目の前に広がる一面の桜のプールに、思わず感嘆の溜息を吐いた。風が吹くたびに揺れて、甘い匂いが鼻を掠めた。「きれい。」そんな当たり前の言葉しか出てこなくって、どこかもどかしい。それほどまでに彼の隣で見るこの景色はどうしようもなく、美しかった。
 無理やり連れて来られた凛にも、驚きの表情の裏に感動の色が見える。夕陽に水面が反射して眩しい。

「新入部員勧誘のためにプール開きしたんだ。」
「結局入らなかったですけどね。」
「そりゃ、あんな部活紹介じゃ入らないに決まってるじゃない。」
 呆れて溜息を吐くと渚が文句を言う。「夏帆ちゃん、生徒会の権限でどうにかしてよー。」「出来るわけないでしょーが。」膨らませた頬をぱちんと弾くとみんな笑った。
 いざ泳ごうとすると、突如空が暗くなり雨が降り出した。慌てて屋根の下に駆け込む。夕立だろうか。せっかく桜のプールで泳げると思ったのに、そう呟くと隣の真琴が「まだ泳ぐには寒いよ。」と窘めるように言った。

 暫く黙って雨の音を聞いていた。さーっと振り続けるそれは、どこか心を静かにさせる。隣を見れば、真琴と目が合った。ぱちん、と何かが弾けた音をどこかで、聞いた。彼は私を見て優しく微笑む。私とは大違いだ。ただただ、優しい。

「あれ、夏帆。足。」
「足?」
「桜の花びら。ついてる。」

 足元に目を下すと、白い桜の小さな花びらがいくつか足についていた。「ああ。さっき、耐えられなくて足だけプールにつかったんだ。」そう言うと、「まだ寒いだろ。」と怒られた。彼はいつも私の心配をする。
 ふと真琴の手が私の足に伸び、桜の花びらを手に取った。彼に触れられた場所が瞬間で熱を帯びる。彼は私に触れた瞬間、何故かほっとしたような表情を浮かべた。真琴が手に取った桜の花びらは透き通った薄い桃色だ。みずみずしく光る。

「ふ。」
「何笑ってんのよ。」
「鱗みたい。」
「花びらが?」
「うん。だってほら。」
 雨の音で彼の声が聞こえづらい。だけども私は彼の言葉だけを聞いていようと必死だった。
「夏帆は人魚姫だから。」

 それはもう随分と遠い記憶の話で、いつだか私の泳ぐ姿を人魚のようだと言ったのは真琴だった。「いつの、話を。」忘れているかと思った。そう言うと彼は笑う。「忘れないよ。」彼は、きっといつまでも優しい。それはこの世の終わりまでだろう。優しい。だけどもただ、それだけなのだ。それ以上でもそれ以下でもない。遠い過去の向こうの場所でただ私だけが彼のことを思い出すのだろう。彼がくれた一言を冷たい宝物のように大切に抱いて。そんなの、死んでいるも同然だ。

「…きれいだ。」

 時が止まればいいのに。そんな馬鹿なことを、私はこれまでもう何度祈ってきたことだろう。それほどまでに、彼の隣で見る景色はこんなにも鮮やかで美しくて、それでどうしようもなく悲しいからだ。


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