それは夏の始まり。蝉の声が遠く海鳴りのように響いていた。対照的に大学のサークル棟は静まりかえっていた。まるで深海のように。
 朝永は映画研究会の部室のソファで一人横になっていた。ぼうっと天井を仰ぐ。締め切った窓。うるさい蝉の声が、室内にいるとクーラーの稼働音にかき消される。まるで遠く聞こえるさざ波だ。
 そんなことを思いながら、朝永は眼鏡を外した。途端にぼやける視界。ふわふわとしたソファに身を預けながらどうでもいいことを考える。海が出てくる映画が見たいな、ふとそう思った。
 そのままぼうっとしていると、部室のドアが勢いよく開いた。

「どうもー! あ、先輩だ」

 うるさいのが来たな。そう思った。後輩の夏目だ。コンビニのビニール袋を高々と掲げて、勢いよく飛び込んできた。静かだった海の底から、一瞬にしてにぎやかな浅瀬へと引っ張り上げられるようだった。

「……何か用?」
「アイスを買ってきたので、半分こしたいと思い、参りました!」

 夏目はかしこまった口調で安いアイスを取り出して、にかっと笑った。顔だちはそこまで整っているというわけではないが、愛嬌があり、不思議とみんなに愛されるタイプの後輩だ。ふわふわの髪の毛からぽたりと汗が垂れる。それをぬぐって笑う夏目。朝永はそれを何となくじっと見ていた。

「何だよ、映画を見るとかじゃなくてアイスのために来たのか?」
「……俺、ハリウッド映画が好きなんです。爆発とかあって、メッチャ面白いやつ。でもさー、先輩とは映画の趣味が合わないんだよね。暗いのばっかり見るじゃん」
「暗いのって……近代の映画を語るには、古典もしっかり見ておかないと。今日はあれにしよう。スペイン映画の名作・ミツバチのささやき」
「絶対爆発とかしないやつじゃん、それ! あー、もう。アイス溶けちゃうから早く半分こしましょ」

 夏目は口をとがらせて、アイスの袋を開けた。長方形の水色の塊に棒が二本刺さったタイプのソーダ味のアイス。それを半分に割った。割り方が下手くそだった。夏目は少し考えて、一目でわかる不公平部分を朝永に差し出した。

「先輩に対していい度胸だな、お前……」
「まぁまぁ、細かい事は気にしないで。ほら、溶けちゃうから早く食べましょう」

 にっこりと笑った夏目は、朝永とは正反対だった。整った顔立ちでどこか冷たい印象を与え、視力も良くないから眼鏡の朝永。愛嬌と明るい性格で人を惹きつける夏目。あまり気が合わないだろうと思われる二人だったが、不思議と話は合った。アイスを食べながら色々な話をする。

「おととい、彼女と別れちゃいました」
「大変だな」
「はー、まぁしょうがないかな……今度の合コンで可愛い子と出会えますように」
「切り替えが早いな。未練とかないのか?」
「それなりにはありますけど……でも、俺は過去を振り返るより未来を見ていたいから……!」

 ものすごく得意げな顔で夏目は言った。アイスは一瞬にして平らげられていた。朝永も遅れて食べ終わり、夏目を冷たい目で見る。

「はぁ……別れた理由が分かるよ。もっといい恋しろよ」
「そう、いい恋がしたい! だから〜、朝永先輩にはぜひ今週末の合コンに来てもらわねばならぬと思っています。その名も、イケメンによってレベルの高い女の子を集めてもらおう作戦!」

 朝永は心の底から深いため息をついた。アイスの棒を捨てて、もう一度大きくため息をついた。しかし、不思議な事に断れない。そういう訳で、週末に居酒屋に連れ込まれたのであった。


 ざわざわとした喧噪。居心地の悪さを感じながら、朝永はビールを飲んだ。話しかけてくる女性もいたが、映画の話をしたら去って行った。一方で夏目は上手くやっているようで、ハイボールを飲みながら女の子たちと楽しく話していた。大成功だろう。
 朝永はふん、と鼻を鳴らした。帰りたいな。そう思いながら朝永はおつまみの枝豆を黙々と食べる。

「せーんぱい! どうですかー、飲んでますかー?」
「……お前は飲みすぎ。明日朝からバイトがあるんだろ? どうするんだよ」
「バイト……だっりー、サボろうかな。親戚のおじさんに急に具合悪くなってもらおう」
「勝手にサボったらダメ!」

