだ。

 帰還後、大丈夫だから休むようにと心配している己の刀剣男士に審神者は解散を促した。顔色悪くしかしそれでも口を引き結んだ長義は、有無を言わさず審神者を抱き上げると薬研の名を叫ぶように呼び、現れた薬研と共に丁寧に指に水が入らぬよう絆創膏を巻きなおしたかと思うと風呂に浸かるよう進言し、その間に端的に事情を聞きに来る刀に説明しつつも主の好きな紅茶を淹れ……戻った審神者の濡れた絆創膏をまた綺麗なものに取り換えると、審神者がひとくち紅茶を飲んだ後に忠言し口論に発展したというわけだ。

 初期刀の国広としては、主がどうして結界で阻んだか、という理由もよくわかるのだ。穢れに中てられた同じ審神者の男が、もし万が一……ではなく現実となってしまったが、主を害した場合。何もしなければ、自分たちはその男審神者を斬ってしまったかもしれない、と。ぱっと見ただけでは、男の纏う穢れに気づいたとしても、それが男の身の内から溢れるものか、外部から憑りついたものなのか、わからない場合も多い。しかし前者であれば間違いなく「斬られて当然」と言うだろうな、と考えてしまえば、主の懸念もわかるというもの。
 主は審神者を害したくもないのだろうが、何より己の刀剣たちに人を斬らせたくもなかったのだろうな、と。
 敵は歴史修正主義者であり、遡行軍との戦いに割って入りこちらにも刃を向けるような検非違使を含んだとしても、決して演練会場で穢れや憑物に囚われただけの同陣営を一括りにはできないだろう。
 刀剣男士にとって唯一無二の主を守るためであったとしても、その武器と力を持つ審神者には審神者のルールがあり、刀剣男士を従えるものとして振る舞えなければ、最悪本丸解体か刀解処分もありえる。ましてあの場には相手の五虎退がいたのだ。そんなことになれば、刀剣男士同士の争いに発展するだろう。

 だが。

 目の前で守るべき主が、それも恋仲で一等大切にしている女が危険に突っ込んで行くのを見る羽目になった本科の気持ちは、など、主を主と見ている国広にとっても考えるまでもないことだった。主を守れず傷つけられる様をただ茫然と見なければならないなど、状況によってはいっそ折れた方がマシである。使い手がいなければ、心を目覚めさせた審神者を守れなければ、刀たちはただの物言わぬ道具であり、心はその時点で死を迎えているようなものだ。

 目の前でくまのぬいぐるみをぎゅうぎゅうに抱きしめている主が今何を思っているのかはわからないが、刀は武器だ。隊を率いる者が武器を置いて敵前に出るなど、あってはならない。
 ……その気持ちは、きっと自分たちと同じなのだろうとは思うけれど。

「主」
「……わかってる。私の行動は将として、審神者としては正しくなかった」
「……僕の本質は黒い感情、復讐の為の刀だからよくわからないけど……きっと、長義さんは、それだけで怒ったんじゃない、と、思う……」
「そう……か、な。それは、私と、お…………はぁ、難しいなぁ」

 きゅう、とくまのぬいぐるみが形を変える。小さく、こちらの胸が苦しくなるような声で呼ばれた名の持ち主は、まだこの場に戻っていなかった。


「政府から入電です」
「つないで」

 こんのすけが姿を現し、くまのぬいぐるみを抱きしめたまま演練について纏めていた審神者が顔を上げると、入電、という文字と共に目の前に映し出されたのはこの本丸の担当の姿だった。
 お疲れ様です、と一通り挨拶すると、演練会場でまた無茶したんですねぇ、とのんびりとした担当が書類を手に困ったように笑う姿が画面に広がる。

「穢れだの澱みだの霊だの演練会場のあちこちに溜めてるのが悪い!」
「おっとどうやらご機嫌斜めのようだ。それで、今回は何を視たんですか?」
「何って、まぁ穢れきった……あれはたぶん、悪意だと思うんだけど。ちょっとなんかごちゃごちゃしててよくわからなかったな。悪霊か、それとも妖か、そうじゃないものが混じっていた気がしたから分離させたんだけど」
「そうですか……結論から言うと、あの穢れはそれこそ悪しきモノや悪霊の穢れの残滓で、憑りつかれた男審神者は敏感な性質だったのかそれに気持ちを引っ張られてしまったようです。あちらの刀剣男士たちは演練会場で戦い始めてから主の様子がおかしいと困っていたようでして。どうやらあまり穢れなどに耐性がないだけじゃなく鈍感であったらしく、本人も刀剣男士も穢れの残滓が体を巣食い始めたことに気づいていなかったらしいんですよ」
「そっか……無事、ですか? 綺麗に悪いモノは分離できた筈なんだけど」
「大丈夫です、命に別状はありません。ただ……」
 担当が何か言い淀む様子に、この場にいた一人と二振りは首を傾げて言葉を待つ。何かよくないことが起きたのか、と緊張しはじめたところで、担当は重い口を漸く開いた。

