嗚咽が、止まらない。鼻水も涙もべちゃべちゃで気持ち悪いに違いないのに、フレイムさんはじっとこっちを見つめてくる。

「違うんです。っ、これは、何かの…ゆめ、なんです」
「夢か」

フレイムさんは俺の首に、マントを巻き付けてくれた。自分でやるのとは勝手が違うらしく、喉元をがさごそと触りながら、緩く巻かれたそれは、全身を覆うほどの大きさのもので、ずっと裸だったのをそれまで忘れていた。

「だって、俺、なんもしてないっ」

変なことに手を出した覚えも、恨まれるようなことをした覚えもない。平和にまっとうに暮らしてきたはずなのに。なのに、いきなり。
異世界?異世界って何、どこ。意味が分からない。

「夢だから、早く目覚めるために身を投げたのか…命を断つのか。だが、そうはさせまい」
「そんな。だってフレイムさんは…俺に……こんな場所でいつまでも、い、いきろって言うんですか」
「そうだ」

ひどい。最低だ。
フレイムさんは優しい人だと思っていたのに。残酷で冷たい人だ。止まらない涙がマントに吸い込まれ、どんどん色濃くなっていく。人のなのに、申し訳なさなんて少しも生まれない。

「家族も友達も、なにも、思い出もないこんな場所で、っそんなの無理です」

日本にはみんないる。俺が生まれてからずっと過ごしてきた人も、場所も。何もかもあるのに、そんな場所を忘れることも捨てることも出来ない。出来るわけがない。

「なら…」
「っ、う…なん、ですか」
「…俺の耳を、特別に触らせてやる」
「は、?」

耳?
フレイムさんの、耳?なんで耳の話になったんだろう。

「これは本来なら人間に触らせるものではない。弱点だから、俺はこれを誰かに触らせたことはない。だが、俺が今お前を引き留めるために差し出せるのはこれだけだ」
「そんなの、」
「死んでも、夢は醒めないぞ。家族に会える保証はない。むしろここに来た異世界の人間は帰る方法を探した。その可能性にかけた。お前はその可能性を諦めるのか。死ぬ方が、もう一度家族に会えるかもしれない可能性を諦めていることにならないか」

フレイムさんは、そう言って頭をそろりと差し出す。そこにはぴくぴく揺れる耳。
俺の高さに合わせるためにこんなに屈んで、弱点を晒しているのだろうか。フレイムさん、ちょっと変な人だ。

でも、もし本当に帰る方法があるとしたらそれを探すべきなのかもしれない。それに俺はまだ若いし、確かに可能性があるかもしれない。フレイムさんの言葉を信じる方がいい、そう思った。

けれど、何故そうまでして引き留めてくれるのかわからない。いくら情を寄せてくれたのだとしても不思議な気がした。良い人過ぎるだけなのかもしれない。さっきまで散々最低とか言ったけど…。

「な、んで、っそこまでして」
「一目見たときから、異世界から来た人間なのかもしれないと思っていた」
「え、はっ?」
「服の素材が明らかに異質だった。確信を持ったのは木の実をりんごと言ったときだ。文献にあった話と全く同じだった。文献を見るにはそれなりの地位と知識を持つもの、そこいらの村の人間は知る由もない話だ。冗談にも見えなかったしな」

なら、尚更わからなかった。人を待っているという話を嘘と知りながら、食事も与えてくれたのは何故なのか。あたたかな灯りも。

「め、面倒じゃ、なかったんですか…?」
「本来なら関わらなかったかもしれない。嘘の話などどうでもよく、せいぜい王国に連れ帰り保護させるだけにするだろう。それで義務を果たせる…しかし、お前は…むせ返るような甘い香りがする。それだけだ」
「甘い、香り?え、くさいんですか!もしかして」

くんくんと臭いを嗅いでも体臭はいまいちわからない。しかし風呂にはしばらく入っていなかったから臭いはしたかも。でも、甘いのか?甘いって何。
戸惑う俺に、フレイムさんは頭を下げたままなのに焦れたらしく強引に手に耳を押しつけてくる。そうして伸ばした指は、柔らかく温かい毛の生えた耳に触れた。
柔らかいけど芯のあるような。ピクピクと動いてまさしく動物の耳だった。

「や、やわらかい…!」

フレイムさんの顔が斜め上から見える。口を真一文字にしているものの、むずがゆそうに目を細めている。俺はその表情に今のうちにもっと触っておこうと両手を伸ばす。涙が乾いて、鼻水もこぼれて酷い顔だろうけど、そんな俺に耳を差し出す仏頂面のフレイムさんに思わず笑ってしまう。

視界にゆらりと揺れている尻尾が見え、つい手を伸ばすもふいと避けられてしまう。

「尻尾は、だめですか」
「…仕方あるまい……強く掴むな」

逃げた尻尾が器用に手のひらにぽんと落ちてくる。もふもふと手触りの良い感触が手のひらに収まって、心地いい。

「犬のとか、あんまり触ったことないから、不思議です」
「犬じゃない狼だ」

すかさずの否定。犬と狼って似たようなものだけど、やっぱり違うものなのかな。これは言わないでおく。
しばらく無言で触っているとフレイムさんも何も言わない。これからはこの世界で一日も早く帰る方法を探さなきゃいけない。そのためにはきっとフレイムさんの力が必要なのだろう。

「フレイムさん、異世界から来た人は帰れたんですか」
「文献によればこの世界で天寿を全うしたようだ」
「そう、ですか。でも、来れたならきっと帰れますよね」
「だといいな」

他人行儀な言葉にむっとする。が、こんな暑い日でも裸に羽織っただけじゃ肌寒くくしゃみが出る。突然のことで唾が飛ぶとフレイムさんは不愉快そうな顔をした。ひい、すいません。

「暗くなる前に、この森を抜けるぞ」
「は、はい。あ、連れて行ってくれるんですか」
「お前の身は俺が保護すると決めた」
「イケメンすぎでびっくりしました」

ぐす、と鼻をすするとフレイムさんが立ち上がって俺の脇に腕を差し込んで起こしてくれる。俺子供じゃないんだけどな。
そしてフレイムさんについていき、ついにこの悪夢のような森から抜けたのだった。

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