紅 | ナノ



食堂から一旦自室へ戻って来た不破雷蔵は、先に戻ってごろんと畳の上に転がって干菓子をつまんでいた鉢屋三郎に口を開いた。

「ねぇ君、三郎……じゃないよね?」
「?何言ってんだ、雷蔵」
「うん、三郎じゃない」

いつもは迷ってばかりの癖に、今日に限って酷く冴えてる。そう心の中で悪態をついて、鉢屋三郎は顔をしかめた。

「……私の変装はどうやらまだまだらしいな」

声だけ戻して、紅槻はため息まじりに降参した。

「ああ、紅槻だったのか」
「ん」
「どうしてまた」
「鉢屋がやろうやろうと五月蠅かった」
「そっか」

そして会話は途絶える。普段の口数が妙に、いや、極めて少ない紅槻だったから、おそらく、普段の鉢屋程の絡みを演出しきれなかったのだろう。まもなく不破は黙り込んだ紅槻に話しかけるべきかせざるべきか悩み始めた。その一方で、どこからか取り出した作成中の作法委員の予算案に、黙々と筆を進める紅槻。どうやら鉢屋三郎の顔のまま、つまり不破雷蔵の顔のまま、変装を中断するつもりは無いらしい。
予鈴が鳴って、そろそろ教室へ向かうかと思い、紅槻は不破を振り返る。

「……」
「すー……」
「……」
「……ぐー」
「……」
「……スピー」

腕を組んだまま、眠っていた。
起きるかと思っていたのだが、そうでも無いらしい。そろそろ教室に向かわないことには、遅刻はあまり褒められたものではないと、紅槻の中にしみついたい組根性が顔を出す。起こすことに決め、不破の体を少々強く揺さぶった。

「……起きろ」
「ふ…あぁ、ぁ、れ?」
「……予鈴が鳴った」
「起こしてくれたの?」
「遅れるのは、不味いだろう」
「ありがとう」

不破は嬉しそうに微笑んだものだから、紅槻は目を見開いて、つい、目をそらした。
――ありがとう、なぞ、初めて言われた。
有難う、有り難い、つまりは、遭遇し難い場面に感謝する言葉でありながら、お礼の言葉である。そう、大分前にその言葉を知ってから、何度使っただろう。数える程も、使っていなさそうだった。

「どうかした?」
「いや……、なんでもない」

苦笑してみせた鉢屋三郎は、目を細めて、引き戸をがらりと開く。空は澄んで青い。
本鈴が鳴るまでの時間は、そう長くも無さそうだ。


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