あいつの気配がした。
学園長先生の頼まれ事を受け、朝から出かけていた同室者の気配。
こんな夜遅くに帰ってくるなんて、珍しいな。
パタンと読んでいた本を閉じ、障子の外に立っているであろう男に声をかける。


「おかえり、三郎。ずいぶん遅かったね」


三郎は返事をせず、部屋に入って来ようともしない。
不思議に思った僕は、立ち上がって障子に手を添えた。


「…三郎?」


小さく名前を呼び、彼の姿を確認しようと障子を開ける。
が、それはびくともしなかった。
外から三郎が押さえているらしい。


「三郎!どうしたの?」
「…ごめん、雷蔵」
「え…?」


彼らしくない、あまりにも小さな呟きに、思わず聞き返してしまった。
いつものひょうひょうとした声じゃなくて、今にも消えてしまいそうな、弱々しい声。
…何か、あったんだ。


「なんで、謝るの」
「…ごめん」
「何が『ごめん』なの?三郎、ちゃんと顔見て話しようよ」
「ごめん。今は、顔合わせられない」
「…なんで?」


三郎は何も言わない。
沈黙の時間が、僕たちの間に流れた。
空気が重く、胸がキリキリと痛い。


三郎…
お前と僕の間にある薄い障子が、高く分厚い壁に思えてくるよ。
こんなに薄いのに。
この膜の向こうに、お前がいるのに。
とてつもなく、不安になる。


「…三郎。お願いだから、ここ開けて」


じゃなきゃ、わからないよ。
お前が今、どんな事を思い、
どんな表情をしているのか。


「…ねえ、三郎」


もしかして、お前は今、



「……泣いてるの?」



その言葉の直後、勢いよく障子が開き、俯いた三郎が凄まじいスピードで突進してきた。
…いや。
正確に言うと、僕の胸に飛び込んできた。


「いたた…痛いよ三郎」


反動でしりもちをついた僕は、じんじんと痛む腰をさすった。
三郎は黙ったまま、僕の背中に腕を回し、きつく抱きついている。
よく見ると、小刻みに肩が震えていた。
やっぱり、泣いていたんだ。


「…三郎」


名を呼びながら、よしよしと頭を撫でる。
髪型は僕そっくりだけど、感触はどこか違う。
もしかして三郎の本当の髪も混ざってるんだろうか。
そう思うと、少し嬉しくて、
少し 悲しくなった。
僕は三郎のこと何も知らないんだって、改めて、思い知らされる。


「…ごめん、雷蔵。私…」


ようやく口を開いた三郎の声は、震えていた。
背中に感じる三郎の指先に、微かに力がこもったのがわかった。


「私は、最低だ。最低な忍だ。君の、雷蔵の顔で、私…」



…その時、僕の鼻の奥を刺激したのは、生臭い鉄のにおいだった。

…ああ、そうか。
そうだったのか、三郎。
お前は、僕の顔で…


「人を殺めてしまったんだね」
「……っ!!」


僕を突き飛ばすように身を離した三郎は、荒い息づかいのまま俯いていた。
三郎は目を合わせない。
青白いその横顔には、鮮やかな赤が映えていた。


「…私は、最低だ」


三郎は呟く。


「私は雷蔵が好きだ。好きで、好きで、おかしくなってしまいそうなほど君が好きなのに。

私は君を、汚してしまった」


赤く染まった手のひらを見て、三郎は自嘲のような笑みをもらした。
涙と血が混ざり、溶け合ったそれは、ゆっくりと三郎の頬を伝う。


「…ごめん、雷蔵」


三郎の涙は、ぽたぽたと畳にしみを作っていく。


気づけば僕は、三郎を抱きしめていた。



「…三郎、僕もね、三郎が好きだよ。好きすぎて、狂っちゃいそうなくらい、三郎が好き。

だから…」
「…ん…」


ぺろりと、三郎の頬に残る液体を舐めとる。
塩辛くて、微かに鉄の味がした。


「…だから、泣かないで。『忍者』としてのお前の生き方を、責めちゃだめだよ」


言い、三郎を抱きしめる手をゆっくりと緩める。


「…嫌だ」
「え?」


三郎は僕の首に手を回し、そして耳元で囁いた。


「…離さないで。今夜は、私を抱きしめていて」


あまりにも色っぽい声で言うもんだから、僕は言われるがままに三郎の背中に手を添えた。
三郎も、まるで子猫のように頬をすり寄せてくる。


ねえ、三郎。
僕は思うんだ。
『変装名人』として生きていくのは、きっと簡単な事じゃない。
相手を欺き、騙し、油断させ、場合によっては命を奪う。
そうやって生きる苦しみは、お前自身にしかわからない。
どんなに愛していたって、
理解していたって、
結局は、僕らは他人でしかないんだ。


だけど……


「…大丈夫だよ、三郎」


僕は、決めたんだ。
どんな時でもお前が笑顔でいられて、安心して帰って来られる場所を、作るって。


「…雷蔵」
「ん?」
「愛してる」
「うん」


僕もだよ。
そう呟いて、湿った三郎の唇に、そっと僕の唇を重ねた。


三郎の唇は、塩辛い涙の味がした。






涙味の口付けを

whitten by nadeshiko

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