風ではためく外套を押さえて、男性は大きく息を吸った。
乳白色の霧が肺の中を侵す。渓谷沿いに無数の湖が点在する山あいの湖水地方。遠い昔、そこにはひとつの王国があった。
歴史から忘れ去られ、もはや伝承の中にしか存在しない国。しかし、泥岩で形成された土を少し掘れば、かつてそこに住んでいた人たちの痕跡が出てくる。そこに人が住んでいて、家族を作り、村を、町を、国を作っていたという証。
なぜ国は滅びたのか。
彼の国は同盟国に裏切られて攻め込まれ、滅んだ国だった。その最後の王が崩御したのはわずか十九歳。
成人すら迎えていない若き王は、後見人である母親を摂政とした傀儡だった。操り人形に自我などいらぬ。しかしこの人形は並外れて残虐で淫蕩で浪費することを好んだ。
操り主である母親・自分の意に染まぬ意見を持つ臣下・粗相をした料理人・果ては、立ち話をしていただけの使用人や通りすがりの民……その他、何の罪もない人間たちを次々に拷問しては処刑した。
熟し、腐り、落ちかけの果実のような国の愚王。民は重税によって飢え、乾き、搾り取られていた。
……男性は外套から本を出す。ぱらぱらとめくれるページ。銀の巻き毛のような霧が足に絡みつき、風で幕のようにはためく。
ふと、霧が切れた。宝石の欠片をばらまいたようなきらめきの中、楢(なら)の木が、松の木が、春の訪れを告げるスイセンの花が……そして城跡が浮かび上がる。
外壁は今はもう崩れ、ただ門と建物の一部が残るばかり。粘板岩スレートのかけら。繁栄は、はるか夢の址(あと)。
雪解けのしずくが、王宮の屋根から垂れてきらきらと光る。王宮の傍らにある厨房からは、煮炊きの煙がもうもうと上がっている。強い斬撃を受けて地面に倒れ込んだ少年は、くらくらとする頭でそれを見た。生まれたての子雲だ、と思った。
しかし、気を失ってはいられない。慌てて身体を起こし、尻もちをついて顔を上げる。間髪入れずに少年の細い喉に、練習用の剣の切っ先がつきつけられる。これがもし本当の戦いだったならば、その首は容赦なくはねられていただろう。
「立ちなさい」
風になびく長い黒髪、整った顔立ち。筋骨隆々とした寡黙な男性である。名前はイオーアンネース。弱冠十七歳にして騎士団長になった才能ある剣士で、少年の剣の指南役だ。騎士団長に師事できるのだから少年もただの子どもではない。しかし、まだ幼い。色々な事が怖くて泣き出してしまった。
「王子、泣いてはなりません」
泣きじゃくる少年は、この国の王子。名前はルシオラという。まだ六歳だというのに、遊ぶ暇もなく座学や剣の稽古を課せられている。ごしごしと王子は目をこすった。
「……はい。イオ先生」
「よろしい。では、もう一度基本の型からやりましょう」
王子は泣き虫で身体は小さいが、素直だった。真っ赤な目に涙をたっぷり浮かべて練習用の剣を構える。
イオーアンネースは複雑な心境だ。十一歳も年下の小さな子どもに、厳しい指導をしている。とはいえ、王妃から直々のお達しであるので逆らえない。
素振りをする王子が、ふと動きを止めた。中庭に母親である王妃と、兄王子がいた。兄の名前はイグニス。ルシオラの二つ上・八歳だ。
生来病弱で、あまり外には出ない。珍しく散歩だろうか、使用人に囲まれて王妃と楽しそうに歩いている。それをルシオラがじっと見ていた。
イオーアンネースはさすがに心が痛んだ。
「……王子、少し休憩にいたしましょう。半刻ほど経ったら、またこちらへお戻りください。それまでは自由です」
「はい!」
ルシオラは剣をそっと地面に置いて、走り出した。
中庭に咲き乱れるスイセンと、霧のように真っ白なクロッカス。庭園の四阿(あずまや)で数人の召使が入れたお茶を飲む母親の所に、ルシオラは走った。
