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97.裏切り者

 動くものはなかった。ジョシュアの足の下敷きになっているヴィネアもまた、もがくのすら止めて息を潜めている。

(動きが止まったな。……あとは、邪魔される前にこれがどちらのものか――)

 それを見極めるだけだった。
 ジョシュアの手にしたものが何か、分からずにいる人間達もまた緊張したような面持ちでそれを見ている。

 彼らを確認したジョシュアは、自然を装って魔王の方を見た。男はミライアと対峙していた時のまま、その場に佇んでいる。視線を合わせれば、その目で訴えてきた。どちらが正解なのかを。

 それとなく視線を外して、周囲をぐるりと見まわした。見渡しているように見えて、今のジョシュアには何も見えていない。
 これで状況は揃った。チャンスはこの一度きり、そう思うと息が上がっていた。

 右手にそれの鼓動を感じながら、左手のナイフを強く握りしめる。手の中に滲む汗と震えを自覚して、わざとその爪で皮膚を抉った。極度の緊張で白みそうになる意識はその痛みで繋ぐ。

――ちゃんと、アイツら、やっつけてね。

 こんな時に、死に際のエレナの言葉を思い出した。あの時ちゃんと決意して、それを考えてここまで来たはずだった。
 ヴィネアをやっつける。
 あの時確かにそう誓ったはずだったけれど。今ここでナイフを振り下ろせば、ジョシュアはきっと永久にその約束を果たせない。

――お前にこの鍵をやって逃がすのにはひとつ、条件がある。破ればその場で全員殺す。今ここで条件を呑まなければこの話はナシだ。そうなればお前たちは永久にこの機会を失う。どうだ? 聞くか――?

 エレナに怒られるだろうか、いや、きっと怒らない。暗闇の中で考えた事を再び考えてから。ジョシュアは動いた。

 ハッと息を呑むような声を耳に、手にしたナイフを振り上げた。
 そうしてナイフを、右手の心臓――ではなく、足元にあったその箱の中へと突き立てた。耳元でつんざくような声が聞こえたが聞こえないふりをした。

 箱の中にあってはその影響が続くかもしれない。ジョシュアは箱の中からナイフごと心臓――魔王の心臓を取り出すと。その場で、空中で、真っ二つに斬り裂いてみせた。
 べちゃりと音を立てて臓腑が落ちて、その場であっという間に塵になって消えた。

 ほっとしたような、取り返しのつかない事をしてしまったような、そんな奇妙な感覚を覚えた。
 ふと気になって魔王そのヒトを見ると、彼はその胸元から、塵芥になって消え失せる所だった。

「よくやってくれた! 約束はちゃんと守るのだぞ? ――我が愛おしき従僕たちに幸あれ――」

 そう叫びながら、徐々に塵になって魔王は消えた。穏やかな微笑みを浮かべていた。心底、幸福そうに。

 今度こそ完全に、魔王は世界から死んでいなくなった。
 お伽噺――勇者と呼ばれる人間たちによって倒された魔王が、今ここで消えてなくなったのだ。
 そういう光景を目の当たりにした者たちの多くは、何が起こったのかもわからず、ただその場で立ち竦んでいた。

 そんな中で、真っ先に我に返ったのはヴィネアだった。

「貴、様……よくも、よくも――ッ

 その声にハッとしてジョシュアが足元を見下ろすと、涙を流しながらもがくヴィネアの姿が見えた。その姿にほんの少しだけ、わずかに、罪悪感を覚える。だがヴィネアのこの姿を見られた事でジョシュアの心がスッとしたのも事実だった。

(大将首を獲られたんだ。こうなるのも無理はない)

 ただ、笑ってそれを見ている事はできなかった。今目の前にいるのはかつてのジョシュアだ。大切なものを奪われて泣きじゃくっている子供。ヴィネアからはそういう印象を受けた。

 そこまで考えてから、ジョシュアは思考をやめた。キリがない。
 ふぅとそこで一息をついて、足元に転がっている箱を拾った。そうして手にしていた心臓を入れて鍵をかける。その箱を近くに放り投げると、鍵を目の前にかざして見せた。
 そういうジョシュアの突然の行動に、ヴィネアは目を丸くして動きを止めていた。

