夜中だというのにふらふらと海を見つめる夏帆は、どこか幼く見えた。彼女の白い影が夜の黒と暗い海にどこか違和感を覚えさせる。ふらりとあまりにも不安定なものだから、思わずその手を掴んだ。「夏帆。」
 夏帆は俺を見るなり、何でここにいるんだ、というような表情を浮かべた。二人で堤防に腰を下ろす。出会ったばかりの頃に夏帆に教えた場所だった。怖いものなんて揺るがすものなんて何一つなく、白い小さな貝殻のような彼女の手を引いて駆け抜けた。潮風が髪に絡みつく。

「どうして、ここにいるの。」
 月明かりに照らされて見える横顔は、ちっとも幼くなんかなくてもうすっかり知らない人のようだった。あの小さな貝殻の手をした幼い少女はもうどこにもいない。夏帆。本当に綺麗になった。不思議と青く澄んだ夜だった。風は涼しく、夏が終わってしまったことを思い知らされる。

「夏帆が、いると思ったからだよ。」
 
 言葉を聞くなり、夏帆は泣き出しそうな顔をした。「夏帆。」足、出して。俺の言葉に彼女は戸惑いながらも左足を差し出す。サンダルの紐を解くと、「や。」と小さく声を漏らした。彼女の足は小さく俺の右手にすっぽりと収まってしまう。月明かりに反射して、白く光る。その足首に、アンクレットを掛けると夏帆は終始零れ落ちるばかりに目を丸くしていた。しゃらりと銀色が彼女の白に浮かぶ。

「夏帆。誕生日、おめでとう。」

 やっぱり夏帆は泣きそうだった。アンクレットは彼女の足首で小さく揺れる。暫く俺達は夜風と波の音に耳を澄ましていた。瞳を開ければ、夏帆は泣いていた。「ここには。」声は震えていた。

「真琴がいないと思ったから、ここに来たのに。」

 馬鹿みたいだけども、ここで出会えたことに意味がある、唐突にそう感じた。きっとこれから俺と夏帆の目の前には、これまでとは比べものにならないくらい長い道のりが横たわっている。その中でもこの瞬間だけは、意味があるものだと、強く信じてならなかった。彼女の細い肩を抱けば、小さく吐息が漏れた。暗い空と黒い海、その世界で唯一白く光りを纏っているのが彼女だった。

 夏帆と出会ったあの日、世界が音を発てて色を変えていく様子に俺はただ圧倒されるばかりだった。それでも記憶というものは曖昧で、忘れたくない、そう願う約束も思い出も全て攫っていってしまう。寄せるこの波のように、だ。
 忘れまい、そうしがみついている思い出も結局は曖昧で酷く不安定で、もはやそれは虚像や不完全な思い出や想いでしかないのだ。それでも彼女が離れていくのが怖くて、しがみ続けていた。だが、確かなものは今この腕の中にある。夏帆は随分小さくなったみたいで、俺の腕の中にすっぽりと収まってしまっていた。息を漏らすたびに小さく肩が揺れ、ああ、俺の腕の中で生きている彼女をとても愛しいと感じた。

「俺はいつも、いるよ。」

 彼女の細い足首で、アンクレットの銀が揺れる。幼い彼女が言った言葉を、今でも覚えている。「まこちゃん。王子さまになってくれる?」出来ることならば、俺は人魚姫の王子なんかにはなりたくなかった。人魚姫は声を失い、泡となって消える。王子は彼女の声を二度と聴くことはない。夏帆の声を、どこでも聞いていたかったのだ。
 足首で揺れる銀色に、口付けをすると彼女は小さく身をたじろいだ。夏帆は、自分の足で歩き、声を出すことが出来るだろうか。

 出来ることならば、このまま全てを捨てたまま、どこかに逃げ出してしまいたかった。幼い頃のように、小さな手を引き、二人でどこまでも。夏帆はそんな俺を見透かしたかのように笑った。「うそつき。」何故なら、この先俺たちの目の前に横たわる未来は、別々の道だからだ。


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