それは幼すぎた、小さな小さな、約束だった。あまりにも小さく、そしてあまりにも脆い。だけども私を縛りつけるには十分すぎた。古びた約束は錆び付いて、それでも決して忘れられることもない。海の底には忘れられることのない思いが約束とが降り積もっている。私は底で、上から降り注いでくるそれを、ただ阿呆のようにぼんやりと見上げるばかりだ。「約束、だよ。」懐かしい聲が木霊して、諦めるかのように瞳を瞑った。居心地の良い暗闇。ずっとここに居られたのならば、それが幸せだった。

真琴とは、もう何年間も互いの誕生日を祝い合っていた。律儀な彼は、毎年プレゼントを送ってくれた。ガラスの写真立て、星の砂、恥ずかしいことに私は真琴がくれたもの全部思い出せるし、今でも大切に閉まってある。我ながら困ったものだと、思い出しては深く溜息を吐いた。
窓の外は暗い。涼しい夜の風が部屋に入り込んだ。昼間は夏の面影が見られるものの、近頃夜となるとすっかり秋の匂いがする。彼がくれた数々のプレゼントたちの中でも、彼が一番最初にくれたものを、私は今でも思い出していた。思い出しては胸が潰れそうに疼き、眉根をしかめた。

私がこの町に引っ越してきたのは、ちょうど今くらいの季節だった。夏の終わりが、ちらちらと景色に霞む。私の誕生日を知った真琴は、私の手を引いた。「ま、こちゃん?どこ行くの!」不安がる私に、彼は得意げに笑うのみだった。「夏帆は、俺についてくるだけでいいよ!」
夏の匂いが、音がする。駆け抜けていく景色は、あまりにも鮮やかに流れていった。ざわざわ、心が動く音を私は間近で聞いた。どこに行くのかも分からず、足はワンピースにもつれて何度も転びそうにもなった。だけども転びそうになるたびに真琴が手を引くから、転ばずにすんだ。どこに行くのか分からないことだらけだった。だけどちっとも、不安なんかじゃなかった。目の前には一つ、小さな背中。だけど何よりも大きく見えて、眩しかった。目を細める。二人の手は、繋がれたまま。いつだって、ちっとも不安なんかじゃなかった。だって、真琴がいたから。

彼が足を止めて、私は息を切らしながらも、目の前に広がる光景に息を飲んだ。濃く強い藍色と、優しいエメラルドグリーン、淡い水色がキラキラと陽に反射して、私たちを迎え入れるかのようにして瞬いた。思わず、笑顔の溜息が零れる。「海、だ。」口から洩れた言葉は思ったよりも相当優しい言葉で、真琴も嬉しそうに目を細めた。

「ここから見る海が、俺、一番好きなんだ。」
驚いている私に満足げに、悪戯が成功した子供みたいにして笑ってみせた。彼の笑顔は、とても優しい。目尻を下げて、優しく笑う。思えば私は小さい頃からずっと、その笑顔を見たがり続けていたような気がする。どこにいたって、どんなに不安だろうと、彼の笑顔があれば大丈夫だった。いつだってその笑顔は私を戒め勇気付け、そこに居続けさせた。ねえ、ずっと、笑っていて。出来ればそれが、私の隣であったのなら、どれだけ良かっただろう。

「夏帆、誕生日だから。ここに連れてきたかったんだ。」
「…まこちゃん。」
「秘密の場所、なんだ。」照れ臭そうに笑う真琴の手を、もう一度強く握った。海はキラキラと陽に反射して宝石みたいに瞬いた。
「誕生日にほしいもの、ある?」
もう十分だよ。胸がいっぱいになって、言葉を紡ぐのに相当苦労した。喉の奥が熱くて、この感動を衝動を、どう言葉に表せるというのだろう。当時の私にそんなこと知る由もなかった。今はもっと、分からないのだけれども。
繋がれた左手に、もう一度きゅっと強く力を込めた。驚くようにして真琴は私を見る。握るたびに同時にきゅっと胸も詰まった。まるで彼への想いをはかるかのように、熱くなる。「まこちゃん。」海は穏やかな青をたたえ、臆病な私を笑うように流れる。私の願いは、昔からたったひとつ。
「まこちゃんの、わらった顔が、みたいよ。」

真琴の笑顔が、ずっと見たかった。困ったように優しく目尻を下げて笑う、あの顔をずっと見ていたかった。それは私を戒め、背中を押し、いつだって原動力となっていたのだ。手を繋げば、彼は笑う。どうか、ずっと。握り締めた手に力を入れる。「夏帆。」海は、青い。

「夏帆が、隣にいてくれるなら。」

空は高く、海はひたすらに広い。その青を、あの頃の私はまだ覚えている。思い出の中の真琴は、いつも笑っていた。ただ馬鹿みたいにひたすらに青くて大きい海の中に私達はいた。
だけども今はもう、見えない。あの日から、何かが確実に変わってしまっていた。海はもう私達に笑わない。きっと私も真琴も、もう互いを見つけることはできない。いとも簡単に手放してしまうのだ。
窓の外は暗い。「夏帆。」だけどそれでも、もし、もう一度手に入るのならば、私は何でもする。「夏帆?」真琴はあの頃みたいに、笑うのかな。



昔の夏帆の誕生日の話。

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