「お前の主人との約束だ。見逃してやる」
「!」
「だが鍵は貰っておく。お前が生きるのも死ぬのも俺が決める」

 ジョシュアは家族との約束を破ってまで協力した。協力せざるを得なかった。
 だからこれくらいの対価、貰っても構わないだろう。きっと魔王もそう見越してジョシュアに渡した。
 そう思わないとやってられなかった。

(あんな条件……普通に嫌がらせ以外の何物でもない)

 懐に鍵を収め、ヴィネアの上から脚を除けながら周囲を見渡す。未だ衝撃が抜けきらないのか、ジョシュア以外に動き出す者はいなかった。
 だが、すぐ我に返って各々動き出すに決まっている。ジョシュアの目的は不本意ながら達成した。あとはこの場をどうにかして収めるだけ。
 全部ぶち壊してしまうよりもそちらの方が余程大変そうで、ジョシュアは少しだけげんなりとした。

「なに、お前……一体何考えて……」

 突然ヴィネアから離れたジョシュアを不審に思ったのだろう、足元の方から声が聞こえてきた。
 声のした方を見れば、その箱を大事そうに抱えたヴィネアが憎々し気にジョシュアを見上げている。泣きはらしたような顔、形見とでもいうように箱を抱えたその姿が憐憫を誘った。

「だから、約束だと言っただろう。あの魔王との。魔族にとって、約束ってのは契約同様に重要なんだろ?」
「……」
「こんなので俺が割を食うのは正直解せないんだが……お前の目的を潰せたからまぁ良しとする。だからお前の命は俺が握る。今はまだそれでいい。――楽に死ねると思うなよ」

 そう言ってしまってから、ジョシュアは再び周囲に目を向けた。段々と向こうの方が騒がしくなってきている。
 時機、ジョシュアの元へはあの黒助あたりが飛んでくるはずだ。魔王がいなくなったとてヴィネアはまだ生きている。それを確かめに来るはずなのだ。そして、逃げる手助けをしようとジョシュアに襲いかかってくるに違いない。
 だからジョシュアは警戒せねばならなかった。無事にここから離脱するために。

「――じゃ、――ぃ」

 考えていると、ふと、呟くような小さな声が聞こえた。一度では聴き取れなくて、ジョシュアは、あ? なんて言いながら視線だけでヴィネアを見た。

「魔王ではない……バルトルト様だ……」

 こんな時に何を言いだすかと思えば、ヴィネアが呟いたのはヒトの名前だった。恐らくは魔王の名前。
 魔族にとって名前が重要な意味を持つというのはジョシュアも知っている事だったが、なぜ、今そんな事を言うのだろうか。
 ジョシュアは驚いて、まじまじとヴィネアを見てしまった。

「あの方の名前は今、ほとんど忘れ去られてしまった。大昔にはどこででと語られていたはずなのに……今では我々だけが知っているのみだ。あの方の本当の名前。……この際だ、貴様にも覚えてもらう」

 ポカンとするジョシュアに向かって、ヴィネアがそんな事を言う。強がっているのか何なのか。その顔には憎らしい、してやったりの笑みが浮かんでいた。

(コイツ――ッ

 この場でジョシュアが殺せないのをいい事に、ヴィネアがジョシュアを煽っている。
 いつも心穏やかであるジョシュアが、不思議とひどく苛立ちを覚えていた。

 と、ジョシュアがそんな事を考えている間に。

「おい下僕、一体どういう事だ。説明しろ」

 ミライアがその場に姿を現した。その表情はかたい。ただ、怒っているような様子は見られなかった。
 たちまち緊張した表情になったヴィネアを視界の隅に収めながら、ジョシュアは静かに答えた。

「あの魔王と交わした約束だった。鍵を与えて地下の牢獄から逃がす替わりに、従僕連中を逃がせと」
「! ……お前、それを受けたのか……?」
「……そうするしかなかった。でなければここまで早く終わらなかった」

