[追記]

さて、厨を離れた燭台切の頭の中には既に候補が何人か上がっていた。それと同時に主の様子を伺うべく声をかける人物のピックアップにも抜かりはない。誰と先に会うかは多少の問題になりそうだが、それも些末な問題にすぎないだろう。

「燭台切さん、おはようございます」
「おはよう前田くん」

道すがら出会ったのは、どちらの候補にも入っていたが、片方の候補には入れがたいと思っていた前田だった。

前田本人にはなんの問題もない。短刀故か人当たりもよく物腰も柔らかい、己が使える主の為に刀を振るう忠誠心、内番もそつなく熟し、はては家事まで熟す器用さを見せている。そんな彼が唯一気に病んでいることは、敬愛する主に距離を置かれている事だった。
そんな彼を厨に誘うべきか主の様子を伺いに向かわせるべきか、悩んでしまったのは燭台切のお節介な人柄故だろう。

「主のこと見かけてないかな?」
「はい。ここに来るまで主君のお姿をお見かけしていませんが、なにかありましたか?」
「まだ厨にいなかったんだ。だからどこかで誰かと話し込んでいるのかと思ったんだ」
「それは珍しいですね」

真剣に悩む、と言うより心配している前田はそのあどけなさからどうしてか愛らしく見えてしまう。

「よかったら主の様子を見てきてくれないかな?」
「僕が、ですか?」
「うん。ついでに、長谷部くんに会ったら厨に来るように伝えてほしいな」

燭台切は迷っていたものの、結局主の様子を伺うよう促してしまった。その道中で候補者に声をかけるよう言ったのも、朝餉の時間が差し迫っているからだ。
少し迷った素振りを見せたが、前田は二つ返事で請け負うと、燭台切に背を向けて小走りにその場を離れていった。この事を厨にいる歌仙に話せば「相変わらずのお節介だな」と笑われるのは、なんとなく燭台切にもわかっていた。

前田は燭台切の言い付け通り、長谷部の姿を探しながら廊下を歩いていた。時折すれ違う兄弟や他の仲間に長谷部へ言付けを頼みながら進むのは、近侍の使っている部屋へ向かう道だった。
主は普段離れで生活をしている。生活しているとは言え、食事の時は必ず皆と広間で食べるし、短刀や遊び好きな刀が遊びに誘えば喜んで離れから出てくるので、離れまるごと主の部屋と言うような感じだ。執務室にだって様々な刀があれこれ理由を付けては訪ねるから、けして近付きがたい場所ではない。しかしそれでも[主の私室]には殆どの刀が足を踏み入れていない。
これといって決まり事があるわけではないが、初期に顕現された刀以外はあの悪戯好きな鶴丸が忍び込んだくらいだ。当の鶴丸はなにかとんでもないことをやらかしたのか、普段温厚な主にこっぴどく叱られて以来、私室には一度も踏み込んでいないらしい。そんな主の私室に踏み入ると言うことなど、前田にはとてもではないができるものではなかった。

そんな前田が向かった先は近侍の使う部屋だった。
初期刀としてこの本丸に顕現され、主との距離感が最も近い。きっと主の私室に入ったこともあるだろうと考えての選択だった。

「ばんばさん、いらっしゃいますか?」

もし既に部屋にいなかったらどうしよう。そんな僅かな不安を抑えて声をかけると、静かに襖が開かれ近頃見慣れはじめた金髪が見えると、前田は人知れず胸を撫で下ろした。

「なにかあったか?」
「主君が厨にいらっしゃらないと燭台切さんが言っていました。それで、様子を見てくるように仰せつかったのですが…」

前田の言葉は不自然に途切れたが、山姥切にはその続きがわかっていた。しかしそれを正しく汲み取るかどうかは別の話。

「わかった。薬研をつれて離れに来い」

山姥切は廊下に出て障子を閉めると、幾分も低いところにある前田を見下ろしてそう言った。
きっと山姥切だけが向かうだろう。そう思っていた前田には寝耳に水な言葉だった。弾かれたように見上げても、山姥切が言葉を撤回する様子はない。

「…わかりました」

自分よりいくらか背が高く、薬草の香りの残る白衣を身に纏った兄弟を探すべく、前田はまた廊下を歩き始めた。山姥切はそれと反対に、床板を軋ませながら離れへの道を進み始めた。

山姥切から言わせれば、離れはそれほど特別な場所ではなかった。方向感覚が狂っている主の手を引いて歩いた回数は数知れず。何も考えていないようで存外考え込む性質らしく、度々引きこもっては塞ぎ込むのを引きずり出した事もある。少しの事で臍を曲げ、少しの事で機嫌を良くする。良くも悪くも、彼らの主はただの人間だった。

