あれは何かが大きな音をたてて動いて始まって、そして同時にそれは、私の終わりでもあった。

 着地点のない暗闇の中をただひたすらに宙を切りながら降り続けているような気分だった。当時の私はというと自我の意識にさいなまれ、父親が離婚して家を出て行ったこと、私を見てくれなくなった母さんのこと、それらに押しつぶされてしまいそうだった。のらりくらりと躱すように生きている私は、自分がない。声を張っていないと、自分が消えてしまいそうだった。自我のない私の体は価値は、一体どこにあるのだろうか。じっとしているとみるみる体の輪郭がぼやけていってしまう。だから、私は歌った。

 周りの大人は口を揃えてまともな人間になりなさいというけれども、まとも、というのは一体何なのだ。まとも、というのは貴方達が作り出した物差しにすぎないのではないだろうか。何一つ分からなかったけれどもただ一つ分かることといえば、こうして周りに反発して屋上で歌い続ける私は、少なくとも”まとも”ではない、ということだ。

「…お。」

 あの日もいつものように授業には出ず、屋上でギターを弾いていた。扉が開くと、渡邊先生がバツの悪そうな表情を浮かべていた。それでも一言「お。」と声を漏らしたのみで、特に注意を促すわけでもなくそっぽを向いて煙草に火をつける。周りの教師達は”まとも”ではない私に指導をしがちだったから、渡邊先生のそんな態度は何だか拍子抜けだった。だからつい私から声をかけてしまったのだ。

「オサムちゃんせんせい。」
 声をかけても興味無さそうに「んー?」と目を合わせずに煙草をふかすのみだ。

「…私のこと、注意せえへんの。」

 これじゃまるで、子供だ。先生の前に立つと、私は自分が子供であることを思い知らされる。そんな私に構うことなく先生は煙草を深く吸った。灰色の煙を吸えば、何故だか酷く懐かしい、と感じた。
 
「俺が注意したところで、藍原の抱えてるもんは消えんやろ。」

 そういえば今日は随分と天気が良い。気が付かなかったけれども、空は高く、青く澄んでいた。それから先生は暫く考えたような表情を浮かべて、「いや、一応注意はしましたってことにするか。」と小さく独り言のように呟く。そしてとってつけたように「こら、サボリはあかんで。」と私の頭を軽く叩いた。大きな手だなあ、とぼんやりと思う。やっぱり、先生は大人だ。

「…先生も、煙草あかんやろ。」
 私がそう言うと、先生はばつが悪そうな表情を浮かべて「嫌なところつくなあ。主任には黙っといて。」ともう一度煙草の煙を吐いた。
 セブンスターの匂いだ。少しだけくたびれたようなにおい。私はやっぱり先程と同じように懐かしいと感じて、もう一度深くその煙を吸い込んだ。苦みを帯びた香りが鼻先をくすぐる。昼間の太陽は高く昇り、私と先生の影は色濃く映る。見下ろせば、二つの影は寄り添っているように見えた。気のせいかな。

「煙草の匂いは、すきか。」
 先生が低い声で言う。もう一度その煙を深く吸い込んだ。懐かしい。そういえば、父の吸っていた煙草も、セブンスターだった。

「…すきや。」

 夜勤からくたくたで帰ってきても、幼い私に構ってくれた優しい父だった。大きな手でいつも私を撫でてくれた。そういえば、先生はどこか父さんに似ている。

「吸うか。」
 広い背中で、優しく笑いかけてくれた。いつもどこかセブンスターの苦い匂いがした、それでも大好きだったお父さん。涙ぐむ私を余所に、先生は煙草の吸いかけを私に差し出してきた。火のついた赤が瞬間でみるみると灰になっていく。時間は止まってはくれない。それでも私は今この瞬間の時間を切り取ってしまいたかった。
 その手をとって煙草に手を伸ばすと、「あほか。」とまた頭を軽く叩かれる。

「冗談や。いくら俺でも教師やで。」

 先生は驚いたように私を見た。焦るその表情はどこか子供みたいだ。先生は今日初めてちゃんと私を見た。空は随分高くて、気が付けば先程よりも呼吸がしやすい。息を吸えば、やっぱり少しだけ苦い、あの煙の匂いだ。
 笑う私に、先生は困ったような表情だ。それから思い出したみたいにして「そういえば藍原。」風が強い。それでも私は先生をまっすぐに見ていたい、とぼんやり思っていた。

「お前、随分きれいな声しとるな。」

 じっとしていると、だんだん自分が分からなくなってくる。呼吸がしづらくて、着地点のない暗闇を降りつづけるような感覚だ。暗闇の中でただ身を任せて漂っているとだんだん自分の輪郭が溶けて消えて、そして私も暗闇の一部となる。そんな中で、必死に自分を保っていたくて、でもどうすればいいのか分からなくて、だから私は歌った。声を大にして叫びたかった。周りにおかしい、まともじゃないと言われても、私は自分がここにいることを、証明したかった。
 暗闇からぐんと急に手を引かれる。そして次に目を開ければ、目の前には青空が広がっていた。私の声を、聴いてくれる人がいる。先生のその一言は、私を強く戒め、ここにいることを認めてくれる、そんな証だった。
 私は涙を堪えて、力強く笑った。先生に、私の歌声を聴いてほしいと、ぼんやり思った。
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