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87.我が主人様

 彼の一日は、主人《あるじ》様の姿をその目に収める所から始まった。

 遺跡のごとく古ぼけた祭壇にのぼり、横たわったその御身に祈りを捧げるのだ。眠り続けている主人を護る結界にひたすら毎日魔力を込め続ける。気の遠くなる程の時間によって綻び始めた強固な結界を、壊す事なく維持するために。
 ずっとずっと昔に眠りについた主人様が、いつかその眠りより目覚める事を信じて。

 永きに渡って主人に仕えてきた一族は、ゆっくりと時間をかけて滅びていった。いくら長命たる魔族とはいえ、時間は有限であったし、何より直接与えられた訳でもない使命に縛られるのを多くの者たちが嫌った。

 いつまで経っても目覚める気配を見せない主人に、待つのは無駄だといって一族の多くがこの地を離れていった。そうやって一族から離脱してゆく者たちが増え、気が付けば彼が最後のひとりになってしまっていた。

 結果として、かの種族もまた他の魔族同様に各地に散らばる事となり、その一族の血筋は彼を残すばかりとなった。外では、他の魔族や人間とまじわり子を成す事を放棄し出す者が増え、他の種族同様緩やかに絶滅しつつあるという。

 外へ出て行った一族の皆は、彼を夢想家だといって馬鹿にした。一族の中でも彼の力に敵う者はいないというのに。それでも、ただ魔族らしからぬと捨て台詞を吐きながら、連中はこの地を去っていった。
 彼はそれを冷たい眼差しで見送った。運命に抗おうともせず、与えられた境遇に感謝するでもなくただ口ばかりが達者になった臆病者たち。一族の誇りさえ捨てた同族たちを、彼は心底軽蔑していた。

 かの主人に仕え、その手足となり世話を焼くというのが、古《いにしえ》から続くその一族に与えられた役割だった。

 強い者しか生き残る事のできない魔族の中でも、彼の種族は力を誇示しにくい性質をもつ。生まれつき男にも女にも成れるし、人間に化けるのも人間を操るのも得意だった。大規模な魔術はからきしだったが、代わりに細かな操作ができた。それ故にか、初めは軽んじられる事の多い種族だったという。

 だがそれを主人はガラリと変えてみせたのだ。人間たちとの戦いにおいて彼らの種族を重用し、そして大きな戦果を上げた。彼らの働きによって、人間の軍隊が内側から瓦解してゆく様は中々に壮観だったという。

 それからというもの、彼らの種族を軽んじる魔族はほとんどいなくなった。それどころか、主人の率いる軍においては戦略の要ともなった。かの種族を軽んじればすれば即ち、主人に喧嘩を売るのと同義。魔族の中でも頂点に立つ主人に、喧嘩をふっかけようだなんて思う馬鹿な輩がいるはずもなかった。

 以来、魔族におけるかの種族の地位は格段に向上した。それに感激した種族長は主人に忠誠を誓い、以降主人に使える血族が誕生した。それが、彼の一族の成り立ちであり、主人と彼の種族との絆であった。

 彼は当然、眠り続けている主人と直接ことばを交わした事すらないけれども、今もなおその逸話を信じ続けているのだ。例え誰が何を言おうとも、どの魔族よりも強く、そして世界を統べるに相応しい魔族はこの主人しかいないと。

 彼が子供の頃から聞かされてきた話は、成人して数百年生きようが色褪せる事はなかった。活躍の場すら与えられていなかった自分達を暗闇の底から引っ張り上げ、磨き上げて輝かせてくれたのはこの主人なのである。いっそ崇拝にも近かったかもしれなかった。


 ある満月の夜だった。
 その日のお勤めを終えた彼は、気晴らしに人間でも引っ掛けようと街へと上り、今日の獲物はどんな人間がいいだろうかと屋根の上から物色していた。彼の視える範囲においては他の魔族の気配は皆無で、安心して狩りができる事はあらかじめ確認しておいた。

 この街に住む人間は皆、昔から職人カタギで扱いにくい。酒も色事も滅多に手を出さない連中で、少しでも予定と違う行動をさせるとあっという間に騒ぎになるのだ。

 だからいつも彼は、観光客やら流れの商人やらを狙う。一晩か二晩、消えても問題のなさそうな軟派な人間。それが一番術にかかりやすくて食べやすいのを彼は知っていた。

 気付かれぬよう屋根の上からジッと見下ろし、聞き耳を立ててそれぞれの行動を見守る。主人の結界をひとりきりで管理するだけあって、彼の隠遁術は人間には真似できない程優れたものになった。だから誰にも――同じ魔族であってさえ、彼に気付ける者などいるはずがないと高をくくっていた。