離れの二階。主が私室として使っている部屋へ辿り着くと襖の前に膝をついて声をかけた。しかし返事はない。気配があるので部屋にいることは間違いないが、珍しく寝過ごしたのだろうか。こうして寝過ごすことは多くないが、全くないわけではない。布団をひっぺがして叩き起こすか。そう思い腰を上げようとしたときだった。

小さく、本当に小さく咳き込む音が聞こえた。
咳き込むと言うのは、喉になにか詰まったときや、気管支に異物(固形物の他、煙等も含む)が侵入したときに起こる反射的なものだといつだったか酷く咳き込んだ主に聞いたことがあった。
それが寝ているときに起こるとは聞いていなかったが、起こるものなのだろうか?それは考えたところで山姥切にわかることではなかった。早々に考えることを諦めると、潔く襖を開くことにした。

部屋の中は飾り障子の影が写る程度には明るくなっていた。そして襖に遮られていた咳き込む音が二つ三つと耳に届いた。

「主、厨にいないと燭台切が心配していたらしいぞ。どこか悪いのか?」

するりと近寄って声をかけるが、苦しげに浅い呼吸が繰り返されるばかり。なにやら顔色もいつもと違う気がする。何かがおかしいと山姥切はわかったが、何がおかしいのか全くわからない。少なくとも、布団をひっぺがして起こそうと考えていたことはどこかに霧散して消えていた。

「主」

人間が脆く弱いことはよくわかっていた筈だった。怪我をすれば自身と違い手入れで直らず、非常に時間がかかることも知っている。それを忘れさせるようにいつも笑いながらあれやこれやと動いているものだから、いつしか主は強い人間だと思い違いを起こしていた。
しかしそれは思い違いでしかない。主は人間だ。刀である己とは違い、些細なことで死んでしまう。そう思った瞬間、えも言われぬ恐怖に襲われた。

「主、主起きてくれ、主」

山姥切はいままで一度だって躊躇ったことがないのに、主に触れることができなかった。刀である己が触れたら、主が死んでしまうのではないかとありもしない考えがよぎったからだ。

「旦那、大将の様子はどうだ?」

不意に聞こえた声に肩を揺らしたが、開きっぱなしだった襖を振り替えればその力も抜けた。

「どこか悪いらしく、呼吸が浅い」
「ちょっくら診てみるか」

そう言って薬研は戸惑うことなく山姥切と反対側、主のすぐ脇に腰を降ろすと、手にした医療器具なんかが入った箱を開いた。

「お前もこっちに来たらどうだ」

いまだ襖のところで立ち尽くしていた前田に声をかけると、兄弟である薬研とは異なり恐る恐るといった様子で部屋に足を入れた。

「襖は閉めておいてくれ」
「はい」

主の寝間着を寛げなにやら音を聴いているらしい薬研の指示のまま前田は襖を閉めると、山姥切の隣に腰を落ち着けた。

「主はどうだ」
「風邪だろうな。大将、辛いかもしれんが起きてくれ」

簡単に寝間着を整え布団を被せると、薬研は主の頬を軽く叩いた。その軽い衝撃を受けて、主の瞼が震えた。

「大将、話せるか?」
「っ…ゃげ…」
「無理しなくていい。喉を見たいんだがいいか?」

薄暗い部屋の中で、主のいつもより水分を含んだ目だけが細かく光を反射していた。
主が小さく開いた口の中に、鈍く光る銀の平たい棒が差し入れられた。前田は見たことのない器具に驚いたのか、それとも主の口の中に金属と思われるものを入れることに驚いたのか、小さく体を強ばらせていた。
それから首を触ったりしてなにやらわかったらしく、ひとつ頷いた。

「旦那、下から水を湯飲みに持ってきてくれ」
「わかった」

それまで前田の隣でどこかそわそわしていた山姥切だったが、薬研の言葉に修行後に飛躍した起動を生かし部屋を出ていった。
残された前田は器具を片付ける薬研を見ていた。

「あの」
「ん?どうした」
「主君は、なにか大病を患ってしまったのでしょうか」

意を決したと言わんばかりの面持ちでそんなことを問うた前田に、薬研は噛み殺しきれない笑いが溢れた。

「わっ笑い事ではありません!」
「そうだな、悪い悪い。旦那が戻ったらちゃんと説明するから落ち着け、大将に障る」
「すみません」

途端に静かになった前田に、今度こそ声を噛み殺して薬研は笑った。
この本丸の誰もが主と前田の歪さに気付いていた。しかしその理由を知っているのは初期に顕現されたほんの数振りだけだ。

