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100.影なる者達(完)

 王都を騒がせた大量失踪事件は、主犯となる魔族討伐によって一応の解決を見せた、とハンターギルドへは報告された。
 戦闘に伴う絡繰りの街ガルディの地下崩落事件は事故として処理される事になり、それを引き起こした流れのハンター達への処罰も不問とされた。
 また、地下が崩落した事で発見された新たな遺跡群は、街の主導により専門家によって調査される事になり、街どころか国を上げた一大事業へと発展した。
 ガルディの街には、更に多くの人が行き交うようになり、一時は王都を上回る程の人間が集まる――

「待って、もういいそれ……いらない」

 ジョシュアが読み上げていた報告を、イライアスが横槍を入れて中断させた。
 まるで拗ねたような言い方で、ジョシュアは困ったように書簡から顔を上げた。

 あの戦闘から二日後、急遽二人に割り当てられた部屋は宿屋の二階にある一番奥の部屋だった。北側で景色も見えないから人気がないというので、探し回った挙句にようやく見つけた部屋だ。

「お前が中身を読めって言ったんだろ」
「だって……ギルドから回ってきた書簡なんでしょ、それ? 何か真新しい事ないかなって思うじゃん。なのにぜーんぜん、同じ事の繰り返しだし。少しは頭使えってさ、なるじゃん?」

 ツーンと口を尖らせて言うその声音は、どこかトゲトゲしていて投げやりだ。イライアスはここ二日ほど、ずっとこの調子だった。
 街が変に注目されたせいもあり、バタバタと宿屋を急に追い出されたのもよろしくなかった。

――まいったな……お前達、寝る場所は自分達で個別に確保しろ。こうも大人数で固まっていては取れるものも取れん――

 そういうミライアの指示のもと、二人一組になってそれぞれが部屋の確保に走り、無事に二人はこうして宿屋の部屋を手に入れるに至った。

 他の面々もそれぞれ部屋を確保したようで、ミライアの蝙蝠《ツェペシュ》を介して手紙のやり取りなどを行なっている。ギルドへの報告はセナやヴェロニカ達がうまくやったようで、先程読み上げた書簡のような報告が日に何度か入る事になった。

 そしてそのような状況の中、イライアスはこの部屋に入るなりベッドにダイブして、ここ二日間、ずっとこうしてダラダラ寝転がっているのだ。
 なぜイライアスがこんなにも拗ねているのか。これまでの付き合いで、その理由がなんとなく察せてしまうジョシュアは苦笑するばかりだった。
 そろそろ元に戻ってもらってイライアスとゆっくりと話したいなぁなんて、ジョシュアは手にしていた手紙を卓上へと置くと、イライアスの横になっているベッドの腰辺りへと座った。

「最後の方、気絶しっぱなしで格好がつかなかったからって八つ当たるなよ。あの時、ミライアが動けないんじゃあ、イライアスとアンセルムでどうにかしてもらうしかなかったろう」
「ぅぐ……」

 枕に顔を押し付けたような、気の抜ける音が聞こえる。
 どうやら図星のようだと、ジョシュアはうつ伏せになって唸っているイライアスの背中を二度ほど、宥めるようにぽんぽんと優しく手を置いた。

「ミライアから逃げ回れるような吸血鬼が相手だったんだ。俺なら瞬殺だぞ。敵わなくたって仕方ないしそれに、イライアス達が時間を稼いでくれたおかげでこっちは上手くいったんだ。助かった」
「……ん……もっと褒めて」

 今日のイライアスはいつも以上に面倒くさい。こんな姿、ジョシュアの前でしか絶対に言わないだろうと思うと、逆に妙に嬉しくて。ジョシュアは軽く笑い声を上げながら、その言葉に応えるように優しく言った。

「いつもより我儘だな……」
「だって久々じゃんか。こうやって本当に二人きりってさぁ」
「それもそうか。……いつもイライアスには助けられてばかりだな。お前がああして気を引いてくれなかったら失敗していたかもしれない。それに、こうして一人の吸血鬼として、ミライアの役に立てるまでになれたのはイライアスのおかげだとも思ってる。感謝してる。ありがとう」
「んふふ」

