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96.掻乱(後)

 ピシッ、という音が聞こえた気がした。

 黒助へと攻撃を開始してしばらく経ってからだった。いくら攻撃を仕掛けようとも、ミライアに次ぐ吸血鬼は一向に隙を見せない。
 むしろジョシュア達の方が満身創痍だ。

「キッツ……」

 荒い息に加えてぼやきのような声が聞こえてくる。イライアスがここまで追い詰められているのを見るのは初めてだった。既に治りかけてはいるが、身体のあちこちには黒助から受けた傷痕が残っている。

 反面、ジョシュアとアンセルムにはあまり攻撃が飛んでこない。脅威だとすら思われていないのか、それともイライアスが必死に立ち回ってくれているのか。
 悔しいとは思うが、自分達がアレを食らったらきっと一発で退場をかましてしまうだろう。ならばここはイライアスが動きやすいように立ち回るしか――と、ジョシュアが攻撃の合間にツラツラとそんな事を考えていた時。

 ついに場が動いたのだ。
 ビキビキ、という音が周囲一体から聞こえてくる。音にハッとして見上げると、何かの境界にヒビが入っているのが見えた。

「来るね」

 そういうイライアスの声が聞こえて、我に返ったジョシュアは再び彼らに目をやった。見るとヴィネアは額に汗を浮かべ、両手を合わせるのを止めてだらりと腕を下に垂らし、どこかホッと一息ついたような顔をしている。
 だが次の瞬間には、背に隠していた蝙蝠のような翼を大きく広げてから素早く両掌を前にかざした。途端、周囲にぼんやりと魔力が漂い始める。
 ああこれはまずいやつ、なんてジョシュアが思っていると。全身を何やらゾワリとしたものが襲った。あちこちで、魔術の発動する気配を感じていた。

「結界が崩れた、来るぞ――ッ!」

 そうジョシュアが叫び終わるが早いか。
 あちこちに召喚されたヒト――複数の魔族達が現れた。
 ヴィネアの同族らしき者が一、吸血鬼も二人ほど、そして雑多な種類の魔族が五、そして人間も幾人か。
 あっという間にこちらの数を上回ってしまった。

「うっひょおぉ……ま、そりゃそうよね。思ってた以上に楽は出来なさそうだわ……」

 途端にイライアスの泣き言が聞こえてくる。ジョシュアも同じような気分だが、堪えて何も言わなかった。

「何度も言うようだが……僕は君らと違って戦闘狂ではない!」

 と、今度はアンセルムの情けない声が聞こえてきた。心なしかジョシュア達を馬鹿にしているようにすら聞こえた。

「はいはい、そういうのはもういいから発狂しないで! こうなったら死ぬ気でヤる! 俺らがこの“黒助”に抜かれたら、後ろの人らにどうにか出来るわけないっしょ。君の愛しいハンター君も大ピンチだよ」
「っ!」
「落ち着け! 向こうにはヴェロニカが付いてる。魔術が使えるのなら彼女が何とかしてくれる、心配するな」
「ほ、本当かい?」
「伊達に何年も共に旅はしてない。昔以上に魔力は増えてると聞いたし……あの人にはこの前、俺も殺されそうになった。相手が吸血鬼でも何とかなるだろ」

 そう言って、ジョシュアはただアンセルムを元気付けようしたつもりだったが。言葉を間違えたようだった。それを耳にしたアンセルムが、いっそ絶句している。

「殺され……」
「ちょっと待って何それ俺聞いてないんだけど?」

 すかさずイライアスが口を挟んできた。敵前だというのにその顔には張り付けたような笑みが浮かんでいて、向けられたジョシュアは思わず顔を引きつらせた。

「っ! 今はよせ、後で話すから! 墓参りの時のだ……」
「ふぅん……? お仕置き内容追加ァ
「……」

 改めて後がこわい、なんて思いながら、ジョシュアは再び敵へと意識を向けた。
 周囲では既に戦闘が始まっている気配を感じる。ヴィネアによる指示なのか、現れた魔族達が一斉に人間たちの方へと向かった。こちらへの手助けをさせないため、と考えると当然の選択のようにも思われた。

 ヴェロニカ達を心配するならば、一刻も早くこの状況を終わらせるしかない。これは絶好のチャンスなのだ。だからここにわざわざ攻めに来た。ヴェロニカ達もこの作戦は承知している。これは色々なものを犠牲にしてようやく与えられたチャンスだ。これを逃せばもう二度と巡ってはこないかもしれない。無駄できるはずもなかった。