「何か大事なものがなくなってる気がする、と」
「……? 抽象的だな、何を失くしたんだ」
「それが、わからないのです。ただ、なぜか今彼に霊力減少の傾向が見られています」
「……霊力を、失くしたの?」
「いいえ、小夜左文字様。まだありますので失くしたとはいいきれません。ですが、今なお減少し続けています。そのことにあちらはひどく取り乱しておりまして。……演練会場の職員から見ても、あなたの処置は危険に突っ込んだということ除けば完璧だったそうです。穢れの残滓以外の余計なものなど何一つ奪っていない筈。ですが何か気になる点はなかったかとこうして」
「主が何か盗ったと疑ってるんじゃないだろうな」
「いいえ滅相もないことです、山姥切国広様」
「はっきりしないね、何を言いたいの、あなた」
 国広と小夜の雰囲気が変わったことを察した担当の喉が、ごくりという音と共に上下する。

「……実は、もしあの残滓の悪霊か妖を見たのであればその姿を教えてもらえればと思ったのです」
「……どういうこと?」
「開示許可の下りた範囲の説明となりますが。あちらの審神者殿は、弟を探す為に審神者になったのだそうです。それで、その弟というのが、審神者……本丸を襲撃され亡くなったとされる、まだ幼い子どもです」
「……本丸襲撃」
 その言葉に審神者はさっと顔色を悪くし悲痛な表情を浮かべ、復讐なのかな、と小夜が呟く。
「だが亡くなった相手を探しているのか。……いや違うな、『亡くなったとされる』ということは、まさか遺体が見つかっていないのか」
「そうなります。本丸が襲撃を受けたことは確かなのですが、その後その本丸の所在は不明、こちらとの連絡手段はすべて遮断され、恐らく次元のどこかに流れてしまったもの、と私共は考えています」
 本丸とは現世にあるものではない。協力してくれている土地神の力や二千二百年の科学、呪術、陰陽術などの総力を挙げて作り上げた前線であり、審神者なるものが率いるその隊の本拠地。居城は結界に守られ、そして次元の隙間を揺蕩いその存在を隠す、守りに特化した地である筈なのだ。
 それが襲撃を受け、所在不明。……聞けばその亡くなったとされる審神者はまだ齢十を迎えておらず、血縁者が探したいと訴えるのはある意味当然のことなのかもしれない。

「兄がいてまだ幼い弟の方が先に審神者となったのか……」
「その辺りは、その。……弟さんの方の霊力が高く優秀で、神に好かれる非常に清らかな霊力の持ち主だったそうで。対し兄の方はあまり向いていない、と判断されていたようです。どうも家族の辿った道を聞き、禊や祝詞など必死に覚えて霊力を高め、本人の真面目で善良な人柄もあって少し前にぎりぎり審神者として本丸に着任したのだとか」
「それで霊力が減少傾向にある、となれば取り乱すか……でも私、穢れ以外は隔離してないかな。もしその穢れが弟さんに関連するものだとしても、私は本体を捕まえたわけじゃない。あくまであの場に……演練会場みたいな人の多い場所にたまに見られる澱みに残された穢れを閉じ込めただけだから。それに第一……あの穢れの持ち主ってとてもその、今聞いたような印象の小さい子だったものとは思えないかな。なんというか、若い男なんじゃないかなとは思うんだけど」
「……そうだ、憑りつかれた状態の彼と話したのでしたね。どのような様子でした?」
「私に空き缶投げて転ばせようとした上に、『落としちまったんだよ、さーせんっしたぁ』って」
「えっ、態度悪っ」
「ですよね?」
「よくそれ、山姥切長義様が怒りませんでしたね」
「怒ってたよ……うう、怒ってたんだよ……」
「……なるほど、それで自分とあちらだけを結界の内部に」
「察しなくていい……」
 この担当は長義と審神者の関係を知っているのだ。もし喧嘩されたのなら早めに仲直りしてくださいね、という担当は割とこの本丸の審神者と仲が良く、応援してくれていた一人でもある。
「とりあえず、わかりました。よかったです、弟さんがもし……だなんてあまり想像したくありませんでしたから」
 それは、悪霊となっていたら、という意味だろう。こくりと審神者が頷くと、担当は小さくため息を吐く。
「大太刀様方は? あなたのところではそういった存在にも敏いので、念のため穢れ等が残ってないか見てもらったほうがいいでしょう」
「あー、石切丸たちは遠征に今出てるかな、十八振り、三部隊全部。第一部隊もさっき出陣に出て……。えっと今いるのは……次郎、蛍丸……青江はいるけど、斬らせたりしないよ?」
「もしその幼子が見えたとしても、斬って欲しいわけではないんですよねぇ。いえ、変質してしまっているのならば仕方ないことですが……優しく、刀たちを大事にしていたいい子だったそうです。短刀様方と外で遊ぶことやパズル、ブロックが好きで、噂に聞く鶴丸国永を顕現するのが楽しみだと常々言っていたのだと聞いています」
「そんな幼い子が戦と向き合わなきゃいけない現状がどうかと思うけど……鶴丸かぁ、ということはその子のところはいなかったの?」
「まだ幼いと言うこと様子を見つつの顕現だったのではないでしょうか。何でも初太刀が三日月宗近様だったとか。かなり初期の頃ですし、三部隊分顕現していたかどうか」
「……また演練会場とかでそれらしい子を見かけたら連絡しますよ」
「くれぐれも無茶はしないように」
 それでは、と、また何かあるようなら連絡を入れると言って担当の姿は掻き消える。こんのすけがそれを確認すると、とことこと近づいてきて審神者の指先を気にするような素振りを見せた。この審神者に大層可愛がられているこんのすけはやや他の個体よりも毛艶が良く、しかしフォルムがややふっくらだ。

