「あーちゃん。」
幼い彼の声が木霊する。至極懐かしい、と秋姫は思い出す。彼が自分をそう呼んでいたのは、いつだったか。

もう一度自分が同じ道を選ぶのか、と問われても秋姫には答えられない。手にした雑誌を幼馴染の凛月と真緒は物珍しそうに眺めた。
「すごい、あーちゃんが載ってる。」
「何か別人みたい。」
一番最初に見せる人は秋姫の中でもう決まっていた。まじまじと雑誌の中の自分と見比べられるとどうもこそばゆい気がした。
元々目立つことが好きなわけではなかったが、モデルの仕事は楽しかった。好きなファッションに身を包み、スポットライトを浴びる。照明は眩しくて目を開けるのもやっとだったが、次第に慣れてくるとどこか別の世界にいるような感覚になった。シャッターを切られる度に次の世界へ、レンズ越しに映る自分の紅い瞳は、いつしか見た凛月の瞳と似ているとぼんやりと反芻した。

モデルの仕事に慣れてくると共に、自分が雑誌に載るスペースも増えていった。それは同時に人からの注目も増えることを意味する。
初めはほんの小さなことだった。お弁当を一緒に食べていた子が離れていったり、移動教室が一人になったり、たったそれだけのことだ。それが段々重なっていき、次第に秋姫は一人になっていった。
「秋姫ってさ、調子乗ってるよね。」
「姫ってさ、男に媚びてんの?」
仕方がないことだ、そういくつもの言葉を飲み込み続けて、気が付けば言葉すら失った。
人の悪意というものに直接触れるのは初めてで、こんなにもおぞましいものかと秋姫は痛感した。何気なく発する一言や行動が秋姫にとっては重くのしかかり、忘れられないものになる。

「…あーちゃん、何か隠してない?」
夕焼けが滲む帰り道に凛月は小さく言葉を落とした。どくんと心臓が跳ねたのが分かった。この幼馴染は自分がいじめを受けていると知れば、当然手を差し伸べてくれるだろう。それはありとあらゆる手を使ってでも、だ。
秋姫はばつが悪そうに笑ってみせた。あれだけ仕事で作り笑いは上手くなっても、この幼馴染の前ではどうしても上手く笑えなかった。
「んーん。なんにもないよ。」
本当は泣きつけば良かったのか。未だに秋姫は思うことがあるのだが、それは今に戻っても同じ選択をするのだろう。秋姫の言葉に凛月は何か言いたそうに口を開くが、そのまま唇をきゅっと結んだ。
人一人分のスペースを開けて並んで歩く。ふと凛月が隣に目をやると、その横顔は今まで知っていた幼馴染の顔ではなかった。

「アンタ、モデルやめんの?」
事務所の荷物を片していると、瀬名先輩は強く睨んで聞いてきた。逃げるんだ。そう言われたらそこまでだ。秋姫は答えられずに俯いた。
「自分の仕事に誇りもなかったわけ?」
「…あたしには他に守りたいものがあったんです。」
誇りも何もなかったのか、と聞かれれば答えはノーだ。仕事だって楽しかったし、あの輝きの下にずっと、居たかった。誇りに思っているものを捨てる自分を、瀬名先輩が呆れるのは当然にも思えた。「期待した俺が馬鹿だったよ。」聞こえないふりをして、逃げるように立ち去った。彼と再び出会うことになるのは、何年か先の話になる。

「秋姫。」
いつもの呼び名ではないことに驚いて凛月を見た。姫という字が入っている自分の名前も目立ちそうで正直好んでいなかったが、それでも凛月はあれからずっと名前で呼び続ける。
「秋姫、帰ろ。」
右手をしっかりと握られて凛月に引かれるようにして帰る。手の大きさも、横顔も、随分と大人びていて、時の流れを感じた。
逃げ出した、と言われればその通りである。それでも秋姫は右手の温もりに頼りながら、諦めたかのように瞳を瞑った。「あーちゃん」は、死んだのだ。



わたしの涙の跡を知らないでしょう。




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