「クロ、もういいぞ。主人《あるじ》様を連れてここを離脱――

 最後まで言わせなかった。
 話している隙を狙いジョシュアの全身全霊をかけて、ヴィネアへと突っ込んだ。途中、黒助の腕が伸びてくるのが視界の隅に見えたが、ジョシュアは怯まず強行した。
 顔付近にまで伸びたその手は、しかし突然視界から消える。

「ッ、黒いのは俺と、ね?」

 ヴィネアの胴体へジョシュアの拳が吸い込まれるのと同時に、すぐ近くではイライアスの声が聞こえた。そして、何かを殴る音と呻くような声もふたつ。

 今回、攻め入っているのはジョシュア達だ。敵は必ず後手に回るしそうなるように仕向けた。わざと油断させるような真似もした。
 それらがどうやら功を奏したようだった。
 黒助は、ジョシュアとイライアス、そしてアンセルムの力を誤認した。
 黒助とヴィネアの二人を引き離して箱を手に入れる。
 それがジョシュア達の最優先課題だった。

 あの場から後ろへと吹き飛ばされたヴィネアが、呻きながら地面に片手をついて見上げるようにしてジョシュアを見ている。その目には少しばかりの怯えが浮かび、口元には形ばかりの笑みが浮かんでいる。

 吸血鬼であるジョシュア渾身の拳だ。しかも、飢餓状態である普段のジョシュアとは違う。本来の吸血鬼としての力が存分に発揮されていた。受けたダメージが大きすぎて動けやしないだろう。元々ヴィネアのような種族は、戦闘には向かないのだ。

 背後からは激しくぶつかり合う音が聞こえてきたが、ジョシュアは振り向きもしなかった。

「辛いか? 人から血を貰ったばかりだ。……あの時とはまるで違う」

 ズンズンと歩み寄って、その場から動けないヴィネアを蹴飛ばして転がす。今ならば、これまでの恨みを晴らす事すらできる。

 この空間に居るのはヴィネアとジョシュアのただ二人だけ。不思議とそういう錯覚を覚えた。
 起き上がろうとするその肩を強く踏み付ける。ぐぅと呻きながらも、ジョシュアを睨み付けるその目から力が失われる事はなかった。そういうヴィネアの姿を見て、ジョシュアの中に複雑な感情が浮かんだ。

 この魔族には同情すべき所もある。だが、コレは取り返しの付かない事をしでかしてくれた。ジョシュアから、そして多くの人から大切な人を奪ったのだ。環境のせい、というには余りにもやり過ぎている。だからそういった――同情のような感情は不要だ。そう自分に言い聞かせながら、ぐっとその脚に力を入れた。

「お前の話は聞いた」
「……はぁ?」
「ずっとこの地に留まっていたそうだな」
「なに、おまえ……」
「俺がどうやってあの牢から抜け出したのか、お前は考えたか?」

 そのジョシュアの問いかけに、ヴィネアは大いに動揺したように見えた。

「お前達の中に裏切り者がいる」
「嘘をいうなッ! 違う……だってあの二人は……」
「本当にか? お前の独り善がりじゃあないのか?」
「……」

 ジョシュア自身も酷い事をしているという自覚はあった。ただ、こうでもしてやらないとジョシュアの方が救われない。八つ当たりにも近かった。

「図星か……? 他者を顧みないお前には似合いだな」

 だがもちろん、ただの私怨だけでヴィネアを責めている訳ではない。ジョシュアにも策があった。傷口に塩を塗るような酷い野郎だ、なんて逆に責められそうな非道な策が。

「箱の中身はあるか? 中を確かめなくて大丈夫か? 知らぬ間に、裏切り者に盗られていたりしてな。大事なお前の命」


 そう言うが早いか、ヴィネアはとうとう泣きそうに顔を歪めた。その心が揺らいでいるようにも見える。
 初めて見る表情にジョシュアの良心が咎めた。だが、ここまで来て止まる訳にはいかない。あともうひと押しだと思った。

「今ここで――」

 ジョシュアがそうやってヴィネアに条件でも突き付けようとしたその時だった。
 突然広間の中央に魔力が集まり出したかと思うと、その場に複数の人影が忽然と現れた。人影は五つ。
 やけに見覚えのあるシルエットだなぁと嫌な予感がして。ジョシュアは咄嗟にヴィネアを手でひっくり返し、片腕を後ろに捻り上げながらその背中に乗った。

