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92.幻は闇で育つ
『ひっく、ひっく……!』
暗闇の中で誰かの泣き声が聞こえた。
音の出どころには見当もつかないけれど、どこかからすすり泣くような声が聞こえてくる。小さな子供の泣き声のようだった。
それが暗闇の中で反射して、ジョシュアの耳へと入ってくるのだ。誰のものかもわからないけれど、不思議と不気味さは感じられなかった。いっそその側に駆け寄って慰めてあげたくなるような、そういう焦燥感に駆られる。
そういう真っ暗闇の中で、ジョシュアはふと歩き始めた。その鳴き声の主を探して。
だが、歩けど歩けどたどり着けない。泣き声は止まない。いっそ、その声に引きずられるように、辿り着かないという焦燥がジョシュアの中に生まれるだけだった。
そんな時にふと、すすり泣きに紛れて声が聞こえてきた。先ほどよりもはっきりと、言葉を伴った声が聞こえた。
『いやだよぉ……だれか、だれか――』
それを耳にしている内に、その子供の感情がジョシュアの中へと流れ込んできた。孤独と悲しみと悔しさが混ざり合ったような、とても子供らしい想いの詰まった潮流だった。
堪らずジョシュアは咄嗟に耳を塞いだが、無駄だとばかりに頭の中に直接感情が染みわたってくる。
悲しい、寂しい、悔しい、苦しい、どうして――そういう子供の敏感な感情が、つぶさに流れ込んできていた。油断をすれば、その渦に巻き込まれそうになる。ジョシュアはその場で耳を塞ぎ、蹲りながら歯を食いしばって耐えた。こうしていればいつか、この子供の気が晴れるのではないかという希望が胸にあったから。
だが、一向に泣き声は止まない。
そうしている内に突然、その子供は助けを求めるように絶叫した。
『あるじさま――っ!』
「――ゲオルグ!」
体を揺さぶられながら耳元で叫ばれ、ジョシュアはびくりと体を震わせながら目を開けた。
先ほどまで子供を探していたような気がしていたが、俯いていた顔を上げると、目の前には心配そうな顔をした男の姿があった。最近は何かと不運が重なり、碌に顔を合わせていなかった赤毛の美丈夫だ。自分勝手で自由で逞しい、ジョシュアに吸血鬼やらなにやらを教え込んだ張本人。そんな男が、酷く心配そうな表情でジョシュアを見下ろしていた。
「起きた! ねぇ、平気? 大丈夫? 何があったの……?」
そう言いながら優しく肩を揺さぶってくる。だがジョシュアはこの時、ほんの少しだけ混乱していた。
「今……」
「なに、どうしたの?」
「子供が、泣いてなかったか……?」
「んん……?」
先ほどまで泣いている子供を探していたような気がして、咄嗟にその場できょろきょろと周囲を見渡した。だがもちろん、子供の姿どころか泣き声ですら聞こえない。
「今さっきまで、泣いてる子供を探していて……」
「……もしかして寝ぼけてる?」
「?」
先ほどまでとは違った表情で顔を覗き込まれて、ジョシュアはそこではたと我に返る。はて、自分は一体今何をしていたのだったか。そうしてよくよく思い返してみて、ようやく気が付いた。
あれは夢だったのだ、と。ポカンとした顔を晒してから気付き、ジョシュアは俯いてその場で身悶えた。
「……すまん……夢だったようだ……」
「だよね? わー、何かと思ったよ。急に子供が泣いてるだなんていうんだもん。幽霊でも見たのかと……」
俯いて両手で頭を抱えたジョシュアの頭を、目の前の男――イライアスがぽんぽんと優しく撫でる。そして。
「慌てて探しに来てみれば――何をボケッとやっとるんだお前は」
そういう二人のやり取りを見ていた同行者達の一人、ジョシュアの親であるミライアが、いつものように仁王立ちをしながらそんなジョシュアに向かって声を投げかけた。
声のする方を見れば、ミライアだけではない、全員がこの場には揃っているようだった。
ヴェロニカもセナもラザールもアンセルムも、どこかホッとしたような、不思議そうな表情をしてジョシュアを見ていた。
「まぁまぁ……本当に心配したけれど、特に何もないのであれば良かったですわ。ゲオルグあなた、無事なのよね……? 怪我もしていないようですけれど……一体、あの後何があったの?」
そう宥めるようなヴェロニカの声に、全員の視線が再びジョシュアへと向いた。
ゲオルグという偽名もすっかりジョシュアに馴染み、誰もが自然とその名前を受け入れているのが少し妙な気分だった。
それからジョシュアは、引き摺り込まれてからこれまでにあった事を短く端的に説明した。通常の魔力では探知できず魔力の使えない結界の事、そこで見かけた魔王らしき男の事、その男との取引の事、そしてヴィネアの私室の事。ジョシュアは全部をこの場で話した。
だが一つだけ、魔王と交わした約束については少し言葉を濁した。ここにはセナやヴェロニカもいる。彼と行ったのは取引なのだ。ジョシュアを逃して鍵を渡す代わりに、ジョシュアも受け入れた条件というものがある。それを、今はまだ知られたくはなかった。特にこの二人には――。
