ずっと、秘密にしていることがある。


 世界がぐらりと傾いたことまで覚えている。次第に地面が近付いていき、頭に強い衝撃。遠のいていく世界。フェードアウト。
頭がぼんやりとして身体中が熱を帯びている。きっと熱が出ているのだろう。今日の体育の授業はバレーボールだから張り切っていたというのに、気が付けば保健室に運ばれていた。
 鼻を霞む薬品の匂いは、昔からあまり得意ではない。意識を紛らわせようと瞳を瞑れば、徐々に意識が遠のいていく。喉の奥が熱くて、頭はがんがんと酷く痛んだ。誰かの声が響く。笑い声にも泣き声にも聞こえた。掌に汗が滲み、ああこの感覚どこかで覚えがある、と思い出せば球場でのことだ。

 記憶の中のあたしは中学生で、髪もまだ今より短く部活で肌は日に焼けていた。
サインを受け、息を深く吸う。幼い頃に彼に教えてもらったこの一連の流れを、あたしは未だに覚えている。ボールが真っ直ぐに届くイメージを浮かべて――投げる。バスッ、とミットにボールが正面から入る心地よい乾いた音が響いた。「ストライク!!」歓声が湧き上がる。試合終了だ。「うさ美ー!おつかれ!!」チームメイトが駆け寄る中、客席を探す。けれども、やはり今日も彼は、いない。

 昔はよく二人で野球をしていた。恥ずかしながらあたしがソフトボールに興味を持ったのも、あいつが野球をしていたからだ。彼の投げるボールは誰よりも速く、速くミットに入る。あいつの投げる”まっすぐ”が一番すきだった。ただひたすらに真っ直ぐ、綺麗な線を描いて真っ直ぐに届く。
「おい、見ろよこれェ!」新人投手賞のトロフィーを掲げた笑顔は、眩しかった。あたしはただ純粋に、あいつのまっすぐが大会で見られるのが楽しみだった。ねえ、彼はすごいボールを投げるんだ。外角、内角、高め、低め、とにかくなんだって誰よりも速く、速く届く。あの美しい直線を描いて。けれども、あたしが球場で彼の姿を見ることは、もう、なかった。

 それからというものの、彼とあたしの距離は一向に広まるばかりだった。彼はみるみる荒んでいき、ソフトボールの大会に誘ってみても、彼は姿を見せることはなかった。
いくらあたしが頑張ったところで距離は広まるばかりだった。あたしに出来ることは、何もないのだろう。それでもただ、あたしはもう一度、もう一度、あの笑顔が見たかったんだ。手元の願書を握り締める。箱根学園、と書かれたそれは進学予定の地元の高校のものでは、なかった。「…お母さん、一生に一度の、お願いがあるの。」それはあまりに真っ直ぐ、あたしの胸に、真っ直ぐに届く。


 体が、熱い。頭が重い。熱を出している日は思い出してしまう。あ、いやだな、これ。妹も居るから、働いてもいる母は忙しくしていた。「瑛美はしっかりしているから。」母を困らせたくなかったし、だからあたしは言ったのだ。言葉を飲み込む。喉の奥が、熱い。「…あたしは、大丈夫だから。いってらっしゃい。」だけど、だけどもその背中を見るたびに、いつも言いたくて仕方がなかった。言葉は必死に飲み込み、声にはならない。
本当は、その手を。


「うさ美。」

 目が覚めると、汗でびっしょりと額が濡れていた。ベッドの横を見ると、もう何年もみ続けているあいつの顔だ。野球をやめてから変えてしまっていた髪型も、すっかり切ってしまっていて、昔みたいなさっぱりとしたそれに変わっていた。その右手は、あたしの左手にしっかりと繋がれている。胸の奥が、じわりと熱くなった。名前を呼ぶだけで、泣きそうになってしまった。本当、らしくないな。
「荒北。」

 誰にも言っていないけれど、あたしがこの学校を選んだのも、本当は、荒北。あんたの笑顔が、もう一度みたかったからなんだ。あの日、強くあたしの心を揺るがしてしまった。感情に置いて行かれてしまった体は、もうどうしようもない。それは真っ直ぐ、ただひたすら真っ直ぐに届く。誰よりも速く、速く。あの青を、もう一度見たい。ねえ、もう一度、届けてみせてよ。


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