 しかし、彼の一族が長年に渡り主人を人間から匿うほど優れた結界魔術を維持する事ができるように、それを見破るほど優れた目を持つ戦士が魔族の中に居るだなんて、井の中の蛙たる彼は全くもって知る由も無かったのである。

 気付いたのは声を掛けられてからだった。
 『動くな』
 と低く静かな声がすぐ背後から聞こえた。その時まで気配なぞまったくもって感じられず、声を聞いて初めてその存在に気が付いた。

 慌てて彼が振り向くと、そこには闇の如き男が立っていた。
 髪も目も黒ければ服装でさえ黒。男にしては長すぎる黒髪が、微かな風に靡いて揺れている。紅く鋭い眼光を輝かせ、月夜を背景にして凶器たるその爪を彼に向かって突き付けていた。

 思わず息を呑んだ。
 気配は大魔族の如く強大で、ただ戦うばかりでは勝ち目のない相手であるのはすぐに理解できた。だからこそ疑問に思う。なぜ、彼のような弱い魔族に接触を図ってきたのか。思い付く理由など何も無かった。

 魔族同士が同じ土地で出会《でくわ》してしまったら、その場で殺し合いが始まるのが常識のようなものだった。あまりにも力の差がある場合には戦うような事はしないが、負けると分かっていても戦いを挑むのが魔族なりの生き方でもあった。縄張りを賭けて互いの強さを競い合う。何をしていようが戦う事以上のものはない。魔族とは元々そういうどうしようもない生き物なのである。一部の魔族を除いて。

 こんな時に一体どうすべきかなんて、一族では誰も彼に教えてはくれなかった。強固な結界の中にさえいれば大抵の不届者は寄せ付けないし、そこいらの魔族程度なら彼にだって相手にはならないくらいの力量はあるのだ。一族では負け無し。ただし相手が強すぎない場合に限る。

 ならば今はどうかというと、言わずもがな。元より最強種族と名高いバケモノを相手に、彼のような非戦闘種族がたったひとりで一体何ができるというのだろう。覆し難い、絶望的な状況のように思われた。

 そんな絶体絶命な危機的状況であるというのに。この時彼は、どうしてだか一歩もその場から動く事ができなかったのである。
 男の纏う色のコントラストから目を逸らす事ができなかった。

 全身が闇のような黒で、月明かりのような青白い肌だけが闇の中に浮いているようだった。モノクロの世界に放り込まれたような光景の中で、紅いその目だけが強烈な色彩を放っていた。

 同族の美人、美女、美男を飽きるほど見てきた彼が、その時初めて他者に見惚れた。確かに、あの種族特有の妖しい雰囲気や、この状況に別の意味でドキドキしているというのもあるだろう。出会い頭に殺し合いも始まらなかったし、彼の魅力にヤられて別の意味で襲いかかってくる様子もない。ハッキリとした理由は何も分からなかった。ただ一歩も、動く事ができなかった。
 両者共に不動、しばらくの間沈黙がその場を支配していた。

 結局、その沈黙を破ったのは彼の方が先だった。

『……あの、お前何者だ? なぜ俺に接触してきた?』

 我に返るのが彼の方が先だったといっても良いかもしれない。突然武器を突き付けられたまま、互いに無言で見つめ合うその状況に居た堪れなくなった。

 本当であれば、その無礼ともいえる状況に対して怒るべきところなのだろうし、普段の彼ならば確実にそうしていただろうけれど。この時は不思議と、彼の中で怒りなんて感情は浮かんで来なかったのだ。珍しい事だった。

『……おまえに聞きたいことがある』

 しばらくの沈黙の後で。武器を下ろしながら男がぽつりと溢すようにいった。どこかぎこちなさを感じるようないい方でもあり、彼ははて、と言葉に応えるようにして首を傾げた。

『“番人”というのはおまえの事か』
『!』
『“王の墓所”を護るという……』

 そう問われたのは生まれて初めてで、彼は一層驚愕しながら男を見上げた。込み上げてくるのは、ホッとするよりもむしろ嬉しいという気持ちかもしれない。途端にかぁっと熱くなった胸中を誤魔化しながら、彼は努めて冷静にいい放った。

『……その話、ここですべきものじゃあない。着いてこい――』

 “王の墓所”というのは表向きのものであるし、そもそもそんな古い伽話を信じるような魔族なんてこれまでに現れた事などなかった。だからだろう。そういう話を信じてこんな所までやってきてしまった男を、彼は自分と同類の魔族だと認識した。
 初めて同類に会えたのだ。嬉しい、なんて言葉では足りなくて、男を後ろ背にしながら彼はずっと、うっとりとした表情を無意識に浮かべるのだった。

