放課後遁走曲 | ナノ
// Dans le cas d'un à un garçon de la fret


昼休み開始のチャイムが鳴ってすぐ、図書室の錠を外して、軽くはないガラス戸を押し開けた。ギィ、と音を起てながら苦しそうに開く扉は、いったいどれくらい昔にこうして開けられることを抗議したくなったんだろう。
僕はまず、カウンターに設置された古いパソコンを立ち上げる。新着の書籍の有無を確かめるためだった。今日入ってくる新書が四冊、とすると、新書コーナーに置く紹介文を書かなくちゃいけない。どうせだから、昼休みのうちにやってしまおう。今日の当直は……僕と久作だ。久作も、もうすぐ来る頃だろう。
うちの学園の図書室には司書さんがいないので、僕たち図書委員会が全般的にこういう整理やら何やらを任されている。そのうえ、顧問の松千代先生は大変恥ずかしがり屋でいらっしゃって、それが高じたあまり、なかなか姿を見せようとしない。と、なんだか一聞しただけでは学校側からは見放されたような、それこそ一方間違えたら無法地帯になってしまいそうな扱いに感じるが、我らが図書委員長率いる図書委員会はそれを許さない。
だからか、漫画はいつからあるのか分からないが「あさきゆめみし」しかない。それがあるなら「ベルサイユの薔薇」も置いてもいいんじゃないだろうかと思うけれど、わざわざ進言するほどのことでもなかった。ちなみに言えば僕はどちらも読んだことは無い。
ついでに、貸し出しデータのチェックもする。延滞はいつものように、潮江文次郎先輩だけ、と、しかし、珍しくもう一件。


「鍛冶邸さん…?」


こと更に珍しい名前だと思った。鍛冶邸鶯さんは殆ど毎日図書室通ってる女の子だ。クラスは隣の二年三組、いつも図書室の窓際の席の左から三番目に腰掛けて、山のように積んだ本を黙々と読んでいる。毎日三、四冊借りて帰るのに、次の日には必ず返却してくれるのがふつうで、延滞なんてしないハズ、……と、よくよく確認してみたら、やはりただの誤表示だった。
鍛冶邸さんの名前がこうして表示されているのは、唯の偶然だけではなく、彼女がそれだけ多くの本を借りているということだったのだろう。

鍛冶邸さんとは、三年前に一度同じクラスになったことがある。彼女が三郎と幼なじみで、家が隣どうしだということを知っている。何度かちょっかいをかけていた三郎を諫めたこともあったと思う。中等部の二年生だったそのとき、彼女は確かハチと同じ生物委員だった。昼休みに掃除とエサの世話をするのに、一度、三郎と一緒について行って、うさぎを触らせて貰ったことがあった。ぼってりとした体格の良いネバーランドラビットを撫でる、やさしい笑顔がとても印象に残っている。
それから他に知っていることと言えば、いつも図書室を利用する鍛冶邸さんは、本を返す時に返却棚ではなくて直接本棚に返すというこだわりを持っている、ということだろうか。あとは、読む本も返却棚から選ぶことが多くて、ジャンルにはこだわっていない様子で……と、返却棚に返さないのが鍛冶邸さんの習慣であることは間違いないと思うんだけど、返却の手続きをするときに「返却棚にお願いします」と言うべきなのか、言わないべきなのか、うーん、迷う。


「教室にいないと思ったら……当直だったのか」
「、三郎」
「何に迷ってるんだ?」


……、三郎に話すべきなのだろうか。


「余計迷うなよ」


三郎はそう苦笑して、カウンター越しに僕の肩をぽんぽんとたたいた。僕は迷うことを放棄して、素直に訊いてみることにする。


「いつもさ、返却棚じゃなくて、本棚に直接本を返してくれる子がいるんだけど……返却の処理が済んだとき、“返却棚にお願いします”って言うべきなのかな?」
「……」


しばらく間を置いて、返ってきた答えは望ましくないものだった。


「さあな」


それから、三郎は僕にそっくりなその顔で面白そうににんまり笑って言う。


「そんなとこまで、良く見てるのな。いちいち手続き済んだ後の事まで、気にしてるのか?」


名前を出した訳でもないのに、どうしてそうも面白そうなのかはわからないけれど。
しかし三郎の言うことも、あながち間違っていない。
図書室の利用者がそこまで少ない訳では無いし、そう、三郎の期待通りだ。

僕は、きっと、鍛冶邸さんのことが好きなのだろう。

だから、言ってしまえば、当直の日は、このカウンターからぼんやりと窓際左から三番目の席を眺めていることが多い。付け足せば、彼女の習慣は、僕たち図書委員に対する心遣いから来るものなのだろうとも知っていた。それから、時々彼女が貸し出しカードの整理をしてくれていることも。

三、四冊の本を抱えながらガラス戸を押し開けて、図書室へ入ってきた彼女に投げかける、一聞、何でもないような挨拶。
寡黙な一人の活字少女が微笑みと一緒に応えてくれただけで、彼女は、この図書室に鎮座する何千冊もの本に綴られてきた膨大な伝承さるべき事象たちより、僕の心をはるかに豊かにしてくれるのだ。






(で、三郎。何かあったの?)
(おあ、そうそう、それがさあ、)
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