 くぐもった嬉しそうな笑い声が聞こえてきて、ジョシュアもおかしくて笑った。そして、そんな時にふと、ジョシュアは思い立った。

「イライアス……、それでなんだが……」

 ずっとずっと言おうと思っていて、けれどこれまで聞けずにいた事を今、聞いてしまおうと思ったのだ。タイミングとしては今が絶対にちょうど良いから。
 妙に緊張してしまって、思わず声が震えそうになった。

「イライアスはこの後、領地に帰るんだよな?」
「あー、うん、まぁそんな感じだねぇ。流石にそろそろ顔を出したげないと可哀想かなとは思ってるよ、仕事ぶん投げてきちゃったから」
「そうか。……その、おれが、しばらくずっとミライアと旅をしてきたのはお前も知ってるよな? 吸血鬼になって間もないからと」
「え、うん、知ってるけど……?」
「先日の魔王の一件で、ミライアの仕事が一つ片付いた。それと……、俺ももう好きにしろと言われた。親の後について行く必要はないと言われたんだ」
「!」
「だから、次にどうしようか考えていた」

 そこまでジョシュアが言うと、イライアスは慌ててその場で起き上がったようだった。
 ジョシュアの方は何故だか、イライアスの方を見る事ができないでいる。ひと思いにどーん言ってしまえ、と急かす自分と、断られたらどうしよう、と心配する自分がせめぎ合っている。
 これまでに経験した事がないほど、ジョシュアの心臓がばくばくと音を立てていた。

 そうしてしばらく押し黙った後で。意を決したジョシュアは、とうとう口を開いた。

「よければ……その、イライアスと一緒に居たい、から連れて行って欲しいんだが……」

 恐る恐る、その場でイライアスの方を振り返ってみれば。大きく目を見開いて、口をぽかんと開けたままのイライアスの顔がそこにはあった。
 しばらくの間、ジョシュアはそんなイライアスの顔を見つめながら彼の返答を待った。だが、待てども待てどもイライアスからの反応が一向に返ってこない。

「……イライアス?」

 自分の言った言葉がちゃんと聞こえていたのかと、さすがに心配になったジョシュアは、名前を呼びながら目の前で自分の手を振ってみた。
 すると、ビクッと一瞬震えた後で、ようやくイライアスが口を開いた。

「……びっくりした」
「いや、むしろこっちがびっくりしたんだが。……それで、返事は?」
「ねぇジョシュア……今のもっかい言って?」
「……さっき言っただろ」
「聞こえなかったからもっかい聞きたい」
「お前……」
「大丈夫、俺以外に誰も聞いてないから、ね、お願い!」

 そういういつものイライアスの調子にすっかり緊張なんて吹き飛んでしまって。ジョシュアはねだられるままにもう一度言った。わざとだろうがそうでなかろうが、もうどっちでも良かった。

「……だから、イライアスと一緒に居たい、から、連れてってくれと……その返事を聞きたくて……」

 しどろもどろで顔も赤くなっているような自覚があった。イライアスの顔が直視できなくて、ジョシュアは自分の目の置き所さえ分からなかった。
 そして、それに対してイライアスはといえば、やっぱりいつものイライアスだった。
 
「んっふふー。ジョシュアにずっと一緒に居たい、って言わせるまで俺、付き纏う気満々だったから今更だけど」

 言いながらジョシュアの手を取ったかと思うと、イライアスはジョシュアの手を口元へと持ってゆき、その手にそっと口付けを落とした。

「もちろん、俺からもジョシュアにお願いだ。ずーっと、どっちかが死ぬまで一緒に居て欲しいなぁ」

 イライアスはまるで、ジョシュアの手に願いを吹きかけるように、とびきり甘えるような声音でそう言った。その甘さにジョシュアが一層赤面するほど。
 それにとうとう耐え切れなくなって、ジョシュアは呼吸を整えるように深く息を吐いて俯き、空いている方の手で自分の顔を覆った。
 こんな、まるで恋人みたいに甘くて恋しくて切なくなるような状況。