 そう言い切れば、ミライアも否定はしなかった。
 その代わりに、座り込んでいるヴィネアを顎で示しながら言う。

「そこの夢魔はどうする気だ?」
「……不本意だが逃がす」
「お前はそれでいいのか……?」
「仕方ない。……それに、命は俺が握ってる」
「あ?」
「箱は渡すが鍵は俺が持ってる。……好きにさせる気はない」

 と、今度こそ余すことなくミライアへと告げれば。
 彼女は突然、大声で笑い出した。
 響き渡る彼女の笑い声に、ジョシュアは思わずギョッとした。ミライアがこんなに大笑いをする所なんて初めて見た。普段ですら、おかしそうに笑い声をあげる事だってないのに。

(そんな変な事言ったか?)

 意外に思いつつ内心では文句を言いながら、彼女が笑い終えるのを待った。

「ん、ふふっ、――すまんな……お前があんまりにも天然な鬼畜野郎なものだから」
「鬼畜……」
「そりゃそうだろうが。生も死も自由にできないとは……とんだ主人だぞ」

 笑い混じりにそんな事を言われて、ジョシュアはすっかり気分を害した。何とか自分なりに無理矢理納得させたはずだったのに、ミライアのせいで苛立ちがぶり返してくる。やりたくてやった訳ではない、とよっぽど言いたくなったのである。
 ただ、ミライアの方もそういうジョシュアの気持ちを理解しているのか、それ以上何か言ってくる事はなかった。

「まぁそういう冗談は兎も角としてだ。我らの目的は半分達成されたのだ。あとはあの黒助さえどうにかできれば――」

 そうやって二人、小声で話していた時だ。不意にミライアが何かに気づいて、あ? と不機嫌そうな声を上げた。

 お前、その条件、従僕連中と言ったか?」

 問われて途端、ジョシュアはぎくりとする。ミライアにその条件の問題点に気付かれてしまったようだった。途端に漂ってくる怒気に怖気づきそうになる。

「……ああ、そうだな」
「おい貴様どうしてくれる。それではあ奴も逃がす事になるだろうが」
「そうだな……」
「全く……その約束はどこまで有効だ?」
「細かい所までは……ただ、逃がせばいいと」
「ふむ……まぁ、後で見つけて始末すればいいか。首輪はお前がつけた」
「首輪って……」
「何も間違っとらんだろうが」
「……」

 そう二人が話をつけてひと段落した時だ。
 不意に風が吹いたように感じた。
 ハッとしてヴィネアの方に目をやれば、ボロボロの黒い服を身に纏っている吸血鬼が、ジョシュア達の目の前に立ち塞がった所だった。
 ヴィネアを守るように背に庇っている。

(ミライアから解放されて、少し回復したのか……しっかしボロボロだな)

 ジョシュアと対峙した時とはまるで違って、ひどくミライアを警戒しているのが分かった。ミライアは容赦なく、本気で黒助をぶちのめそうとしたらしかった。だからなのか、彼女を一番に警戒していた。

 男は相変わらず表情の読めない顔をしていたが、ジョシュアにはこの時少しだけその感情が読めたような気がしていた。
 多分最初からずっとそうだったのだろう。自分のためにではなく、誰かを守るためにその力を使っている。

 それに気付かされて、湧き上がってくる苛立ちのようなものを感じた。
 それを紛らわすようにふと隣のミライアを見上げた。彼女はいつもの表情を崩さず、観察するように彼らを見ている。
 そんな様子を見て少し冷静になった。感情任せにやって上手くいかないのはジョシュアだってもう理解している。
 なら、それを見習うまでだった。

 お前達にはもう用はない、さっさと何処かへ行ってしまえ。そうジョシュアが伝えようと口を開いたその時だった。

 殺気を伴い近付いて来る何かの気配。
 それを感じて、ジョシュアとミライアは咄嗟にその場から飛び退いた。途端に突き立てられる刃。
 魔力を伴ったその攻撃に目を見開きながら、ジョシュアはその人影を見た。

「お前達、やはり仲間か……

 ああ本当に面倒臭い。
 恐れていた事態が起こってしまった。
 いつだったか、ほんの少し目にしただけの“困ったちゃん”の彼らへ、ジョシュアは言いようのない苛立ちを覚えた。





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