「ッ何を――!」

 喚くヴィネアを地面に押さえつけ、彼らの行動を見守った。何が起ころうともここで逃す訳にはいかなかった。

「ヴェロニカさん、助太刀します!」

 いつか見た黒髪の男が、腰の剣を抜きながらそう叫んでいた。途端、遠くの方から舌打ちが聞こえた気がした。ジョシュアもまた同じような気分だった。

 助太刀は正直にありがたい。ただ、事情を何も知らない“困ったちゃん”達に今更入ってこられても、ややこしくなるだけだと思わないでもない。
 それに何と言っても、ジョシュアはまだ、魔王との取引きの事を半分しかミライア達にも伝えていないのだ。
 邪魔だけはして欲しくない。そういうジョシュアの事情を彼らが理解できるのかどうか。

 静かに彼らを見ていると、五人の人影はまず、多数の魔族達に囲まれているヴェロニカ達三人のもとへと駆け寄っていった。外側からあまり近寄ってしまうと、逆にヴェロニカの攻撃の邪魔になるのだが。彼らが理解している様子は見られなかった。

 彼らが現れたほんの一瞬、向こうの方で暴れているイライアス達の動きが止まったようにも見えたが、次の瞬間には再開されていた。

(さすがのイライアスもキツそうだな……まだ、箱の在り処が分からない。このままコイツをここで解放して――)

 大丈夫だろうか、そう続けようとした思考が、突如感じた悪寒で中断させられた。
 このままでは自分が危ない、とほとんど反射的に上体を仰け反ると、次の瞬間にはそこに、掴みかかろうとした誰かの腕があった。こんなの、黒助の仕業に決まっている。頬を爪に抉られて血が滲んだが、気にしている暇なんてありはしなかった。

 初撃は辛うじて躱したが、まさかほとんど間を置かず次撃が来るだなんて想像だにしない。
 次の瞬間には、ジョシュアは胸元を強く殴打された。ぐう、と息が詰まったかと思えば勢い良く横に吹っ飛ばされる。幸いにも初撃ほどの威力はなかったようで、骨も折れる事なく空中で体勢を整えてから着地した。
 ただ死ぬほど痛かった。苦しさで額に汗が滲む。

「――ゲオルグ

 着地してしばし這いつくばったまま、ゲホゲホと咳き込んでいると、その様子を目撃してしまったらしいニコラスから声が飛んできた。彼は昔のジョシュアしか知らない。今、ジョシュアが何者なのかも。
 彼はきっと純粋に、ジョシュアの死を危ぶんで叫んでしまったのだろうが。

 今、そうやってジョシュアを気に掛ける声は悪手だ。ジョシュアと、そしてニコラス達に奴らの目がいく。他の魔族どもならまだいい。あの黒助に目を付けられては終わりだ。
 その時不意にあの時を、エレナが死んだ時の事を思い出してしまって、ジョシュアは一気に血の気が引いた。あんなのは二度と御免だ。
 今、この拮抗状態が壊れたとしても、ジョシュアがすべきなのは。

「ッ――ミライアァ

 ジョシュアはその場で思い切り叫んだ。
 それしか思いつかなったのだ。みっともなく思われるだろうが、確実なのはこれしか。例え魔王との約束を反故する事になったとしても、これでジョシュアの身に何が起こったとしても。

 思いきり叫んだせいか、一気に呼吸が苦しくなった。再生はしているようで痛みは段々と引いていくが、しばらくまともに動けそうになかった。
 遠くで何かが壁に激突するような音が聞こえた。きっと彼女がうまくやってくれたに違いない。そう安心して呼吸を元に戻す事に専念するが、ジョシュアの耳には何者かが近寄ってくる音が聞こえていた。翼の羽ばたくような音だ。

 まずいな、なんて考えながら体を動かそうともがく。だがそれよりも早くジョシュアの背中を衝撃が襲って、その場で体を地面につけてしまった。

「ぐッ!」
「阿呆が。……これで、形勢逆転だなァ」

 やはりというか、上からヴィネアの声が聞こえて来た。
 背中に乗られながら、ジョシュアの首元にナイフが突き付けられたのがわかった。捕まっていた時にジョシュア愛用のものを失敬されたらしい。またこれで自分は人質だ、なんて考えてしまって嫌気がさす。ただ、イライアスとアンセルムの方から何も反応がない事を考えると、彼らもまた黒助にしてやられたのだろうと思う。そんな事に少しだけ安心した。