「ジョシュア? 大丈夫?」

 中々顔を上げないジョシュアを心配したのだろう。頭上からイライアスの声が降ってきた。

「……大丈夫、じゃない。こういうのは慣れてないんだ」
「んふふ……俺で慣れればいいよ。俺はもうとっくにジョシュア専用だから」

 顔を少しだけ上げ、上目遣いに伺うように見れば、イライアスはとても幸せそうな笑みを浮かべていた。
 今でこそ一人前の吸血鬼として認められるようになったが、最初の頃は臆病で逃げてばかりいたような気がする。そんな自分をどうして、イライアスが気にかけるようになったのか。いつもいつもジョシュアは疑問で仕方ない。

「その、イライアス、お前はどうして俺だったんだ? 前にも同じような事を聞いた気もするが……他にも相手はいそうなのに、なんで俺なんかを……」

 するとイライアスは、少しだけ目を見開いてから、はにかむようにして言った。

「そうだねぇ……色々と理由はあるけど。多分、一番はジョシュアと一緒にいるのが楽しいから。あと、君の率直な言葉がいつも嬉しいよ。ちゃんと正直な気持ちを言葉で返してくれるところとかさ」
「……」

 先程からずっとむずむずする。叫び出したくなるような奇妙な恥ずかしさを覚えながら、ジョシュアはイライアスの言葉をひとつひとつ、噛み締めた。
 そしてもちろん、イライアスは同じ問いをジョシュアへと聞いた。

「あ、それじゃさぁ、ジョシュアは? ジョシュアはどうして俺と一緒に居たいと思った?」
「俺か……」
「うん」
「俺は、……イライアスの隣は居心地がいいからだ」
「……んふふ」
「最初に、ミライアの遣いを二人でした日、覚えてるか? あの時にお前、言ってたろ。『妙な吸血鬼がひとりやふたり、いてもおかしくはない』って。あの言葉が今でもずっと忘れられない。あの言葉のおかげで、駄目な自分が少しだけ好きになれた気がした。人間でいた頃――もちろんエレナ達と別れてからだが、そんな事を言ってくれるような人間は一人もいなかった。もちろん俺も、変わろうとしなかった駄目な野郎だった自覚はあるけどな」

 言いながら、ジョシュアは随分と前に感じる出来事を思い出す。あの時は、自分の事も吸血鬼の事もまるでわかっていなかった未熟な吸血鬼で、ミライアやイライアスにたくさん助けられてきた。たったの一年前。けれどあれから色んな事が変わった。ジョシュアの周囲も、そしてジョシュア自身ですら。非常に感慨深いものがあった。

「それって……」
「……だから多分、最初から俺はアンタを拒めなかったんだろうと思う。本気で嫌なんだったら、最初に出会った時みたいにぶん殴ってる所だ」
「そんなに前から……」
「っ、そうだよ悪いか! だからイライアスが名前を言い逃げして消えた時、本気で嫌われたのかと思って結構ショックだったんだからな」
「あ、あれはだって――!」
「ああ、それは安心しろ。それは前にもイライアスから聞いたからちゃんと分かってる。……だからつまりな……、ここまで自覚もできずに引きずっておいてなんだが」
「……」
「俺も、ずっと一緒にいられればと思ってる。……イライアスが好きだ。多分、結構前から」
「ッ――!」
「言うのが遅くなって悪かったな。だからこの前、オウドジェで……誘ったのも繋がってた時に言った『好き』も、全部お前の勘違いじゃない……わざとそうした」
「あ、えっ? ……んん 何それ……え、ねぇちょっと! 何それねぇ
「いつもの仕返しだ」

 そう言ってジョシュアは、目の前で騒ぎ出すイライアスを尻目に、くすくすと笑いながらその場から立ち上がった。
 情けない声を上げ続けているイライアスを放って、あえて自分のスペースの方へと行く。いつものような行為になだれ込んでも良かったが、ジョシュアはこういうバカなやり取りだって愛おしいと思っている。今日はたまたまこういう気分なのだ。

 ずっと言いたかった想いを告げてイライアスを混乱の渦に叩き込んでいい雰囲気をぶち壊して、ジョシュアは今とても満たされていた。
 この後はきっと、ジョシュアはいつものようにイライアスに好き勝手されてしまうのかもしれなかったが、それもいつもの二人らしくていいじゃないか、なんて思える位には、ジョシュアはこの関係が気に入っているのだ。

