夏は、嫌いだった。やけに高い太陽が、目に滲む。残暑は厳しく残り続けていた。空は青い。彼のことも、最初は苦手だった。
全て見透かすかのように微笑むそれは、私の最も苦手とする類のものだった。「ねえ、七海さん。」薄ら笑いの弧が私を呼ぶ。背筋につうと汗が垂れた。「きみは、随分と重い荷物背負ってるねえ。」

生徒会室から校庭の方を見下ろすと、プールサイドで一人佇む姿があった。ただ何をするでもなく水面に目をやる。ここからはその表情は読めないが、思わず書類を投げ捨てて気が付いたら私はプールへ向かって階段を降りていた。この私を突き動かす原因、その名前に、私は逸らして知らないふりを続けている。

「魚棲、せんせ。」
汗が額を伝う。水面を見つめる彼を見ると、何故だか喉の奥が詰まり、やっとの思いで声を振り絞るとそれは残暑に溶けていった。そんな私の小さな声でさえも、彼は振り向いた。一瞬だけ肩を跳ねさせ、驚いたような表情で私を覗く。あ、見えた。だけどもすぐにその表情はいつもの余裕を見せた微笑みに変わる。「やあ、七海さんじゃないか。」眉根を潜めて、先生の隣のプールサイドに座った。塩素の匂いが鼻をつく。

「七海さん、夏休みなのに学校かい。」
「え、え。生徒会で。」私は彼の隣にいると、いつも上手く笑えないのだ。普段は馬鹿みたいに安売りしている笑顔が、彼の前ではどうしても上手く作れない。私は隣にいることさえ精一杯で、ただひたすらにその水面を見つめていた。夏の日差しに当たって、水面はキラキラ眩しい。「へえ、忙しいんだねえ。」瞼の裏に、光っては残る。先生は大して興味もなさそうにいつもの調子で答えてみせた。
「魚棲先生こそ。夏休みなのに学校なんて。」
「僕も仕事です。」そうきっぱり言われた途端、一気に予防線を張られたかのような気分になった。そうだ、彼はいつも笑っているけど、その瞳の奥は、笑ってなんかいない。いつもそうやって人との距離を測るために予防線を張っているのだ。私も他の人と同じように予防線を張られたのだろう。悔しくて、そして何故だか酷く悲しかった。胸の奥が、詰まる。その理由を、知りたくはない。「…誕生日なのに。」悔しくてぼそりと呟くと、また彼は驚いたようにして私を見た。一瞬だけ掴めたような気がした。それから、先生はふっ、と吹き出したかのように笑った。普段見せているそれとは確実に違った、どこか子供みたいなその笑顔にきゅうっと私の体のどこかで何かが音を発てた。

「いやあ、今日が僕の誕生日だって知ってたのか。」
不意に見せられた子供みたいな表情にどうしたらいいのか分からずに、「…女子生徒がうるさかったですから。」その視線から目を逸らして答える。水面はゆらゆら揺れる。何故だか彼の方をうまく見れない。先生はそれに気づいているようにして私を見てくるから、私の鼓動は鳴りやむことを知らない。
「プレゼントとか。もらったんじゃないですか。」
「んー、まあ。だけどねえ、主任から生徒からそういったものを貰うのは良くないって注意うけてるからねえ。」だから、申し訳ないんだけど貰わないようにしているんだよ。水面は揺れて、私の胸はすうっと冷えた。

ポケットの中の小さな包みを、ぎゅっと握る。
「七海さん、僕にプレゼント用意してくれていたのかい?」
「…そんなわけ、ないじゃないですか。」
先生の視線は私のポケットの方に向いているような気がして、私は思わず隠すかのようにして握り締めた。「そうか、それは残念だ。」

最初は、どちらかといえばかなり苦手だった。私の本性をいとも簡単に見抜き、こんな中身のない人間を軽蔑しているに違いない。そう思っていた。それなのに、執拗に話しかけてくる先生に、心を奪われてしまったのは、私の方だった。こちらが振り向けば彼は簡単に手放す。彼から感じる身軽さは、その何にも捉われようとしないものからくるのだろう。悔しくて、何よりプレゼントまで用意していた馬鹿みたいな自分が情けなくて、下を向いた。「七海、さん。」いっそのこと突き放してくれたのならば楽だったのに。残酷な人、だ。

「せんせい。」
触れたら、その琴線に触れれば、戻れないような気がした。だけど戻れなくてもいい、どうしても掴みたい、ともがく自分がいる。向き合えば、泣きそうになった。彼はきっと、そんな私を笑うんだろうな。

「左目、触らせて、ください。」

魚棲先生の表情は歪んだ。瞬間揺れる瞳に、どこかそれを期待していた自分がいる。「…どういう、つもりだい?」声色はいつもの優しいそれとは打って変わったものだ。前にも左目のことに触れると、彼は酷く動揺してみせていた。あの時は免れたものの、次にそれに触れるともう逃れられない。そう感じたものの、私はまたそれに触れようとしている。

「…分からない、ですけど。」
「…うん。」
いつも余裕な表情の奥を、見たかった。いつもは私ばかり見透かされていたから、私だって時折見せる彼の弱さに、触れたかった。「みせて、ください。」彼の表情は、笑っていなかった。手を伸ばせば、サラリとした前髪に触れる。受け入れるわけでもなく、拒むわけでもなく、彼は何も言わなかった。水面は揺れる。夕焼けが目に染みた。夕焼けのオレンジは彼を縁取り、その表情は読み取れない。前髪越しに彼の左目に触れると、何かが落ちる音を、きいた。それが何なのかは、私には分からない。だけども私は手を離せなかった。目の前にいる彼は、私よりずっと年上なのに、頼りなく思えた。
「…七海さんは、似ているね。」何に似ているのかは分からなかった。だけど、彼が誰かに恋をしていたことは、分かった。

日は暮れる。私はポケットの小さな包みを渡すことは、ない。帰り道に誰にも気付かれないように、捨てた。夏の終わりの匂いがした。




Happy Birthday!!雫先生
ひーちゃん雫先生お借りしました。
妄想大爆発で本当にすみませんでした。

「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -