しんしんと冷える晩。まつげが凍りそうな寒さの中、半纏を羽織った少年と母親が星空を見上げていた。

「あれは鼓星。青白い一等星は源氏星・赤く輝く一等星は平家星よ」
「じゃあ、あの右側の小さな星は何?」

 母親はそんなに星に詳しいわけではない。名も知らぬ小さな星までは把握していなかった。それを婉曲的に伝えようとした時、少年が白い息を吐きながら言った。

「あれは、星になった父ちゃんなのかもしれない」
「……そうね。あの見つけやすい大きな三角形の近くにいるのは、お父さん。いつでも私たちを見守ってくれているの……」

 少年の父親は、五歳の頃に病で亡くなった。それから大きな戦争が始まって、終わって、今は平和に暮らしている。
 母親は当時の事を思い出す。
 少年の父親は、才能に溢れた高名な画家。しかし、先天的に病にむしばまれており、晩年は失明。画家生命を絶たれた事に対する焦りと怒りとその他の負の感情。荒れる画家。それから……男性との一夜の不貞。
 母親は何もかもすべてを知っていたが、子どもの将来を考えて事を荒立てなかった。
 戦争が終わって二年。悪夢のような日々も、今ではまるで昔の事のようだった。
 二人で夜空を見上げた。鼓星の下の、鳥が羽を広げたような形の星雲。星のゆりかご。古い星が爆発して消えてしまっても、新しい星が日夜生まれている。
 それは輪廻転生のような、いつまでも循環して絶えない自然のサイクル。
 またたく星も凍てつくような、十二月八日の晩だった。



Athanasia




 一九四〇年、十一月。少年の父親である画家……松橋竣はげっそりと痩せた身体を布団に横たえて、静かに寝息を立てていた。
 傍から見ればただ寝ているだけ。しかし、竣の意識は遠く離れた所に行ったまま、もう戻らない。腫瘍の増大。脳浮腫に伴う頭蓋内圧の亢進。
 妻子も、友人の声も……誰の声も届かない世界。いつからか竣はそこにいた。いつもの着物に羽織を重ねた服装で、暗闇の中に一人ぼっち。
 ある時、そこにほんのりと光が差した。見上げると白色電球が付いたランプシェードがある。
 竣は紐を引っ張って電気を点けた。フィラメントに電気が通る。途端に明るくなる視界。明らかに電灯だけではない光で世界が照らされていく。
 眩しくて目を閉じる。再び開けると、見えぬはずの目がはっきりと物を映し出す。

 そこにはたくさんの花と木と風があった。もう何年も見たことがなかった、きらめく陽光。さらさらと流れる川。菜の花が咲き乱れる丘と、小さなひょうたんのような形の池。桜花の中をかいくぐって飛ぶ雲雀と、緑の柳が織りなす夢のような景色だ。花に囲まれた平野の中、なぜか絵の道具が一式置いてある。
 描きたいものがたくさんあった。カメラのシャッターを切るように指でパースを測って、竣は夢中でカンバスを埋めていく。
 楽しい。ただひたすらに楽しかった。それは小さな頃、父親の傍らでいらない紙の裏に絵を描いていた幼児のように。
 デッサンも、造形も、パースも、彩色技術も、今まで学んだ事すべて。何も考えずに、ただ描きたいものを心のおもむくまま描く楽しさ。
 筆ではまどろっこしくなって、とうとう手のひらに絵の具を出して、カンバスになすりつける。指で、手のひらで、色を混ぜた。
 赤黄青緑その他の色を全部混ぜて、ぐちゃぐちゃに色を塗っていく。全部かき混ぜられた絵の具の色は、かつていた世界の闇のように真っ黒になった。
 ひたすらに塗っているうちに明かりが消えて、また何も見えなくなった。
 急につまらなくなった。竣はごろりと寝転がって、暗闇の中で手を伸ばす。ふと、電灯があったあたりに小さなきらめき。それは星。オリオン座のリゲル。そして、ベテルギウス・シリウス・プロキオンで出来た冬の大三角形。

 竣は思う。
 いつか遠い未来では、絵よりももっと手軽に自分の心を表すことができる技術が発達していくのだろう。カメラ、いやそれよりももっと精巧な機械が……人間の意思を汲んで作品を作るような世の中がやってくる。
 それでも今まで俺が描いてきた絵が残っていますように。
 俺の命が終わってしまって、妻子も友人もいなくなるくらい時が経っても。もう誰も「松橋竣」という人間がいたことを忘れてしまっても。絵が残ってさえいれば、俺の伝えたかったことはずっと残る。
 ……絵は星に似ている。星自身が爆発して消えてしまっても、光は遠く離れた所まで届く。
 そんな風に誰かの心に、いつか何かが残りますように。
 星に願い事をして手を伸ばす。もちろん、星には絶対手は届かない。
 夜空に輝く満天の星のような人を思い出す。君は光、ずっと昔に爆発して消えてしまった星の最期のような、光。

 ずっと。ずっと、ずっと、君の事が好きだった。

 ふわりとした春の風のような笑顔を思い出して、竣はごしごしと涙を拭いた。着物の裾で涙を拭いて袖をひるがえすと、そこはもう暗闇の世界ではなくなっていた。


 それは、燃えるような朝焼け。
 鮮やかな朱色の水面。遠くに見える稜線もまた緋に染まっている。岸辺には様々な花が咲き乱れていた。レンゲツツジ・ヤマトユキザサ・イワカガミ。それはまるで最後に描いた作品・Vermilionのようだった。
 ふら、と竣は立ち上がって水辺に向かった。遠くから昇る太陽をしっかりと見つめる。目に陽光が突き刺さる。
 太陽と思っていたそれは、全然違うものだった。燃え盛る火。そして湖と思っていたものは、あまたの人間の血。ヴァ―ミリオンより深い、スカーレットの血の池。
 竣はふふ、と笑みを浮かべた。
 妻子を裏切って……過ちを犯した。そんな人間が向かう場所はきっと……。


「……地獄で、待ってる」


 小さく呟いて、竣は黎明の業火に向かって進んでいった。歩くたびに身体がどんどん縮んでいき、気が付けば小さな子どもになってしまう。まるで初めて達と出会った時のように。
 夏が終わって秋へと移り変わる時のような、薄荷が混じった風が吹いて、竣の髪の毛を揺らした。




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