「ははうえ!」
「……あら、剣のお稽古はどうしたのですか?」
「休憩をもらいました。あのね、あのね、今日、子どもの雲が…………」
顔じゅうをくしゃくしゃにして、母親に話しかけるルシオラ。王妃はティーカップのお茶を飲んで静かに言った。
「今日起きたことは、侍従にお話なさい。あとで聞きます」
「…………はい」
「剣の次は歴史の勉強でしょう? ちゃんと準備なさい」
「………………はい」
王妃は心ここにあらずという感じだった。兄のイグニスが席を外しているからだろう。
ルシオラは慣れっこだ。いつもこんな風にして、母親は話をきちんと聞いてくれない。それでもお話がしてみたかったのだ。
ふと四阿の向こうからイグニスが戻ってきた。ふらふらとした足取りだ。ぬかるみに足を取られてもつれて、その身体が地面に倒れた。
「イグニス!」
王妃が慌てて立ち上がって、駆け寄った。綺麗なドレスが汚れるのも気にせずにしゃがんで、兄王子の身体を起こす。頭を撫でる。泥を白く美しい指でぬぐう。抱きしめる。ルシオラはそれをぼんやりと見ていた。
「怪我はない? お医者様に見てもらわねばね……わたくしの可愛いイグニスや」
ルシオラは頭を思いっきり殴られたような感覚になる。衝動のまま、母親と兄に駆け寄って……途中でわざと転んだ。冷たくて固い地面に身体が叩きつけられる。雪解けのどろどろの土で、服が、顔が汚れる。
「…………もうお部屋に戻りましょうね、イグニス」
しかし、王妃はルシオラを一瞥して、何事もなかったように王宮へ戻って行った。召使たちは何か言いたげな顔をしてはいたが、命令なしに勝手なことはできない。皆、ぞろぞろと王妃と兄王子の後ろについて、去って行った。
しばらくして。休憩時間が終わっても戻らなかったので、イオーアンネースが探しに来た。そこで見たものは、泥の中で泣きじゃくるルシオラ王子だった。
「王子! 大丈夫ですか! 今日の鍛錬はもうやめて、お着替えを……」
「イオせんせい……」
金色の巻き毛にも、白く丸い頬にも、泥がたっぷりと付いていた。左目の茶色と、右目の紫色。王家の血を引くものの証であるオッドアイからは、あとからあとから涙がこぼれて落ちる。
「母上は、ぼくより、兄上のほうがだいじなの?」
そんなことはありません。イオーアンネースはそう小さく言ったものの、いつもとは全然違う自信なさげな声だった。ルシオラはうつむいた。
イオーアンネースからしてもそれ以上は何も言えなかった。その通りだからだ。王妃は兄王子だけを愛している。王宮内の公然とした事実だった。
国王が崩御して三年。国内の政治は全て王妃が取り仕切っている。国の最高権力者の動向に、臣下は敏感だ。順当にいけば王位継承権第一位は兄王子・イグニス。ルシオラは第二位だが、王妃とイグニスに何かない限りは王位は巡ってこない。今のルシオラは後ろ盾もない、ただの六歳の子ども。
イオーアンネースも騎士団長として国家に仕える。本当だったら王妃や、イグニス王子にも忠誠を誓うべき立場。しかし、あまりにもこの小さなルシオラ王子が哀れになってしまった。
「私は……あなたのことを大切に思っています」
「私は、私だけは、あなた様の味方です……!」
イオーアンネースはしっかりとルシオラを抱きしめた。泥にまみれるのも構わずに。それは先ほど王妃がイグニスを抱きしめた時のよう。ルシオラが欲しかったもの、欲しかった言葉だった。
イオせんせい。言葉にならなくて、ルシオラは泣きながらイオーアンネースの服の裾をつかんだ。涙が服に染みこむ。節くれだった武骨な手が、柔らかな金髪を撫でる。
ふわりとクロッカスの甘く上品な香りが漂う。真っ白な花園の中……泥だらけになりながら、二人は主従関係を結んだ。