紅 | ナノ



雲が無く、且つ月も今夜は姿を隠す。仄かな星灯りだけが暗く夜空を彩っていた。

――そろそろか。

紅槻紅凪はいつもの作業場で立ち上がった。この日ばかりは鉢屋の相手も出来ないし(する必要も何も、今や鉢屋はすっかりこの場に来なくなっていたし)、約束の刻限はいつもよりも一刻早い。

「玖拾玖姫、弐乃助、行こうか」

人形相手に、呼ぶだけ無駄だとは分かっている。けれど口から言葉が流れてしまうのは、いつものことで。

「まあ……」

苦笑して、この時ばかりは、と甘さを自戒する。こちらも、いつものことだった。
学園の土塀を越え、星灯りを頼りに約束の場所へ塀沿いに歩く。恐らくは小松田さんでさえ起きてはいない時間だし、職員室の明かりすらも、何もかも消えてしまった後だ。それに加えて新月の夜半過ぎでは自主トレをしている生徒すら少ないし、図書委員が徹夜で図書整理したり、会計委員が徹夜で決算したりするのも新月の日ではないことが多い。
今宵も、ただ秋風が流れては徐々に色づいてきた木の葉を揺らすのと、どこかで山犬の吠えるのが聞こえるだけだった。
暗闇は嫌いじゃない、と紅槻は思う。
彼らは、何も訴えてこない。息を潜めて呼吸する。忍に、似ている。

「紅凪殿」
「……」

紅槻に話し掛けたこの人物。
壱之姫やら、弐乃助やらの、紅槻の作った人形が、普段顔に填めている狐面と、色違いだが同じ模様の面を被っていた。名前は忘れてしまったが、紅槻衆の材猟処(ざいりょうどころ)の人間だと紅槻は記憶している。新月の夜に人形を引き取り、その月の分の人形用の材料を置いていくのが紅槻衆での役割で、いつものように見窄らしい格好をしている。すりきれたような麻地の衣に、ほとんどぼろのような足袋を履いて、重そうな行李を背負った女であった。

「玖拾玖姫。袖箭仕込み」
「如何な出来で」
「中の、上……。骨が小さくてこの大きさは造り難い。ただ、これ以上に骨が大きいと重すぎるから、どうしても強度に劣る」
「ふむ、骨そのものの軽量化を謀るべきですか」
「試行では、袖箭はなかなかだった」
「ほう」
「音がせず、殺気も感じられぬそうだ」
「…………それは、何方かとご検証を?」
「いや……、この前の実習に使ったまでだ」

弐乃助で玖拾玖姫の撥条を外しながら、紅槻は話を続ける。

「それで、一刻早まった理由は?」
「紅凪殿、先に御訊ね申し上げましたが、“人間”と、深くお関わりになられて?」
「……いや」
「情をやったことは」
「……無いが」

それでも探りを入れんとする狐面に、睨んで少し強めに言う。

「お怒りにならさらぬな……只、忠告に申し上げます」
「忠告……?」
「あまり、人情に流されるべきではございませぬ。忍の三病が一が故、尚更。ワタクシめからの、忠告でございます」
「“ワタクシ”……?本家、では、なく?」
「ワタクシは、紅凪殿の為を思っております故、どうかそれを忘れぬ様」
「……」
「それから」

玖拾玖姫を台車に積んでは、包みをそれから取り出す。今月の材だろうか、それには軽そうに見えた。

「今宵は秋休みも近いとの事で、材はお持ちして居りませぬ」
「それは」
「絡繰りやら、材やらの書物にございます」
「……」

口で言えぬ内容なのだろう。恐らくは暗号文だ。
そして。木の葉に紛れて潜み、殺せるだけ殺された息に、この恐ろしく耳聡い二人が気づいていない訳が無かった。

「それから。ワタクシめがこの場に材を届けに参るのも、宵が最後に」
「そうか、ご苦労」

そう言って―――言ってから、ふと思う。
自分は、労いの言葉をかけるような、人間だっただろうか。

「その言の葉、"有り難く"受け取りまして」

狐面のまま、何故か、その下が。
嬉しそうに、笑ったかもしれない。


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