「大丈夫ですか? 主さま」
「ああ、うん……あっ」
 そこで漸く視線を下げた審神者は、自分が担当と話している間にぬいぐるみを抱きっぱなしであったことに気が付いた。喧嘩したことがばれていたわけである。はぁ、と羞恥に机に額を押し付けるが、今更だとぬいぐるみと強く抱きしめる。
 目元が赤い、とこんのすけに指摘され、机の横にある姿身の位置をずらした審神者はそれを覗き込んで、ああ、と呻いた。……泣いていたわけではないが、我慢はしていたかもしれない。これは長義に見せられない、と一人呟いた審神者が立ち上がり、執務室隣に併設された給湯室へ向かおうとして……ぬいぐるみを置こうとした指先に丁寧に巻かれた絆創膏を見て、躊躇う。そういえば、濡れたものを取り換えてもらったのだった。大したことない浅い傷ではあるが、なんとなく濡らすことを躊躇ったところで、察した小夜が「僕が行くよ」と素早く動き、給湯室から水が流れる音がする。
 ありがとう、と審神者が感謝の言葉を口にした瞬間だった。

 絆創膏に、ジワリと赤が透ける。

「えっ」

 ぐらり、と審神者の視界が反転する。仰向けに倒れそうになった審神者に驚いて、国広が咄嗟にそれを受け止めた。しかしその審神者の指先から、ぷくり、ぷくりと絆創膏から溢れた赤い血がシャボン玉のように浮かび上がる。
 ……異様な光景だった。

「主!?」
「なっ」
「ああああ、主さまぁっ!?」

 国広と、飛び込んできた小夜、そしてこんのすけの声が重なった。バチン、とはじけるような音が鳴り、霊力が視認できるほど膨らんで審神者を覆う。だがそれはガシャン、バリンと砕ける音と共にはじけ、二振りの名を叫ぶ審神者の声が耳に届く。しかし国広と小夜がその目に映したのは審神者の瞳ではなく、くまのぬいぐるみにはめ込まれたグラスアイだ。そして同時に彼らの視点は暗転した。


「うう、いったい何が」
 ぐらぐらと揺れる頭を小さな手で押さえながら、こんのすけが顔を上げた時。そこについ数秒前までいた筈の付喪神の姿も、慕う主の姿も、なく。
 
「……ある、じ、さま……?」

 こんのすけを、その場に残し。ざぁざぁと蛇口から水が流れ落ちる音だけが、こんのすけの耳に届く。小夜左文字が落としたらしい濡れた手拭いが、じわり、じわりとその水を床へと広げていく。だがその場に、落とし主の姿はない。誰からも、返事がないのだ。

「……主さま!? 山姥切国広様、小夜左文字様!? どこですか!? ……そんなっ! 緊急事態発生! 緊急事態発生! 誰か、他の刀剣男士様方はっ、……いないっ!? どこです、どこですかぁあああっ! 主さまぁああっ!」

 管狐の叫び声だけが、むなしく静かな本丸内に響き渡った。



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