「シノさん、おはようございます。もう朝ですよ」
「うぅ」

どういう因果か、異世界から来てしまった志野は、フレイムに保護される形で王都にやってくることになった。道中は身体全身を覆うようなマントに隠され荷物のように馬車に押し込まれ、長時間揺らされ幾度となく吐きそうになりながらも煌びやかな王都に入った。

その後はフレイムの屋敷に引き取られ、生活している。
獣人のフレイムを主人とする屋敷には、フレイム以外が志野と同様に人間だ。使用人たちは突然連れてこられた少年に顔には見せないものの戸惑っている様子だったが、毒気の無い、いかにも普通な少年にそのうち落ち着いた。

「おはよう、ございます。もうそんな時間ですか」
「とっくでございます。今から朝食をお持ちしますね」
「すいません…」

しかし丁重に扱うように言われているのか、世話もされ敬語も使われるとなると志野は戸惑いを覚える。当然、こんな扱いは人生で初めてなのだから。
そのせいで何をされるにも謝ってしまっていた。ごめんなさい、すいませんが口癖になりそうである。

そんな中でのなかなか慣れない生活も、もう10日目になる。フレイムは毎朝仕事でいなくなり、遅い時間に帰宅する。その間ゆずるはこの世界の常識や法を勉強している。

「本日はお魚の入ったスープと柔らかいパンにございます。このお魚はフレイム様の大好物なのですよ。ささ、熱いうちに」
「フレイムさんって魚好きなんですね。狼なのに」
「狼はお肉の印象がありますか?」
「魚は猫のイメージがあります」
「なるほど」

テーブルに並べられた湯気の出ている食事を見つめ、志野は頬を緩ませる。この国の食事は美味しい。というよりこの屋敷の料理人の作る料理が美味しいだけかもしれないが。
待ちきれないと言わんばかりに早速手を伸ばした志野に、使用人はメモを開く。

「本日予定のこの国に関する勉強は最後になりますね。明日からは都の図書館、許しが出れば朝廷の書庫も利用できるようになります。もちろん使用人の誰かが一緒にはなりますが」
「もうですか?」

もぐもぐと口を動かしながら、目を丸くする志野はどこにでもいる少年だ。しかしその正体は異世界から来た人間だという。確かに常識も何も知らない様子の理由の裏付けにはなっている。
それでも現実味は帯びていない。主人の命令に忠実な彼らは疑問を持っていても口には出さずに志野に仕えていた。

「はい。フレイム様がそのようにと」
「なんか、ちょっと楽しみです」

照れたように微笑む志野のことを目に見えてフレイムは気にしていたし、気に入っている様子だった。騎士として獣人としての誇りを持つフレイムが少年相手にまさか、と思う者も少なくないだろう。

「フレイム様と一緒に朝廷に行ける日もあるかもしれませんね」
「あ、そうなんですか。へえ」

志野は一つ頷き、解した魚を口に入れる。確かにこの魚美味しいなあとそんなことを思っていた。

フレイムはその日、夜遅くに屋敷に戻ると使用人たちから志野の様子を聞いていた。

「魚のスープをたいそう気に入っていました」「町に出かける話を聞いて嬉しそうでした」「王国の昔話には興味を示していました」「ようやくこの国の服に慣れたようです」「朝は相変わらず弱いようでした」

朝が弱い話はフレイムを驚かせた。森で暮らしていたときはそんな様子は見られなかったからだ。
今思えばこの世界に来たときから嫌な予感がして気が抜けていなかったのかもしれない。フレイムは報告を聞きながら着替えを終えると、部屋を出て廊下を歩いて行く。その手には紙袋があり、それは仕事帰りにフレイムが買ってきたものだ。

廊下を歩いて行くと、電気のついた部屋が見える。フレイムが与えた志野の部屋。そこで一日のほとんどを過ごしている志野が退屈そうだと、使用人からの報告が昨日あった。
確かに勉強以外は暇で、何もかも用意されるのは申し訳ないからと仕事が欲しいと言われたことを使用人の何人かからは聞いていた。
しかしフレイムはそれを聞き届けるつもりはない。志野本人に直接頼まれても許しを出す気はなかった。
その代わりのものを用意した。

「シノ?」
「フレイムさんですか」

まだ起きていたらしい志野の声に扉を開くと、志野は長いすに座ってゆっくりしていたようだった。

「おかえりなさい」
「ああ。今日は何の問題もなかったか」
「はい」

身体を起こして立とうとする志野を手で制して紙袋から購入した本を取り出す。

「暇つぶしだ」
「え、いいんですか!ってか、これ自腹ですかもしかして」
「たいしたものではない」

この世界で生きる意味はないと言って死のうとした志野を自分の願望だけで無理矢理生かし、連れてきた。だから本を与えるのは当たり前のことだ、そうフレイムは思っている。

「正直退屈すぎて死にそうでした」
「…そうか」

志野は暇つぶしに何度か庭や屋敷を散歩したこともある。しかし一日で飽きてしまった。それに使用人たちの気遣う様子に申し訳なくなってくるのだ。志野の元まで来たフレイムがその膝に本を置くと、志野は早速ページをめくる。

言語は読むのも書くのも話すのもわかる。ちら、と見れば物語のようで、志野は胸を躍らせた。
本好きではないが、この世界の昔話はどれも新鮮で面白いものが多かった。

「そういえば明日から図書館に行けるって本当ですか」
「ああ。一人では無理だが」

志野はこれから毎日異世界に帰る方法を調べ続けるだろう。一日も早くあの世界に帰るために。

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