「待って待って待って……ねぇジョシュア、もう一回好きって言ってみてくれない?」
「気が向いたらな」
「ジョシュアが反抗期……」
「……そんなに言わせたいんなら俺に言わせてみろ」
「…………へぁぁ?」

 もちろん、ジョシュアが気に入っているのはイライアスとの関係ばかりではない。
 ヴェロニカやニコラス、ナザリオ、セナ、アンセルムにラザール。ミライアと共に行く事で得られた彼らとの繋がりはどれも、他では得難い貴重なものになった。今後の長い長いジョシュアの吸血鬼生の中でも、忘れられない大切な思い出であるのはもう間違いがない。

 ただ一点、黒助とヴィネアについてはいい思い出なんて一つもないのだけれども。ジョシュアがヴィネアの命を握ってしまっている以上、これからも必然的に縁は続いていく事になる。それが、ジョシュアの選んだヴィネアへの復讐でもあるから。
 彼らの生きる目的であった主人が死に、可哀想にもこの世に取り残されてしまった従僕が何を想うのか、それはジョシュアの知った所ではない。ただ、ずっと離れずにいてくれた従僕を大切に想った魔王の最期の心は尊重されるべきだと、ジョシュアはそう考えたまでだった。
 だから仕方なく、ジョシュアはその重荷を背負う事にした。ただ、それだけなのだ。


 良かろうが悪かろうが、こうして無敗の吸血鬼によって結ばれる事になったこのすべての縁が、他の何ものも変え難いとジョシュアには思えるのだった。
 これから先、ジョシュアが知り合う事になった人間達がその生を全うするまで、彼らとの関係はきっと長く続く事だろう。




【エピローグ】


 絡繰りの街ガルディは今日もいつもと変わらなかった。
 都市の周辺から多くの商人や職人があつまり、賑やかでどこか混沌とした雰囲気に包まれている。

 街の中心を走る大通りの両脇を、国内でも珍しい高層の建物が固めていた。圧迫感でも覚えそうなそんな建物の前にはしかし、数多くのテントが立ち並び、商人たちが各々店を構えている。絡繰りの街というだけあって、精密な絡繰りから子供用のおもちゃの絡繰りまで、様々な種類の絡繰りがあちこちの店で並べられていた。
 かと思えば、その隣は食べ物を売る店や日用品を売る店が陣取っていたりするし、通りの反対側の方では服や防具や武器なんかを揃えている店が派手に客引きをしていたりする。雑多な店が軒を連ねていた。それらの店では大抵、この地に観光に来た者たちへの土産物が売られていた。
 日中には数多くの人が訪れ、大層な賑わいを見せる。国内でも有数の観光都市だった。

 だが、この街の本質はそこではなかった。ガルディを訪れる多くの人間は知らなかったが、屋台で売られているものの方ではなく、高層の建物の中や路地裏の方にひっそりと店を構えている職人たちの造るものこそが、この街を絡繰りの街たらしめていた。

 街の建物そのもの、街で新しく開発され国中に広まってゆく絡繰りたち、そして街の地下に張り巡らされた地下街。この地を発展させてきた職人たちが延々と積み上げてきたものが、彼らが今造るものに集約されていた。故にガルディは、国内でもひと際異質な観光都市としてその名を知られていた。

 そんなガルディを古くから見守り、造り上げてきた人間たちはこの街を誇っている。自分たちの技術は国を繁栄へと導くものだと確信し、更なる飛躍をせんと日々新しい技術の研究に邁進しているのだ。

 だが、そんな彼らは誰も知らない。
 ほんの二百年前、この街の地下でかの魔王がひっそりと復活を遂げ、そして世に知られる事もなく本当の意味で滅びた事など。
 誰 一 人 として知る者はいなかった。


 すっかり陽の落ちた|誰そ彼《たそかれ》時、ガルディの街中をゆっくりと歩く人影があった。
 フードを被ったローブ姿の男だった。腰には剣が帯びられ、ローブの隙間からは収まりきらなかった柄の部分が頭を覗かせている。

 大通りを抜けた男は、街の外れにある<大穴>と呼ばれる遺跡群へと向かった。かつてそこには、所有者のいなくなった廃屋があったというが、今やその面影もない。その廃屋は、一晩にして<大穴>に跡形もなく呑みこまれたのだという。<大穴>は未だに陥没の危険があるとの事で、あれから二百年経った現在でも立ち入る人間を制限している。
 そして、その<大穴>から見える地下の遺跡は、知るものぞ知る世界最古の遺跡なのだそうだ。