 そしてその時から男は、彼の共犯者となったのである。主人《あるじ》様のためだけに行動する、忠実な従僕。
 それは少しだけ昔の、真っ黒な男との出会いの話である。


「ヴィネア」

 その男は今では、彼のいくつもある名前を状況によって呼び分け、最も優秀な下僕として動いてくれるようになった。魅了の力に頼るでもなく、自らヴィネアの為に動くようになった。
 何が最強たる種族の男をそうさせているのか、彼にとっては疑問でしかなかったが。彼は、使えるものなら何でも使う主義である。

「なに?」
「なぜ、この男を連れて来た」

 主人の隣を陣取る彼――ヴィネアに向かって、吸血鬼の男がいった。問われて後ろを振り向けば、小脇に抱える吸血鬼を胡乱げに見やる男の姿が見えた。ほとんど無表情でいる男がそういう風に表情を変えるのは珍しくて、ヴィネアは少しばかり首を捻りながら軽い口調で答えた。

「今ここでソイツを野放しにしておくと厄介だから」
「……“あの女”ではなく?」
「“あの悪魔”はお前の手にさえ余るんだろう?」
「……」

 言えば途端に男は黙り込んだ。いくら戦い好きとはいえ、“あの女”には敵わないという自覚は当人にもあるのだろう。そういう男の様子に舌打ちをすると、ヴィネアは前を向いて例の女の事を思い浮かべた。

 ヴィネアの行く手を阻む者の中で、最も厄介なのはあの吸血鬼の女だった。倒すすべなど今の彼らでは到底見出せないし、何よりあの女の持つ知識が厄介だった。
 何もかもを見透かしたような物言いがひどく気に食わない。まるで、ヴィネアの心の内さえ見透かしているようで。

「アレらで勝手に潰し合ってくれたら楽なんだけどなァ……手を組まれるのは困る」

 巷で話題の人間共と、あの女吸血鬼らの姿を思い浮かべながらヴィネアはいった。まさかこんなに早くここを嗅ぎつけられるとは想定外だった。
 咄嗟に嫌がらせのようにひとり人質を取ったはいいものの、いくらこの複雑な地下街とてそう長くは持つまい。無駄に勘のいいこの吸血鬼の能力は潰したから、ある程度時間は稼げるだろうが。どれほどになるかはヴィネアにも予想がつかなかった。

「今後については後で話す」

 小脇に抱えられた吸血鬼をチラリと目にしてから、ヴィネアは再び前を向いた。

 この吸血鬼に構い過ぎたという自覚はあった。たかが成り立ての吸血鬼ごときに。
 普通の魔族らしくない、という所に自分と同じ姿を見てしまったのか。或いは、半端者の癖に優秀とされる自分の術を耐え切ってみせた所で意地になっていたのか。自分でもよくは分からなかった。

 ただあの時はどうしても、この男をこちら側へ引き込んでしまいたくて堪らなかったのだ。計画をぶち壊してくれたその腹いせ、とも思わないでもないが。それとはどうやら少し違う気がした。

 不可解だった。
 自分で自分の行動の理由が分からない。分からないふりをしているだけかもしれないが、ふりなのか本当に分からないのかすらも分からなかった。
 思考が纏まらない。柄にもなく焦っている。やるべき事すら思い浮かばなかった。自分の引き起こした状況に落とし前を付けたくても、何が一番良いのかが分からなくて選ぶ事も戸惑われた。
 暗闇を歩いている内に床が抜けたような、そんな気分だった。この歳にして迷子になってしまったような。ヴィネアは歩き慣れた地下通路を歩いていた。

 そうしていた時にふと、隣から視線を感じた。
 気付いてふっと見上げると、そこには主人《あるじ》のいつもの眼差しがあった。それが気遣わしげにヴィネアに注がれているようで、思わず頬が綻んた。

「どうされました?」

 気にかけて貰えたことが嬉しかった。無意識に頬を染めながら、ヴィネアは殊更甘えたようにいった。
 けれど主人はいつものように無言で。ふるふると首を横に振ったかと思うと、ヴィネアの頭を二度ほど撫で、そのまま前を向いてしまった。
 もっと頭を撫でてくれてもいいのに。そんな事を思いながらヴィネアもまた、眼前に広がる通路を見た。

 一寸先は闇。
 この地下の道なんて全部わかっているはずなのに。どうしてだか、歩いても歩いても目の前には闇ばかりが広がっている気がした。
 




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