「チッ。あの“悪魔”め……主人《あるじ》様でもクロでも、止められなかったと言うのか……」

 背後からそんな呟きが聞こえてくる。これまでジョシュアが見てきたヴィネアからすれば、ひどく不安げに聞こえる。先程のジョシュアの言葉が効いているらしい。決して無駄な時間ではなかった。

「だから、言っただろう……お前たちの中に裏切り者が――」
「黙れ!」

 すかさず言葉を重ねれば、ヴィネアは激高したようにナイフを強く押し付けられた。皮膚にピリリと痛みが走り、血が滲んでいるのがジョシュアにもわかった。だが同時に、まだチャンスは続いていると確信した。

「ミライアを、止めに入らなかったのはなぜだ? 先ほどは止めたのに」
「うる、さい……」
「あの様子じゃ、追いもしなかったんだろう」
「……」
「箱を開けられるのはお前か? それとも他の誰かか?」
「!」
「鍵はちゃんと閉まっているのか? 中身は二つとも入っているか? それはお前らの命に関わるんだろう?」

 再びそう繰り返した。

 その箱の鍵は今ジョシュアの懐にある。それをしかしヴィネアは知らないだろう。未だにあの魔王が持っていると思っている。
 だから今ここで、長々と会話を交わしてから、ヴィネアに箱を取り出させればジョシュアの勝ちだ。形勢逆転した、なんて思っているのはヴィネアだけ。例えジョシュア以外、イライアスとアンセルムが動けずにいようが関係ないのだ。

 向こうの方からけたたましい破壊音が聞こえてくる。ミライア達がよっぽど激しく暴れているらしい。しかし反面、ジョシュアとヴィネアの間に邪魔が入ることはなかった。

「……そんなはず、ない……」

 力を失ったような静かな声が上から降ってきた。心なしかその声が震えているようにも聞こえる。
 ジョシュアは追い打ちのように、更に言葉を続けた。

「どうしてだ? なぜ言い切れる」
「だって……」
「お前が一方的に押し付けたんじゃないのか? この状況を」

 ジョシュアは知っているのだ。どうしてこんな事に――多くの人間が犠牲になるような状況が作られたのかを。だから的確にヴィネアの思い込みを突けた。

「確認した方がいいんじゃないのか? お前に居なくなってほしいと、そう思っていないかを」
「……」

 首に突き付けられていたナイフからは既に力が抜けている。それでもジョシュアは、動かずにその時を待った。

 しばらくジッとしていると、ついに、そのナイフが投げ出された。
 カランと地面に倒れる音が聞こえ、衝動に駆られたように背後で動く気配を感じる。
 ジョシュアはそっと様子を窺うために、首だけを回して振り返った。

 そうして、ジョシュアの目の前で。
 追い求めていたその箱が、ヴィネアの翼の中から取り出された。
 “ベルエの箱”――入れたものの時を止める箱。この悲劇を終わらせる事のできる唯一。

 ジョシュアはそこで遂に動き出した。
 胸元のダメージは先程の会話で動けるまでに回復している。血を飲んでいて正解だった、なんて。頭の片隅に思いながら、上に乗ったままのヴィネアへと牙を剥いた。

「なッ

 体を素早く反転させ、その箱に掴みかかった。
 一瞬の出来事だった。
 その手から箱を取り上げ、再びその脚でヴィネアを地面へと蹴り倒す。それにヴィネアが呻いている間に、ジョシュアは、懐のカギでとうとう、中を開いた。

「っ返せ

 ジョシュアの脚の下でヴィネアが必死にもがいている。その表情を見るだなんてできなかった。時間はあまりないだろう。そう思いながらも、緊張で手が震えた。

 不思議な気配のするその箱の中には、未だに脈打つ心臓が二つ、並べて収められていた。
 一瞬それに怯んでから、ジョシュアは迷うことなく、その内の一つを掴み取って頭上へと掲げてみせた。

「全員その場から動くな
 
 大声でそう叫ぶと、たちまち室内からは音が消えた。
 皆が戦うのを止め、ただ呆然とジョシュアを見つめていた。





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