ずっと、忘れたくなかった。

ああ、見つけてしまった。その感情は、今でも身に心に、焼き付いている。喜びにも、絶望にも似たそれだ。いつ出会ったのだろう。彼女に初めて出会った時の感情はよく覚えているのだが、それがいつだったのかは思い出せない。
思い返せば、物心ついた時から彼女は隣にいた気がする。夏帆の家はおじさんもおばさんも共働きだったから、自然と同じ歳で近所に住む俺の家に預けられるようになった。初めて出会った日を、俺は今でも鮮やかに思い出せる。暑い、夏の日だった。彼女は怯えるようにおばさんの後ろに隠れ、中々俺の方を見ようとはしなかった。初めて彼女を見たとき、こんなに綺麗な女の子がいるのか、思わず目を奪われてしまった。白い肌に小さな手、煌めく海底、彼女の白いワンピースの裾は、夏の風にそよそよと俺を弄ぶかのように揺れていた。

「真琴はお兄ちゃんだから。夏帆ちゃんのことも、守ってあげなさいね。」母さんはこう言った。弟も妹もいた俺は、自然とそれを受け入れた。「夏帆。」怯える彼女の手を握る。小さな、砂浜の貝殻みたいな手だった。その手を握れば、いつも泣き止み、宝物みたいな笑顔を見せてくれた。ああ、どうか、どうかずっと、俺の隣で笑っていて。思わずその手を、もう一度握りしめる。強く、強く。夏帆は、笑った。「まこ、ちゃん。」
あの日、宝物を見つけてしまった。思えば、あの頃の夏帆は泣き虫でいつだって俺の後ろをついて回った。

いつも泣き虫だったくせに、夏帆は泳ぐときは誰よりも綺麗に泳いでみせた。あんな泣き虫で小さかった彼女の面影などないくらい。それこそ水を得た魚、とでも言うべきだろうか。その泳ぐ姿は、それはそれは美しかった。
「…夏帆は、人魚みたいだ。」夏帆は照れたように驚いて、少し間の悪そうな表情を浮かべた。ああ、俺が言っていることの意味をちっとも分かっていないのだろう。「人魚姫みたいに、綺麗だから。」
本当に、美しかった。見つけてしまった。あの時の感情を、俺は忘れることが出来ない。体の底で決して自分では触れられない何かをいとも簡単に彼女が掬い、動いていく音を、どこかで聞いた。それはあの美しい彼女を見つけられた喜びと、そして彼女がいつかは俺の元からいともも簡単に離れていくだろう、という悲しみとが混じり合った歪な感情だった。

だけども俺は、彼女の泳ぎが、本当にすきだった。


「夏帆。」
それなのに、今となっては触れようとすればひらりと身を躱す。その名前を呼んでも、泣きそうな表情を浮かべた。泣くのならば、泣いてほしかった。昔みたいに俺の隣りで、傍で、見えるところで、泣いてほしい。だけども今の彼女は、一瞬泣きそうな顔をしながら、冷ややかな笑顔を浮かべた。夕焼けが、眩しい。「夏帆、何でそんな顔するの。」また一瞬だけ、水面が揺れた。「夏帆。」その名前を呼んでも、泣きそうな顔をした。だけども昔の面影をどこかに見つけたくて、呼び続ける。
「夏帆は、夏帆だよ。」
口をついた言葉は、自分でもびっくりするくらい陳腐なそれだった。「隠さないでよ。」彼女は顔を歪める。どうか、どうか昔みたいに、笑ってほしい。俺のいるところで笑って、泣いて、全部見せてほしい。守らせてほしい。「まこちゃん。」幼い頃の彼女の声が、聞こえた。その手を、掴もうと手を伸ばす。

「来ない、で。」
夏帆は嘘を吐くとき、服の裾をぎゅっと握る癖がある。夏帆は、今にも泣きだしそうな表情で、制服のスカートの裾を強く握りながら、言った。皺が寄り、みるみる彼女の表情も歪んだ。ああ、馬鹿だなあ夏帆は。全部、全部わかるんだよ。
彼女は俺から逃げるように駆けだした。「夏帆!」その名前を、呼ぶ。俺が呼べば呼ぶほどに、彼女は泣きそうに顔を歪めた。離れていこうとした。だけども何とか、昔みたいに彼女を取り戻したくて、何度でも呼ぶ。「夏帆!」そのたびに彼女が少し遠くなっていくのを、感じた。

気が付けば、夏帆は学校のプールに飛び込んでいた。弾ける水飛沫に、目の前が霞む。すかさず俺も追いかけて、その水中へと身を投げた。
「まこちゃん。」声がきこえた。いつかの懐かしい彼女の声だ。必死に探すかのようにして、夏帆を追いかけた。相変わらず、彼女は綺麗に泳ぐ。いつか、俺の元から泳いで離れていくのだろう。小さな頃の俺は既にその日が訪れるということを、知っていた。絶望していた。だけども、その泳ぐ姿は恐ろしいほどに、美しかった。

水中で、その腕を無理やり掴んだ。酷く細い腕だった。蒼い水中の世界で、彼女の白い肌が首が腕が、体が、眩しく反射した。水の中ではあったけれども、俺は彼女が泣いているのだろうと思った。わかった。
「夏帆。」声にはならない。その名前を呼ぶ。「…人魚姫みたいだ。」泡が弾けては、消える。幼い二人の声が消えては浮かび、頭痛をもって襲い掛かった。耳鳴りはやまない。「じゃ、あ。まこちゃん。」彼女の肩をしっかりとこの手で掴んでいるはずなのに、こんなに近くにいるのに、それでも遠く感じてしまうのは、何故だろう。
「私の、王子さまになってくれる?」


「真琴。」
名前を、呼ばれた。今度のそれは大人びた今の彼女の声だった。否、水中だからそれは決して聞こえる筈もない。だけども、聞こえた。目の前の彼女は、悲しそうにだけども酷く優しい顔をしている。そんな表情は知らない。見たこともなかった。不意に引き寄せられ、体は近付く。蒼い世界に彼女の白い体が反射して眩しい。ああ、夏帆。本当に綺麗になった。
ふいに、唇が触れた。肺が酸素を求めて苦しくのた打ち回る。それはほんの一瞬のことだったけれども、瞬時に水面から体を上げれば、やっぱり夏帆は、泣いていた。

「…だい、きらい。」


夏帆は駆けて、一人で去っていってしまった。一方俺はぼんやりと水の流れに身を任せ、浮かぶのがやっとだった。
だいきらい。そう言い放った彼女は、精一杯俺のシャツの裾を、握っていた。そんなの、好きと言われたも同然ではないか。
「王子さまに、なって、くれる?」
いつかの懐かしい声が木霊する。夏帆。本当は俺は、王子になんか、なりたくなかった。だってあの物語の王子は、人魚姫の声を聴くことが出来ないからだ。俺は出来ることなら、夏帆の声をいつでも聴いて、その涙に触れたかった。今となっては、俺はその声を聴くことも、涙に触れることも出来ない。こんな形で叶うとは、皮肉なものだ。彼女が揺らした波紋が、夕焼けに反射してキラキラと瞬いた。忘れたくなかった。だけども時間は季節は、残酷にも俺たちの思い出もその声をも、まるごと掻っ攫っていってしまう。夕暮れは沈む。もう秋が、近付いていた。
「…夏帆。」
その日から、夏帆は泳ぐのをやめた。
見つけてしまった。あの日の感情は、今でも胸の奥で燻っている。その名前を呼んでも、もう返事はない。ああ、だけどもあの宝物は、いくら欲しくても、もう、手に入らないんだよ。

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