シャワーを浴びて出てきたらタイミングよく携帯が震えて飛び付くように取った。送ったメールは届いたはずだ。だから今さっき終わったアルフレッド出演の番組も、きっと見てくれているはず。
「はい!」
『…はは、うっせえよ』
微かに笑いを含んだ声に思わず顔が赤くなる。まだまだ子ども扱いからは抜けられそうにない。
『にしても、お前突然すぎ。事前に知らせてくれよな』
けれどすぐに咎めるように言われて慌てて謝る。
「ごめんごめん、タイミング逃しててさ。で、どうだった?」
『あ?ああ…』
「何だい、焦らさないでよ!」
アーサーが電話越しにクスクス笑う。ぽたりと濡れた髪から滴が落ちて冷たい。
『よかったよ。ていうかお前モテモテじゃねえか。彼女いないとか嘘だろ』
「ヒーローがモテるのは当たり前じゃないかっ。ていうか、ヒーローは必要ない嘘はつかないんだぞ!」
今日はうちの大学のバスケ部に取材が来ていたのだ。強豪の部のエースなのだから確かに自分は女の子にちやほやされやすい。
それでも本当に好きな人は今電話の先にいる。
『はいはい。ああそうだ、もうみだりにテレビ出たりすんじゃねえぞ』
「へ?何で」
『何でも』
「明確な理由を聞かせていただきたいね」
『…そうだな、例えばテレビを通して世界中にお前のファン作ったら、本命出来たとき大変だぜ?』
「君が一人寂しいのに俺だって恋人なんか作らないよ。ヒーローは平等なんだぞ!」
見えないだろうが胸を張って言うとアーサーが息を飲む。それから小さな声で、敵わねえなと小さく呟いた。
「アーサー?」
『…お前、付き合う前のあいつと同じこと言ってる』
その優しい声に思いきり眉を寄せた。
アーサーのそこかしこには忘れられない人がいる。下らない。早く忘れて、自分のものになればいいのに。
イライラするのを抑えて、努めて静かに言った。
「君はさ、幸せなの?あいつとやらはもう帰ってこないんだろう」
『…、…そうじゃねえよ、アル。帰る帰らないは問題じゃない』
「呆れた。まだ信じてるのかい。バカじゃないの?」
『何とでも言えばいい。あいつは俺の唯一だ』
ああイライラする。
「教えてよ、じゃあその人について。あいつなんて言ってないでさ」
『はあ?バカ言うな』
「バカじゃないよ。教えて。知りたい」
有無を言わせない声に暫く唸ったアーサーは、ついにため息をついた。
『頑固』
「頑固もいいだろ?」
『ったく、しょうがねえな。……猪突猛進で、言うこと聞かないしワガママばっかで、いくつになってもガキみたいな奴だった。…名前は言えない』
「なぜ」
『聞くな。明日はバイトだけだな?この前の埋め合わせに行く』
「アーサー、答えてよ」
『聞くな。探るな。知らないことは知らないままでいいんだ。…おやすみ、アルフレッド』
「アーサー、」
ぶつりと切られる。再度かけても電源を切られて無駄だった。苛ついてベッドに携帯を投げ捨てる。
やはり言わなければならない。手をこまねいていてもアーサーはこちらを振り向かない。
「明日」
明日言おう。面と向かって好きだと言えばきっと何かが変わる。恋人からほんの少しでも目を外せられたらこちらのもんだ。
だからもう今日は眠ってしまおうと、苛つく心中を抑えてアルフレッドはベッドに身体を沈めた。
「ああもう何でこんな日に限ってバイトが長引くんだい!?」
「仕方ねぇだろー。デートなら走ってったらいいじゃん」
「当たり前だろ!」
急いで着替えてロッカールームから駆け出す。3時には終わる予定だったのにもう4時だ。アーサーが待ちくたびれていなければいいが。
少し離れた場所にある駐輪所に向かって走る。さすが土曜日、通りは人が多かった。急がなければならない。
ぐ、と知らない男に腕を掴まれたのは突然だった。
「うわ!」
「やあ、久しぶりじゃないか!姿を見なくて心配してたんだぞ」
親しげに話しかけてくるその強引さにイラつく。人違いにいちいち怒るほど心は狭くないが、今は別だ。
君なんて知らない―――そう言おうとして顔を上げ、固まった。
腕を掴んでいるのは2ヶ月前まで州知事だった男だ。
何故。あまりの驚きに動けない。
「君のことはずっと皆で話してたんだぞ。そうだ、昨日のテレビ見たよ。今は大学生をしてるんだな。これも政治活動の一貫か?」
「政治、活動」
「違うのか?てっきりそうかと…。まあ君が突拍子もないことをするのはいつものことだしな。それでこそ我が母国だ」
「…母国?」
男は快活に笑った。
「どうした、アメリカ。宇宙人にでも会ったような顔をしてるぞ」
何故俺を見ながらアメリカと呼ぶ。
だってアメリカは、国だろう。人でなく。
俺でなく。
家までどうやって帰ったか覚えていない。玄関にはアーサーの靴があった。奥からは話し声がする。
アーサー。アーサー聞いてくれよ。今日、前州知事に会ったんだ。彼は俺を知ってるみたいに話しかけてきたんだよ。そして俺を祖国アメリカと。ついにボケたのかな?まだ若いと思うんだけど。
リビングの扉が開いている。アーサーの声が漏れてくる。
「…だから、大丈夫だ。あいつは問題なく大学に行っている」
アルフレッドは扉に手をかけたまま立ち止まった。
「ああ。…ああ、思い出した素振りもない。俺をイギリスと呼ばないしな。多分もうすぐあいつは本当にすべてを忘れる。俺の仮説はそれからだ」
音を立てないように後ずさる。何故俺がアーサーのことをイギリスと、国の名前で呼ぶんだ。
今、何が起きている。
「アメリカが自分を国でなくただの人間のアルフレッドだと思い込んだら、きっと新たな『アメリカ』の化身が生まれる筈だ」
―――アーサー、アーサー。そんな言い方じゃまるで、俺がアメリカみたいだよ。
頭が冷えて、心臓だけ狂ったみたいにドクドクうるさい。何を言ってるんだろう。どんどん後ずさって、音を立てないように玄関から飛び出した。
走って走って走って、通りに出る。どうしよう。誰に聞けばいいんだろう。何が起きているんだろう。アメリカって、一体なんだ。
くしゃり、とポケットの中で紙が潰れる音がした。取り出すとそれは名刺だった。あのフランシスとかいう男の。
気付けば携帯を取り出していた。
『Bonjour?』
暫くして聞こえた甘い声に堪えていた堰が切れた。
「アメリカって誰」
『…アルフレッド?』
「前州知事にアメリカと呼ばれた。あとアーサーも電話で俺をアメリカと」
『…はあ、それはまた』
「どういうこと?動揺もからかいもしないってことは君は何か知ってるんだろ」
フランシスが電話越しに笑う。癪に障る。
「笑ってないで、」
『そうカリカリすんなって。全てを知りたいなら今すぐイギリスにおいで。金なら心配すんな、お前は空港顔パスだから』
「それは俺が、アメリカだから?」
『さて、どうだろうな』
フランシスが電話を切る。ぐっと携帯を握りしめると、脳内に昨日のアーサーの言葉が蘇る。
(知らないことは知らないままでいいんだ)
躊躇いは一瞬だった。
「それでも俺はまだまだ知りたいよ、アーサー」
呟いたアルフレッドは手を上げてタクシーを呼んだ。
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