 一言も話す事なく<大穴>の淵へと辿り着いた男は、なんとそこから<大穴>の中へと飛び込んで行ってしまった。淵から<大穴>の底までは、ガルディの高層建築程の高さがある。普通の人間なら、こんな真っ暗闇の中で<大穴>の中へと飛び込もうものなら、地底へと叩き付けられて命を落とすだろう。

 だが、この男はそうならなかった。こんな灯りもない暗闇の中、地底へと続く岩岩を伝い、あっという間に底へと辿り着いてしまった。只人にはできない離れ業だ。
 男は地底へと降り立ったかと思うと、真っ直ぐに遺跡の奥にある祭壇へと向かった。

「……おい、来たぞ。出て来い“羽付き”」

 男は祭壇の奥にある暗闇の方に向かって言った。人間には到底見えない暗さの中、そこに蠢いている人影を正確に認識しているようだった。

「“羽付き”って……あいっかわらずお前は酷い男だなァ、吸血鬼。前みたいにヴィネア 様 って呼んでもいいんだぜ?」

 ケラケラと笑うような声を上げながら、男の目の前にいる人影が言った。奇妙にも、その人影の背中からは蝙蝠のような羽が一対、生えているのだった。明らかに人間のそれではないを

「……お前に様なんて付けるか」
「はぁ……ツレない……あれから二百年も経つのにちっとも軟化しない」
「お前がイチイチ突っかかってくるからだろう! “赤毛”を宥めるのも大変なんだからな、こっちの身にもなれ」
「なんだよ……アレだって聞けば遊び人だったっていう癖に。ちょっとチューしたり馬乗りになったくらいで烈火の如く怒っちゃってさ。あんな嫉妬深いパートナーなんてやめて、俺と楽しく暮らそうぜ?」
「……それで、呼び出した要件は何だ?」

 始終冷たく接する男に対して、その声はとてもつまならなそうだった。

「はぁ……あの“悪魔女”から伝言。依頼があるから“赤毛”と二人で来い、だってさ。お前が長らく住んでた町だよ、ジョシュアちゃん」

 ソレがそう言うが早いか。男から目にも止まらぬスピードでナイフが射出された。だが、それが到達する前に、何者かによってナイフは弾かれてしまった。カラン、と小さな音を立ててナイフが地面へと落ちる。

「クロ、ステイな。俺は別に気にしてないから」
「……分かった」

 呟くようなソレの声に、暗闇に紛れた何者かの声が返事をした。
 
「お前……今更何を考えてる……?」

 先程よりも低い、酷く警戒したような声が男から発せられた。見れば男は、腰に差した剣の柄と鞘にその両手を掛けて低く、構えていた。
 だが、目の前のソレは動じる気配を見せない。

「べっつにぃ……ただ俺が知りたかっただけ。この期に及んでお前を従わせるだのとか考えるわけないだろ。そもそも、俺はあの“悪魔女”に目を付けられてるんだぜ? 何かする気も起きないって」
「……」
「たださ、命ごと深ぁく繋がった仲なのに、俺だけお前を知らないなんて不公平だろ? だから、知っちゃった代わりに俺の名前をお前に――」
「おい待てそれはやめろ、俺に教えるんじゃあない!」
「ええー……」
「なんっでどいつもこいつも俺に教えたがる……! この前もアンセルムが暴露してくれやがった所で……いやとにかく、お前も余計な事をするな! 依頼の事は分かったから、ミライアにはそう伝えといてくれ、俺はもう帰る!」
「もう? さっき来たばっかりだろォ? 少し遊んでけよ。結界張るからさ、サービスするぜ? ここ最近じゃあ“赤毛”がくっ付いて来てないお前なんて特にレアだし」
「お前と遊んだなんて記憶なんて俺にはひとつもない!」

 そのような気の抜ける会話を交わしたかと思うと、男は逃げるようにその<大穴>を後にした。まるで昆虫が大ジャンプを披露するかのように、軽々上へ飛び上がると、男はあっという間に地上へと辿り着いてしまった。

