目が覚めると、汗でぐっしょりと額が濡れていた。張り付く着物の感触が心地悪い。心臓の音が煩く身体中に響きわたり、先程見ていたものが夢だったのだ、とひたすらに自分を落ち着かせた。襖の外を見ると辺りはまだ暗く、月明かりがぼんやりとした光をたたえていた。察するにまだ夜中なのだろう。
 それから再び眠る気もなれず、襖を開け、縁側まで出ることにした。春になったというものの、頬を撫でる風は冷たい。縁側に腰を下ろすと、ここからは桜の木がよく見える。昼間は綺麗な薄ピンク色をしていた桜の木は、今は月明かりに照らされて青白く光っていた。ぼんやりと暗闇に浮き上がるそれは、見上げていると何だか不安にさせるものがある。

「…主?」
 声をする方を振り向くと、見慣れた近侍の姿があった。月明かりに照らされるその表情は、どこか心配そうなそれだった。だから私はその名前を呼ぶのだ。「いち兄。」彼の弟たちにつられてそう呼ぶようになったその呼び名は、最初こそは彼は謙遜して拒んでいたものの、今となってはすっかり慣れてしまった。

「こんな夜中にどうしました。」
「まあ、寝付けなくて。いち兄はどうしたの。」
「いえ、主の部屋の襖が開く音が聞こえたので…。」
「あら、起こしちゃった?」
「いえ。…お言葉ですが、女性が一人でこのような時間に歩くのは、あまり―。」

 いち兄は言葉を詰まらせた。刀にそのような説教をされるとは、何だか変な感じだ。「ふふ。」思わず笑うと「笑いごとではありません。」とぴしゃりと言われた。本丸にいるというのに、私の近侍は随分心配性だ。

「せっかくだし、夜桜を見ながら一杯、飲みましょう。」
「あ、主。ですが」
「主の言うことが聞けないのー?」
 そう茶化すように言うといち兄は困った表情を浮かべて、それから「仕方がありません。」と目尻を下げて笑った。彼は私のこの言葉にどうしても弱い。
 
 厨房から取ってきた酒に口を付けると、澄み渡る。夢見が悪かったのだ、酷く喉が渇いていた。見上げると、青白く浮かぶ桜の枝の隙間から、丸い月が見えた。隣にいる彼をちらりと盗み見ると、月明かりに縁取られて、ああ、この景色にとってかわるものなど、今の私には到底思いつきそうにもないな。

「ねえ、月が。」
 口にしてから、自分でも馬鹿なことを言おうとしたものだと噤んだ。月が綺麗ね、なんて、自分でも呆れるくらい馬鹿なことを。それでも彼といるこの瞬間に、勝るものなど何もないと強く感じたのだ。

「主、月が綺麗ですね。」

 思い浮かべた言葉を、予想外にいち兄が口にしたものだから思わず「えっ。」と口から驚きの言葉が漏れてしまった。彼はというものの、「何か可笑しなことを言いましたか。」と不思議そうな表情を浮かべている。確かに彼はその言葉の意味が生まれるよりうんと前に生まれたものだから、知らずに口にしたのか。
 もう一度見上げると、まんまるとした月が浮かんでいる。暗闇に浮かぶそれは、たった一つの光だ。彼も、私と同じ月を見てそう感じてくれたのだろうか。「…ううん。」それでも、その言葉の意味を知っている私には、どうしても口にするには重くて、到底無理だ。月は、悪意から遠い。

「本当に、ずっとこうしていられたら―。」

 つい口をついた言葉にしまった、と思った。こうしていられたら、他には何も。一瞬でも頭をよぎったそれを慌ててかき消すも、やっぱり頭を離れてはくれなかった。本当は、ずうっとこのままでいられたなら、どれだけ良かっただろう。朝起きて一日を迎えるとき、挫けそうになったとき、前に進みたいとき、眠りにつくとき、貴方の隣でそれができたのなら、そう願わずにはいられなかった。永遠に続くと思う程子供ではなかったものの、全てを諦めきれる程大人でもなかった。
 私の言葉の続きを催促するわけでもなく、彼はただ隣で黙って同じ月を見上げていた。二人で夜の静けさに耳を澄ます。終わりの足跡が、近付いてくる音がする。

「…いち兄。あのね、私。」
 耐え切れずにその名前を呼ぶと、「はい、何でしょう。」いつものように優しく笑った。暗闇でよく見えていなかったその表情は、よく見ると泣きそうに見えた。

「…何でもないわ。」
 いつまでも、その声の聞こえる距離にいてほしい。それでもそんなことを口にしてしまえば、とうとう戻ってこれない気がした。私の言葉を求めることなく、彼はいつものように少し寂しそうに微笑む。二人で同じように、月を見上げた。白くて丸い、悪意から遠い月だった。
 夢の続きは、いつまでも言えずにいる。ねえ、刀のくせに、随分寂しそうな顔をするのね。

まだ見ぬ夢の結末に怯える。







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