紅槻衆の新頭が去って、何事も無かったかのように再び衝立の向こうに戻った紅槻に鉢屋は言った。 「お前、まさか…」 「そのまさかだ、私は……頭を殺して自由を手に入れた」 もうその目は、何も映してはいないのか。 淡々とした口調で続けた。 「後悔はしていないし、お前が気にやむ必要もない。私はただ、私の、エゴを押し通したんだ」 「……そうか」 なにも咎める事では、無いだろう? ただ、彼女が、 「自責に、駆られるなよ」 「いや……ああ」 立ち上がって、医務室の扉を開けた。 乾燥した、冷たい空気が流れ込んで、彼女の胸のうちの蟠りを丸め込んで、溶かしてくれればいいのに。 「……、紅槻の母さん」 「おや……、これは有り難い」 振り返ってその面が、驚いた風に見えたのは気のせいだろうか。 「何の用です?」 「あの子に、これを」 先ほどの包みを鉢屋に手渡す。解いてみれば、幾十枚もの金(学費とある程度の生活には困らなさそうだった)と、液体の入った瓶。 「目の、解毒薬に御座います」 「私はあなたを信頼していいものかと」 「ご自由に。但、放って置くだけで視神経は解放されませぬぞ」 「……効果は」 「速効性で御座いまして。貴方なら、娘に一服盛ることも可能でしょう」 「なんでそんなことを言い切れるんです」 「いたく貴方の事を大切にしているようでした。信頼も」 「していない、と思いますが」 「あまりそう卑下なさるな」 くっくっ、と、狐の様な笑い声が聞こえて、顔を上げると、その鳶色の瞳がじっと鉢屋を見据えていた。 「その化けの皮、あの子にはとうに通じていなくてよ」 「……知ってます」 「それは上乗」 鉢屋の顔に、自分の狐面を被せ。 「それではまた、ご縁が逢えば」 ひらりとその身を翻して、女は音もなく去ったのだった。 鉢屋はその狐面の下で、落とすように呟いた。 「……アンタの方がよっぽど化け物だよ」 その呟きまで、彼女の耳に届いただろうか。 「なんつーか、そもそも……」 両手を広げて、掌中の空虚を眺める。 「私だけ名前で呼ばれてないしなあ」 気づいてそうしているんだろう、恐らくは。 性質が悪いな、と息をついた。 それならば、此方も。 「……さて、」 部屋に戻れば、変わらず絡繰を弄っていた紅槻の名を呼んで、振り返った彼女の口元に、瓶の口を無理矢理押し当てる。 「ん゛……むう!!」 口を塞ぎ、鼻を摘んで。飲んだのを確認してから手を離すと、鳶色のその目は虚ろだった。 「な…何をするっんだ…馬……鹿も…の……」 「紅槻?」 ばったり倒れたかと思えば、どうやら眠っているようである。ふうと安堵の息を洩らして、布団に寝かし直す。 その傍らに腰を下ろして、寝顔を眺めながら、思いに耽っていた。 悔しいことに、それでも。 全てが、愛おしいと思った。 午後の日差しが、衝立の向こうで煌めいていた。 [*] | [#] |