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幕間:アンセルム

 アンセルムが芸術の都《オウドジェ》へとやってきたのは、三世紀ほどは前の頃になる。親となった吸血鬼の気まぐれというやつだった。

――今日はここにしよう。この街の雰囲気は他所と随分と違っている。お前も気に入るだろうよ。

 アンセルムの親も随分と変わり者で、しょっちゅう根城を変えては様々な人間を観察することを好むような吸血鬼だった。アンセルムもどうやら、観察していた人間の内の一人だったという。

 売れない画家だった。
 その生活ぶりはあまり褒められたものでなく、何人もの愛人や恋人の一人一人に熱烈な愛を囁き、彼女ら彼らの家を転々としていた。なまじ顔は良かったものだから、トラブルになっても愛人や恋人は減る様子も見られなかった。
 画家としての本分を果たすのもいつも彼の気まぐれで、時々絵画を描いては道端で売り歩いたりしていた。その度に彼の容姿に惹かれた人間がひとりふたりと現れ、そうやって彼のパトロンはどんどん増えていった。彼の絵画自体は、容易く大衆に受け入れられる類いのものではなかったが、その独特なタッチを好む人間も少なくはなかったようだった。

 そんな彼の生活が、親となった吸血鬼の興味を引いたという。破天荒な彼の生活ぶりが、見ていて飽きなかったそうだ。
 いつかきっと刺される。自分でもそれは分かっていて、けれど今更辞められる訳もなかった。

 そんな生活が失われたのは突然だった。案の定、アンセルムは刺された。誰もいない暗い路地裏で、後ろからぶつかられてグサリだ。
 恋人の一人の元恋人が、彼に恨みを抱いた結果だった。罵詈雑言を浴びせられながら胸を何度も刺された。碌な抵抗もできずに血の海に沈んだ。痛みすら遠くに消えていく中で、ああ自分はこれで死ぬのだな、なんてアンセルムは焦りもせずにそんな事を考えたりした。
 だが、彼のそんな予感は外れる事になったのだ。

 ――気が付いたかい?

 ハッとして目を開けると、アンセルムはどこかの家のベッドに寝かされていた。自分はあのまま死んだのではなかったのか、なんてぼんやりと起き上がりながら、声をかけた人間に目をやった。暗い部屋の中でもはっきり見えたその人は、アンセルムが今までに見たどの人間よりも普通ではなかった。

 特別美しい顔立ちではなかったが、やけに肌が白く見えた。それでいて優しく微笑むその表情は、どこかなまめかしい色気を湛えていた。
 そして何より奇妙に映ったのは、彼の服装の方だった。貴族のように上品なスーツに身を包みながらも、その服はどす黒い紅に染まっていた。血で、べっとりと濡れていたのだ。慌てて着替えようという様子も見られない。

――こんな姿で失敬。やむにやまれない状況があってね。着替える前に君が起きてしまった。死んだようにぐっすりと眠っていたから、目覚めるのはまだ先かと思っていたよ。

 初めはその言葉の意味が分からなかった。けれど彼と話していく内、徐々にその謎は明かされていった。そもそも、あんなめった刺しにされて生きている方がおかしいのだ。

――あのままでは生命の危機だったからね。時間がなかったから同族にさせてもらったよ。君は今日から、俺と同じ吸血鬼だ。

 こうしてアンセルムは吸血鬼となった。消えた美貌の画家の噂は一時期世間を賑わせたが、十年や二十年もすると、人々はそんな事件があった事すら忘れてしまった。それを悲しく思う反面、安堵する自分もいた。
 夢物語に出てくるような化物になり果ててしまっただなんて、そんなことは彼女彼らには知られたくなかった。

――俺らの寿命は長い。人々の記憶に残らない程度の存在になる方が都合がいいのさ。君も争いごとは嫌いだろう? ならば心しておくといい。
 
 その通りだと思った。少量とはいえ、生き血を啜るような化け物が表に出ていい訳がない。たちまち化け物としてハンター達に処理されてしまうだろう。
 そうしてアンセルムは、親である吸血鬼の下に仕えながら各地を転々とした。巡り巡ってオウドジェの街へと辿り着き、その魅力に取りつかれたアンセルムは親から離れて街に住まう事となった。例え人々の記憶にも残らないものになろうとも、彼らを眺めているだけでアンセルムは幸せだったのだ。――そう思い込んでいただけで、本心は全く別だったのかもしれなかったけれど。それでも、悪くない生活だったのだ。

 生活が壊れるのはあっという間だった。見慣れない魔族に声をかけたが為に、アンセルムの吸血鬼生は大きく変わってしまった。結果的にはそれほど大事に至らなかったけれども、街の人間を一人差し出してしまった。それが、彼に酷い自己嫌悪を齎したのは言うまでもなかったが。

『――俺は、アンタを殺したくない』

 殺されたいと思ったハンターは、彼に向かってそんなことを言った。自分の何が彼をそうさせたのかはさっぱり分からなかったが、本当のバケモノに成り果ててしまった自分も、再び生きてよいのだと言われた気がした。
 固く決めたはずのアンセルムの決心は、その場で大きく揺らいでしまった。それと同時に心も。アンセルムの心は、すっかり彼に奪われてしまったのである――。



