鉢屋三郎は疾走していた。 どうしようもない焦りとぶつけることの出来ない憤りに駆られて、走り続けた。 紅槻は西の方に去ったらしいと、学園長に聞いてから、駆けに掛けて。 何時しかの桜を過ぎた頃の事だった。 「……」 鉢屋は、目を見張って、息を呑んだ。 紅槻だった。 体中に巻かれた包帯には所々血が滲んで、足取りは覚束ない。大分、痩せたようにも見える。月に照らされて、その姿は一層儚げに見えた。 「紅槻!!」 「……鉢屋?」 紅槻はこの事実を俄かに信じられなかった。 何故彼がここにいる? そんなに学園に近づいているとは思わなかったし、そんな筈は無い。しかし急ぐに急いだその鼓動は、彼だと確かに記憶されていたもので。 後ろから抱き締められては、朦朧とした意識の中で更に混乱した。 「じ…自主練か?」 「馬っ鹿かお前は!!」 「は?」 「頼むから……もう傷つかないでくれ……」 知っているのだろうか? だとしたら、何故。 学園長が、教えたのだろうか、いやまさか。 「あの……」 「何だよ」 「何の話だ?」 「は?」 「実家でモノ食えないくらい忙しくて、その帰りに戦に巻き込まれただけだぞ、私は。そんなに痩せただろうか」 「嘘つけ馬鹿」 「……」 どうやら、シラを切り通す事は出来ないようだった。折角、学園ではこう通そうと考えていた言い訳だったのに、これでは台無しだ。 「……おい、何で知ってるんだ」 「知ってて何が悪い」 「答えろよ」 「……」 今度は、鉢屋が黙る番だった。学園長に聞いたと言えば学園長に悪い。けれど密書を盗んだなんて言えば、殺されそうな気がした。 「……落ちてたんだよ」 「はあ?」 「お前が読んでた、密書だろう?一冊落ちてたんだよ」 「んな筈無いだろう……私はあの時全部燃やした筈だけ…」 ――…一冊、足りなくはなかったか? 「……」 「どうした?」 「大馬鹿者!!盗んだんだな!?」 百八十度身を翻して、胸倉を掴むと、揺さぶられた鉢屋は両手を挙げて抗議する。 「いや……いやいや!!断じて!!」 と、その時。 がしょん、と、音を立てて、人形が動く事を諦めて、時が止まる。 はあ、とため息をついて、紅槻が鉢屋の胸倉から手を離した。 「……捲いてやってくれ」 「何を」 「壱之姫の撥条だ。どこにあるかは、知ってるだろう?」 そう言った彼女は、人形のある方の空を見つめて。鉢屋は怪訝な顔をした。 「あ?ああ、……なあ、お前、」 「いや、まあ、その……目が見えなくてな、別に不便はしないんだけど」 するだろ!!と喉まで出掛かった言葉を飲み込んで、鉢屋は壱之姫の撥条を捲いてやる。こちらの人形にも生々しい傷や誰のものか分からぬ血痕がまざまざと残されていた。突っ込みたい所は山ほどある。だけれど、それよりも手当ての方が先決だろう。鉢屋は紅槻の手を取って、頬が熱くなるのを感じながら言った。 「……帰るぞ」 「なあ……鉢屋」 「?」 「なんだ、その……ありがとう」 「何にだよ」 「色々。今の私がいられるのは、お前のお陰だから」 紅槻は振り返った鉢屋に向かって、眉尻を下げて苦笑した。 一気に紅潮した彼の素顔が紅槻に見えていなかったことが、鉢屋に対する唯一の救いだった。 [*] | [#] |