 夏目はにへら、と笑ってハイボールを飲み干した。グラスをテーブルに置いて、額を朝永の胸元にこすりつけた。自然な抱きつき方だった。
 ざわざわとした居酒屋。朝永の酔いが一瞬でどこかに飛んでいった。

「……じゃあ、先輩の家に泊めてよ。そしたらバイト頑張って行く」

 耳元でそう囁いて、温かく柔らかな身体が離れた。頬が赤く火照るのも、なぜか胸がどきどきするのも、全部お酒のせい。朝永は目をそらす。夏目がとろんとした顔でフライドポテトを食べていた。
 


「先輩の家、散らかってるぅ」
「急に来るからだよ」

 洗濯物は室内に干しっぱなし。床に教科書は散らかしっぱなし。服は脱ぎっぱなし。シンクにお皿とコップを置きっぱなし。全部やりっぱなしだ。来ると分かっていたらもう少し片付けたのに……朝永はそう思いながらも、酔っている夏目の靴を脱がせて風呂場に誘導する。

「えー、いきなり風呂?」
「お前、さっき吐いてただろ! 服貸すからシャワー浴びて着替えろ」

 夏目はふらふらとした足取りで風呂へ入る。朝永がいるのもおかまいなしに、上着を脱ぐ。意外と細い。何となく見ていると夏目が「きゃあ、エッチ」などと言うものだから、少しイライラしながら風呂場を後にする。
 しばらくしてシャワーの音。下手くそな鼻歌。朝永はなぜか落ち着かなかった。
 後輩。ただの後輩だ。男同士。俺もあいつも女の子が好き。そもそも何だかんだ三回ぐらい泊めたことがある。それなのに、なぜか今日はいつもと違う予感がした。何が違うのか、朝永自身にも分からない。
 夏目がシャワーを終えてリビングにやってきた。入れ替わりで朝永もシャワーを浴びる。何となく、身体をいつもより綺麗に洗った。何があるわけでもないのに。
 それから、歯磨きなどの身支度を整えて、いつも通りにサブスクの動画配信サービスを見ながらだらだらと過ごす。

「もうちょっと飲みたいなぁ」
「これ以上飲んだらまた吐くだろ。ほら、水飲め」

 見始めたばかりの映画のプロローグが終わる前に、夏目は夢の海にお舟を漕ぎだしていた。ため息をついて、ベッドに運ぶ。適当にタオルケットをかけて、朝永が立ち去ろうとした時。夏目が服の裾を掴んだ。思いのほか強い力。油断していた朝永はベッドに転がってしまう。

「先輩も寝ようよ」
「いや、俺はベッドの下でいいよ。狭いだろ」
「狭いぐらいがちょうどいいって」

 訳が分からないまま、一緒に寝ることになった。できるだけ近づかないようにして、朝永は夏目に背を向ける。が、近づいてきた。
 背中にぽん、と手を置かれる。くらげの触手のように腕が巻きついてくる。その触り方がなんだかくすぐったくて、暗闇の中朝永は夏目の方を向いた。暗いからよく夏目の顔は分からなかった。
 そっと、お腹の所が撫でられた。何で触られているのかよく分からない。さっさと寝ろ、明日起きられなくなる……そう言おうとした時だった。

「朝永先輩、男と寝た事あります?」

 いきなりそんな事を聞かれた。朝永の胸が跳ねる。ないよ、そう言ったら夏目が鎖骨に頭を乗せてきた。そっと唇が鎖骨の間に触れた。それからのどぼとけ。あご。最後に唇にチュ、と触れた。
 仲の良い後輩を介抱して寝かせたらなぜかキスをされている。何で。朝永は言葉にならなかった。でも、言葉にしてはいけないような気もした。


 そこからは流れるように事が進んだ。男性と性行為の経験がない朝永に対し、なぜか夏目は慣れていた。ベッドの海の中を泳ぐようにして絡み合い、跳ね、朝永の腰に足を絡ませる。
 女性と致す時とは全く違うタイプの気持ち良さ。どこをどうしたらいいか分からないまま。アルコールが少しだけ残った頭で、ただただ無我夢中。
 温かく柔らかな粘膜に強引に性器をねじ込んで、女性とは全く違う構造をした所をかき回す。ぐちゅぐちゅに。