「君というヒトはいっつもこうなのかい?」

 お人好しの吸血鬼の腕に食らい付きながら、アンセルムが聞いた。

「……こう、ってのはどういう意味だ」

 その肌を突き破る牙の痛みに耐えてだろう、彼は少しばかり顔を顰めながらアンセルムへと聞き返した。

「……そのままの意味だよ。ああやって突然現れた人間の我儘を聞いて手合わせをしてやったり、僕みたいなのの面倒を見て易々と血を分けてやったり。……絶対正気じゃない」
「よく言われる。……だが俺だって見ず知らずの奴にはしないぞ。アンタらがどちらも俺に縁のある奴らで、知らないフリにはできなかったから。それで助けたまでだ」

 眉間に皺を寄せながら質問を投げかければ、ゲオルグと名乗った吸血鬼は特に表情を変える事もなくそう言ってのけた。

「……どうだか」

 自分とはまるで考え方の違う彼を奇妙に思いながら悪態をつく。すると彼は、どこか困ったように笑みを浮かべた。


 一体どうしてこんな事になっているのかというと。その原因はアンセルムにあった。
 ゲオルグ達が来てからというもの、アンセルムは吸血を断ってしまっていた。今の自分が正気ではないと自覚してしまってからというもの、狩りに街へ出る事が怖くなってしまっていたのだ。もし、吸血中に正気を失いでもしたら。再び自分は誰かを殺める事になってはしまわないか。そう思うと自分自身が怖ろしかった。

 ゲオルグ達に頼んで監視してもらうという手もあったのだが、連日忙しそうに動き回る彼らの手を煩わせるのも悪いしそれに、吸血中《食事中》の姿を見られるのは抵抗感があった。

――吸血という行為はね、あまり好んで他者に見られたくはないのだよ。無防備だというのもある。気に入れば獲物をそのまま身体ごと頂いてしまう事だってあるからね。他人にそれを見せるというのは、いささか下品だろう――?

 そう言った親の言葉がずっとアンセルムの中に残っていた。雛鳥が親鳥の姿を見て狩りを覚えるように、親の吸血鬼の姿しか知らないアンセルムは、その言葉を忠実に守ってしまっているのだった。
 だからずっと言い出せなかった。空腹でどうにかなりそうで、その上正気も失いそうで。頑固で上品な吸血鬼としての意識が、アンセルムの意地を生んだ。

 だが、そんな我慢の限界もとうとう来てしまった。部屋に戻るなり眩暈がした。同時に強い吸血の衝動が彼を襲い、それに耐えながらもなんとかベッドへと向かった。
 そして、そんなアンセルムの姿を見たゲオルグが、その不調を見逃さなかったという訳だ。
 
 人間を傷付けたくないというその気持ちが分からないでもない。けれど長く生きた吸血鬼が突然、そう何日も吸血を我慢する事はできない。それ以上我慢すれば、無意識に人を襲う事になる。彼は淡々とそう言いながらアンセルムを説き伏せた。そして、彼の血を口にするようにと提案したのである。

 当然そんな提案には乗れないなどと抵抗もしたが、その甘い誘惑には耐えられなかった。もう、口にできる血液ならば何でもいい。目の前の吸血鬼が人間にすら見える。とうとうアンセルムは首を縦に振り、先ほどの問いかけへとつながる訳である。

 差し出された腕に牙を立ててひと吸いしただけで、身体の渇きが収まるのが分かった。みるみる内に何かで満たされていく。人間の血液ほどの満足感はなかったが、乾ききったアンセルムの中を潤すには十分なものだった。
 だが、そうやって吸血していた時だった。何故だかアンセルムの脳内にラザールの姿が思い浮かんだ。こんな時にどうして彼の事が思い浮かぶのか全く意味が分からなかったが、少しだけ後ろめたさを覚えた。

 ラザールよりも前にこの吸血鬼の血液を口にした。
 あり得ないだろうに、アンセルムはそれをラザールに咎められているような気分になってしまったのだ。
 やはりこんな事を思う自分は正気ではない。頭がおかしくなってしまったのだ。そう思うと、吸血に全く集中できなくなってしまった。後ろめたさが彼を襲っていた。

「……ありがとう。もう、大丈夫だ」
「早いな……それだけで保つのか?」
「うん、平気だ。随分と良くなったから」

 礼を言ってその腕の傷口を治し、アンセルムはそそくさとベッドの上へと横になった。吸血中の姿を見られて恥ずかしかったのもあるのだが。不意に思い浮かんだラザールの事で頭が一杯になってしまっていた。
 未だ恋人ですらないのに、まるで浮気を咎められるかのような気分だった。ましてや人間だった頃ですらそんな事なんて思ったことはなかったのに。

(なんだろうな……ここ数日は本当に刺激的な日々だ。死んだはずなのに生きているという気がする。本当、妙な気分だ)

 そういう呟きを最後に、アンセルムの意識はゆっくりと夢の中へと沈んでいった。





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