「持ってきたぞ」
「ありがとな。大将、起きれるか?」

どこか落ち着かない様子の山姥切と前田を他所に、薬研は咳き込みながらもゆるゆると体を起こす主を手助けながら、山姥切から受け取った湯飲みを主に寄せた。

「ごめんね…ばんば、ご飯どうなってる?」
「燭台切が進めている」
「よかった…前田くんもごめんね。誰か、頼まれたんだよね」
「いえ、僕は…」

確かに燭台切に様子を見てくるようにと頼まれたが、主が厨にいないと聞いて心配したことも事実。しかし、距離を置かれているとわかっているなら、自分はここにいない方がよかったのではないかとも考える。実際こうして部屋に踏み入り居座っているのだから今更どうこうできるものでもないのだが。
そんな前田の心配は他所に、主は薬研に支えられたまま鈍い頭を回し始めた。

「もうみんな広間に集まる頃かな」
「は?」
「連隊戦はまだしばらく続くから、今日も進めよう。部隊は昨日までと同じ編成で。タイミングも基本同じでいいかな…でも無理はしないように。希望者がいれば部隊の入れ替えも検討するよ。それから内番だけど」
「大将、今の状況わかってるか?」

浅い呼吸のままいつものように一日の予定を話始めるものだから、一同は一瞬面食らってなにも言えなくなっていた。中でも一番に口を挟んだのは、主の診察をした薬研だ。

「あんたは今風邪を引いてるんだ。しかもそれなりの高熱が出てる。今日くらい、なにも考えずに休んでいいんじゃないか?」
「それは出来ない。こんな状態で説得力もなにもないけど、今は戦争をしてて、私は頭張ってるんだから、一人でのうのうと休んでられない」
「そんな真っ赤な顔して泣きそうな目で、しかも俺っちに支えられないと座ってもいられないのになに言ってんだよ」
「こんなの直に落ち着く」
「主、俺が皆に指示を出そう。だから今は大人しくしていてくれ」
「そうもいかないよ。私がやらなきゃいけない私の仕事だ」
「あの!」

頑として話を止めそうにない主を止めたのは、小さく姿勢を正し続けていた前田だった。

「不明瞭な戦況に、政府から増員される戦力。主君は、僅な休息を取ることすら不安に感じていらっしゃるのかもしれません。しかし、ここで主君が倒れてしまっては元も子もありません」

顕現してからこの方、妙な距離感から前田が主にはっきりと物申したことはなかった。勿論その逆もしかり。そんな前田が説教じみた言葉を言うなんて少しも予想していなかった。

「ご無礼を承知で申し上げます。主君、本日だけでもいいので安静にしてお休みください」
「まぇ…」

そう告げた前田の目には、はっきりとした意思が宿っていた。今までの探るような不安定な目はそこにない。それはかつて厨でケガを心配し、共に並んで立っていたあの時の目とよく似ていた。

「前田もそう言ってるんだ。今日くらいは休んだってバチは当たんないだろうさ」
「でも」
「そもそも、こんな状態で出ていったところで前田と同じ様なことを言う奴しかいないだろうな」

薬研の言うことも尤もだ。
この本丸には、当然だが主を慕うものが多い。それに程度はあれど、見るからに体調不良な主を見たら問答無用で布団に押し込む顔がいくつか思い浮かんだ。特に、本丸の母親ポジションに収まっている数振りからは、くどくどとしたお小言もついてくるだろう。

「大将の今日の仕事は大人しく寝てることだ。なに、さっき言ってたことはこなしておくから心配するな」
「心配しなくても必ず良い報告を持ってこよう」
「主君」

どう言ったところで、目の前の三振りは意見を変えないだろう。鈍った頭ではあるが、そう主が判断するのに時間はかからなかった。けして鈍った頭で語彙が低下したからでもめんどくさくなったからでもない。

「わかったよ。今日の事は三人に任せるよ」

主がそう言ってからの三振りは早かった。

「主、他に伝達することはないか?」
「食いたいものはあるか?」
「軽いもの」
「そうだな、消化に良いものがいいか…」
「水菓子をご用意したらどうでしょうか?」

一日大人しくしていると言質を取ると早速と動き始めた。まるで弱った主をお世話することが生き甲斐だと言わんばかりの張り切りようだ。

そんな長谷部みたいな刀はたくさんいらないなぁと、いつだったか思ったことを思い出しながら引き上げた布団の中で小さく咳き込んだ。


(ここまで20日もかかってしまった…)
(発熱して薬が飲めない状況が本当に辛かった)


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