「あっ、あ……あ、せんぱいの、意外とおっきいね……」

 首に回された腕と、初めて聞いた後輩の甘い声と、触れ合った肌の熱さ。それから。
 勢いで始まった行為。心も身体も何も準備ができないまま、半ばお酒の力を借りた初めてのセックス。女の子には絶対できないような乱暴な腰の使い方と、ナカだし。
 後先何も考えない、刹那的な行為。

 ほんの数時間まで、ただの仲の良い先輩後輩だった。今でもそれは変わっていないはずなのに、今やっていることは先輩後輩のそれではない。
 一回ナカだしして、それから少し時間を置いてじゃれて。気が付いたら夏目が朝永の局部に顔をうめて、性器を口いっぱいに頬張っていた。
 舌を絡めて、吸って、舐めて……どうして慣れているんだろう。朝永は聞けないまま、後輩の頭を掴んで、喉の奥に思いっきり射精してしまう。
 夏目が口に精液を貯めて、ぐちゅぐちゅとうがいをするみたいにして口の中で転がして、まだ勃起したままの朝永の性器に吐き出した。だらだらと、断続的に垂らす。

「先輩のせーえき、海水みたいな味がするね」

 ぺろりと舌で唇を舐めて、にへ、と笑った夏目はアイスを半分こした時と同じ顔をしていた。夏目はそのまま、吐き出した精液をローション代わりにして朝永の性器を体内に飲み込んだ。朝永はその顔をまっすぐに見られない。



 全部終わって。シャワーも浴びずに、タオルケットにくるまっていた。気まずさが漂う。だって、恋人同士というわけではない。友達でもない。
 ただの、よく話す先輩と後輩。正反対だけど意外と気が合って……先輩と後輩だけど、特別な関係。でも。

「……先輩とセフレになっちゃった」

 特別な関係が、性行為をしたことで一瞬にして変わってしまった。何かの感情が芽生える前に身体だけ重なってしまった。朝永は何も言わなかった。あの時、居酒屋で感じた胸の高鳴り。あれが嘘みたいに何も感じなかった。
 無言のまま、家に帰ってきた時と同じようにシャワーを交互に浴びて、何も言わないまま眠った。


 夏のさなか。それから週に一度のペースで夏目が泊まりに来た。もう性行為はしない。そう約束したけど守られることはなかった。何の感情が生まれる事もなく、遊んでいるみたいにして行われるじゃれあいの性行為。
 そのうちに夏目に彼女ができて、ぱったりと泊まりに来ることもなくなった。

 夏の終わり。朝永は部室のソファに寝転がって、天井を見ていた。蝉の声が寄せては返す波の音のように響いていた。今にもドアが開いて騒がしさと共に後輩がコンビニの袋を持って入ってきそうだった。
 でも、もう夏目がこの部屋に入ってくることはないだろう。何となくそう思った。

 朝永は眼鏡を外して考える。いっそ、好きになれたら。恋人同士になれたら楽になれたんだろうか。しかしたぶんあれは一時の気まぐれだ。本気ではない。ただ、泊まりに来てチャンスがあったからやってみただけ。ホテル代わりに泊まって、気まぐれに行われた性欲の発散だ。
 それでも朝永はあの時居酒屋で感じた気持ちが忘れられなかった。あの時何かが泡のように生まれた。でも、それは形になる前にぐちゃぐちゃになって溶けて消えた。

 こんな気持ちになるなら……セックスなんてしなければよかった。

 「正反対だけど気が合う特別な関係の先輩後輩」から「一度だけ寝てみたら気持ち良かったから、興味本位で何回かやってみた人」になってしまった。
 馬鹿だなぁ。自分でもそう思う。もうアイスを半分こすることも、映画を一緒に見る事もない。ただ同じサークルに入っている先輩後輩で、たまに顔を合わせる人。そんな風な関係になってしまった。
 何となくアイスの事を考える。二人で分けるために作られた形のアイス。一人で食べるには少しだけ大きくて、誰かと半分こするとちょうどいい。あんな風に……二人で一つのものになってみたかった。好きとか付き合いたいとかそういうのじゃなくて、ただそれだけ。
 潮騒のように蝉が鳴いていた。もうすぐ夕暮れになろうとしていた。誰も来ない部室。朝永は立ち上がって鍵を閉めた。サークル棟の建物は静まりかえっていた。まるで何もなかったように。

『俺は過去を振り返るより未来を見ていたいから』

 そう言った夏目の言葉を思い出しながら、朝永はサークル棟を後にした。消えかけの蝉の声が話しかけるようにして小さく響いていた。


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独り言まみれでした!





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