感情とは、一体何なのだろうか。思い込みの虚像、最早本物だなんて存在しないのではないか。時たまそんなことをぼんやりと考えることがある。何故だろうか。答えなんて一向に出るわけないことを俺は知っている。本当は、もう気付いているのかもしれないのだが。
 この季節食堂は桃色の浮いた話で溢れ返っていた。甘いチョコレートの香り、そう、バレンタインデーである。食堂を歩いていると、奥の隅の席に見慣れた後姿が見えた。すぐに駆け寄ろうとするも、一たび立ち止まる。胸に手をあて、深呼吸を挟む。―よし。ちゃんと口元の弧が作れたのを確認してから、声をあげた。

「やあやあ、綾ちゃんじゃないか。」
 明るい声色を演じたというのに、彼女ときたら俺の顔を見た途端顔をしかめた。やだなあ、ひどいね綾ちゃんは。そう言うといつものように困ったみたいに言うのだ。「東堂くん。」「隣、いいかい。」いつも困ったみたいな表情をするくせに、きみはこう答えるのだろう。「…どうぞ。」結局は俺を突き放しはしないのだ。全く、綾ちゃんときたら。困ったものだ、と頭を傾げながら遠慮なくその隣に座らせてもらうとする。すると彼女はガタガタと何かを隠した。そんなことをされると、気になってしまうのが男の性というわけで。
「綾ちゃん、なに持ってるのだ?」
「えっ、えっ、な、なんにもっ!」
 彼女が背中に隠したそれをひょいっと取ってみせる。「ああっ!もうっ。」綾ちゃんは隙だらけだからいとも簡単に取れてしまった。そんなに隙だらけだと少し不安になるのだが。手に取って見れば、一冊の女子向け雑誌だ。ふむふむ。

「手作りバレンタイン特集、か。」
「ああっ東堂くん!」
 誰かにあげるのかい。聞くと彼女の顔はみるみる赤く染まっていく。「ち、ちがうよお。」雑誌を広げれば、色とりどりの手作りチョコレートたちに目がちらついた。ケーキ、クッキー、ブラウニー…。見ているだけで胸が焼けそうだ。綾ちゃんは慌てて俺から雑誌を取り上げた。

「と、東堂くんのいじわる。」
「はは。」
 それから言葉を返そうとするも、続かずに喉の奥でつっかえた。俺の様子をおかしく思ったらしく、綾ちゃんは顔を覗き込む。ああ、駄目だよそんな目で俺のことを見たら。綾ちゃんは嫌がるくせに、結局は拒まないのだ。もっとも、その奥に踏み込ませてもくれないのだが。
 綾ちゃんがチョコレートを渡そうとしている相手は大体見当がつく。彼女は決して口にしようとはせずに心の奥に奥に閉まって大事にしているみたいだが、その視線の先を追えばそれは直ぐに分かることだった。どうしたって、分かってしまうんだよ、綾ちゃん。

「東堂くん、なんか、今日。へんだよ。」
「…そうかね?」
「うん。」
 何でこういう時だけ鋭いものなのだろうか。困ったな、と笑えばやっぱり分かっていないようだった。俺のことなんかちっとも見ていないくせに、気付いてしまうんだね。彼女の鈴のような音の声が、俺を呼ぶ。そのたびにあの日を脳裏で反芻するのだ。高く上る太陽、じりじりと熱を帯びたアスファルト、額を伝う汗。あの日、俺の名前を呼んだその声で。「東堂くん。」一瞬にして、何かが脆く崩れ去っていく音を、どこかで聞いた。あの日が、今でも焼き付いて離れないのだ。

「…綾ちゃん。」
 彼女は食べ終わった食器を片そうと席を立つ。名前を呼べば、不思議そうにこちらを見た。「…俺の名前、呼んでくれるかい。」丸い大きな瞳が見開かれる。それからそうだ、困ったような表情。いつだってそんな顔をするくせに、決して拒みはしない。綾ちゃん、きみは残酷だね。

「…東堂、くん。」

 いったい感情とは何なのだろうか。彼女に名前を呼ばれるたびに不思議と違和感を感じるこの胸の感触は、一体。きっときみならわかるんじゃないのかな。伸ばしかけた手を、すっと下した。彼女の背中は振り返ろうとはしない。


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