 そそくさとその場から離れ、男はガルディの街の屋根へと駆け上がる。そのままあっという間に、彼は街の外へと脱出を果たしてしまった。
 決して人間にはできない芸当を人知れず披露してくれた男は、そのまま一晩街道を駆け抜けると、あっという間に目的の街へと辿り着いてしまったのだった。

 空の白み始める中、城塞都市として有名なその街中へと降り立つ。そのまま男は、真っ直ぐに街の一際大きな屋敷へと向かった。
 屋敷の玄関へは向かわず、屋根を伝って上階のバルコニーへと降り立つ。慣れたように扉を開いて部屋の中に入ると、男はようやくローブのフードを下ろしたのだった。

 どこにでもいるような茶髪の、若い男だった。ただ、どこか普通のヒトにはない色気のようなものがある。彼のひどく白い肌と、その気だるそうにも見える目の赤い虹彩とが相まって、見る人が見れば男の情欲さえ掻き立てる事がある。ただ、当人の自覚はあまりないようだったが。

 この時男は、二百年前と比べるとかなり、吸血鬼らしい性質を獲得していたのである。

「……ジョシュ? 帰ったの?」

 バルコニーへと出る扉の前で、男が身に付けていた旅装束をみな外していると、彼の名を呼ぶ声が広い部屋の中から響いてきた。どこか眠そうに聞こえる声はかなり弱々しかった。けれど男が聞き取るには十分で、彼は片付けもそこそこに、声の聞こえた寝室の方へと向かった。

「イライアス……もう起きて平気か? ミライアの依頼と元の仕事とでかなり徹夜が続いたと聞いたが」
「う……まだ眠い、けど……やっと帰ってきたんだし、ハグ、くらいはしてから寝る」
「まぁそのくらいなら……」

 ベッドに寝転がったまま、両手を上に上げて待っている赤毛の男の元へ、男は向かった。大人しくその腕の中に収まり、そのままゴロンと赤毛の隣に横になる。

「また、セクハラされなかった? あの“羽付き”に」
「ヴィネアか……アイツからはすぐに逃げてきたから」
「そう……アイツ、ジョシュアが昔より若く見えて色っぽくなったからって、すぐに手を出そうとするのすんごいムカつく」
「……俺に向かってそんな事を言うのはお前くらいだよ」
「だからそういう……自覚、持とう! 無自覚ダメ、絶対!」
「何だそれ」
「前々から言ってるけど、君はもう少し、自分が吸血鬼である事を自覚した方がいいよ」
「……十分理解してるが」
「してない! 長く生きると、それだけ魅了が増すの! 身体だってそういうふうに自然となってるんだから!」
「……」
「ああもうー、伝わらないこのもどかしさぁ
「……お前は変わらないな」
「ジョシュアも相変わらずだよね、そういうとこ! もう……ああでも、今日はもう俺限界……つぎの仕事に備えて、寝る」
「ああ。こんな時間に起こして悪かったな」
「ん……あのね、ジョシュアを知ってる人間はさ、みんないなくなっちゃったけど。俺らはずっと、覚えてられるからさ」
「!」
「君のやり遂げてきた事も、これまでの軌跡も、俺はぜんぶ一緒に持って行けるから。思い出しちゃう時は、こうやって、一瞬にね」
「……ああ。わかったよ。おやすみ、イライアス」
「ん。おやすみ、ジョシュア。今日はいい夢見られるといいね」

 そういう言葉を最後に、赤毛の男は眠りについた。そして男もまた、彼の隣でそっと目を閉じる。

 すると途端、男の頭の中では、彼が経験してきたその記憶が鮮やかに甦ってきた。人間だったあの頃、吸血鬼と出会う事になった事件、そして、吸血鬼となって出会った様々な出来事が、頭の中でまるで昨日のことのように思い出された。
 その中でもだったの一年。何百年と生きる吸血鬼の中のたった一年がどうしてだか、特に忘れ難かった。
 吸血鬼も人間も皆入り乱れた激動のあの時。

 今では誰も覚えていなくても、誰一人として知らなくても、男達の記憶の中でそれは生き続けるのである。
 そうやって男は、その時に出会った全員の顔を思い出してから、ふっと眠りについたのだった。


 了
 




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