放課後遁走曲 | ナノ
// Dans le cas d'une fille de la littérature


図書室の空気が好きだ。
紙が古くなった様な臭いが、何故だか心を落ち着けてくれるからだ。私はいつからだか、殆ど毎日、図書室に通っていた。
学園の中はいつもどこも騒がしいにも関わらず、この図書室だけは別の話だった。校舎の一階、一番端に位置しているせいか、グラウンドのボールを蹴ったり打ったりする音やらテニス部のランニングの掛け声やらがとても遠く聞こえる。図書室の中は委員長の呼びかけで沈黙が保たれていて、まるで都会の喧騒から離れた田舎みたいだった。
窓際の、左から三番目が私の特等席である。陽があたってぽかぽかと暖かいその場所で、本を広げるのだ。ちなみに夕暮れの閉館時間まで影が出来ずに陽があたるのは、この席と、もう一つ右から三番目の席だけだった(そしてその席といえば、いつもは中等部の図書委員の女の子が特等席にしている。昼寝にも絶好のポイントと言えよう)。

私は今日もこの図書室に入り浸ろうと、終業のチャイムとほぼ同時に教室の席を立った。机の中から取り出した文庫本は三冊、どれも昨日のうちに読み終わっていた。途中の廊下で、鉢屋三郎とすれ違う。足をかけられそうになったからボディブローを入れてやった。ざまぁみろ。私の行く手を阻むからそうなるのだ。
鉢屋三郎といえば、この学園の、私の同学年で最も有名な六人組の一人ということで有名だ。美男子五人に、これまた抜きん出た美女が一人。髪の毛が紅いから、この女の子はたいそう目立つ(文字通り、紅一点というわけだ)。蛇足だけれど、私と彼女とはちょっとした知り合いである。性格はとてもとてもサバサバした寡黙なひとで、他の五人と同様にして、女性ファンが多い。多分ひょっとするとこの六人の中で一番男前かもしれない。
さて少々話がずれた。私は図書室のガラス戸を押し開ける。ギィ、と年季の入った音を起てて、嗅ぎ慣れた図書室の空気が私を包んだ。とても幸せな気持ちになった。


「鍛冶邸さん、こんにちは」


ひょいとカウンターからかけられた声に、たちまち頬が熱くなる。抱えていた三冊の本をうっかり落としそうになったのを、ぐっとこらえて私は言った。


「こんにちは、不破くん」


とりあえず、上擦った声でなくて、良かった。今日もふんわりとした笑顔の不破雷蔵くんは、何故だか鉢屋三郎と全く同じ顔をしている。他人の空似というやつなのか、はたまたドッペルゲンガーなのか(だとしたら鉢屋三郎の方が分身に違いない)、しかしそれにしても双子のように似ているから、だいたいの人は初対面だと間違える。けれど不破くんは鉢屋三郎の様に突然足をかけて来たりはしない。柔らかい笑顔が素敵な、とてもやさしい男の子だった。私と不破くんとは特別仲が良いわけでもない。クラスだって違ううえに、中等部の時一度同じクラスになったことがあっただろうか。だからか、名字は知っていて、彼の性格からかいつもあいさつをしてくれる。そういえば、鉢屋三郎がちょっかいをかけてきたのを諫めてくれた事が何度かあっただろうか、その位の仲だった。所詮、顔見知りである。


「…返却手続き、お願いします」


おずおずと差し出された本たちを、不破くんはやんわりと受け取ってくれた。
この図書室のシステムに乗っ取って、彼は本の裏表紙についたバーコードをそれぞれ読み込んで、返却が完了したことを確認する。


「どうぞ」


返却棚にお願いします、と事務的なセリフを付け足した不破くんの笑顔と一緒に、差し出された本を受け取るだけなのに、こう自分の動きが不自然な気がしてならない。

きっと、多分、私は彼のことが好きなんだろうと思う。

だから、見ていたいと思う。不破くんの笑顔を、遠くからでいいから。
好きだからといって、付き合うだの、何だの、そういう興味はまるで沸いてないから不思議だと我ながら思う。
ただ偶のすれ違いざまに、挨拶を交わせただけで、心が弾む。
それが、うれしいのだ。

だから図書室に通うのは、不破くんが目的なのではなくて、こちらはちゃんとした習慣であることに、間違いは無いと断言出来る。図書室に来る一番の目的は、昔も今も、本を読むことだ。人類の築いてきた英知を知るには、読書が一番手っ取り早いと誰かが昔言っていたが、まさしくその通りだと思う。
抱えていた三冊の本を、返却棚ではなくて、それぞれもとあるべき場所に返して、それから席に着くまでに、返却棚から、適当に十冊ほど抜き出した。
私の放課後はこうして始まる。






(好きなのだろうか)
(多分、そう)

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