「まさか本当に実在するとはな」
ジョシュアの話を聞いたミライアが、今までに見た事のないほど渋い顔で言った。
基本的に、魔族は生きれば生きるほどにその力を増す。ジョシュアの見たように、お伽話になるほど果てしない時を生きていた魔族がいたとしたら。それはとんでもない事なのではないか。指摘されると余計にそういう気がしていた。
「とても夢のような話じゃないか」
誰もが真剣に考えている中で、ふとアンセルムはそんな事を言った。
「お伽話がまさか実際にあった話だなんて。誰もが想像し得なかった事だろう? 僕はその魔王とやらと少し話をしてみたいなぁ」
「おまっ……何を呑気に……」
すかさずラザールに嗜められたけれど、それはアンセルムらしいとても自由な発想だった。否定するのでも怯えるのでもなく、ただ純粋なる好奇心。そういう彼の在り方は少し羨ましいとさえこの時ジョシュアには思われた。
そしてアンセルムがそう言った直後、噴き出すような音がその場に響いた。音のした方を見れば、セナが慌てて口を押さえる所だった。
「……いやごめん、ちょっと、あんまりにもボケた事言ってる人がいたからつい」
相変わらずズバリとモノを言う。
そういうセナの言葉に、言われたアンセルムは不服そうに口を尖らせた。
「ボケたとは失礼な。僕はちょっとだけヒトとは違う発想をするだけだよ。僕は芸術家なんだから、仕方ないじゃないか」
「自分で言うな」
「……ラザール冷たい」
「段々とお前の扱い方が分かってきたぞ」
「……」
まるで猫科の動物と調教師だ。セナも彼らの様子に何か感じるところがあったようで、それ以上は何も言わなかった。
そういう二人のやりとりを見てから、ふとミライアが緩んだ空気を引き締めるようにして言った。
「阿呆な話はその辺にしておけ。お前達、ここまで来てまさかこのまますぐ帰れるとは思っていないだろうな?」
言いながら少し、威圧感のある表情でミライアは言った。普段から随分と偉そうには見えるのだが、こういう時の彼女はより一層迫力が増す。
「根城を変えられる前に突入する。こんなチャンスは二度と来ないだろうからな。進むぞ」
誰一人、それに反対する者はいなかった。最初から皆そのつもりだったのだ。ジョシュアの誘拐はただのキッカケのひとつに過ぎない。
奴らがこの地から離れる事はないだろう、と何となく察していたが、今この時が好機なのだというのはジョシュアも同意見だった。情報も状況も人員も揃っている。おまけに敵はきっとジョシュアの動向に気付いていないはず。今しかないのだ。
すぐ側でやはりソワソワしているイライアスを視界の隅に納めながら、ジョシュアは顔を向けてきたミライアへと視線をやった。
「下僕、入り口はどこだ?」
ジョシュアの右手側、その先にある通路を顎でしゃくりながらミライアが聞いた。
未だに壁伝いに座り込んだままだったジョシュアは、記憶を頼りに目的の壁を指し示しながら言う。
「そこだ、そこの突き出た岩の手前。壁の奥に隠された通路がある。魔力もほとんど感知できないが、結界のような気がする。突き抜ければその先に通路がある」
「ふむ……お前、案内はできるんだろうな? 魔力が使えないのだろう?」
「ああ。それは問題ない。一定間隔で壁に目印を付けてきた。時々、道を引き返したりしているから辿り着くまでに少し時間はかかるだろうが」
「かまわん。上出来だ。では立て、下僕。案内しろ」
そう言うミライアの言葉にうんと頷きを返し、ジョシュアは立ち上がってその場で服の埃を払った。
ゆっくりと目的の壁の前に立ち、手をそこに突き入れてみる。するとジョシュアの腕は、そこにあるはずの壁を突き抜け、その奥にある空間へとすんなり入り込んでいった。
おお、っという驚きの雰囲気を背後より感じながら、ジョシュアは一度、ミライアの方を振り向いた。彼女はただ一度頷いたかと思うと、再び皆の方を向いて言い放った。
「では皆の者、この下僕に続いて――」
いけ、最後の戦いに挑むのだ!――とミライアがそのような号令を下そうとした、まさにその時だった。
ジョシュアは、あっ、とそこで気が付いてしまった。勢い良く一歩踏み出したその脚を、元に戻してそろりと後ろを振り返る。
ジョシュアのあとに続こうとしていた面々が、ゾロゾロと動き出している様子が視界に入った。ジョシュアを見下ろすミライアの怪訝な表情が、この時ばかりはひどく痛く感じられた。
「どうした? なぜ進まん?」
その言葉に全員の視線がジョシュアに集中する。
そこでほんのわずかに言い淀んでから、ジョシュアは皆に向かって言った。
「その、こんなタイミングで非常に悪いんだが……誰か、血をわけてくれ……」
その瞬間、まるで時が止まったようにジョシュアには感じられた。ミライアの顰めっ面よりも、皆のぽかんとしたような間抜けヅラがとても、ジョシュアには痛かった。
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