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婚約ってなんだっけ

 その日は、ずっと前からアーベルが待ち遠しく思っていた日だった。幼い頃から決められていた婚約者と初めて顔を合わせる日なのだ。

 優秀な兄を持つ第二王子であるアーベルは必然、政治的な駒としてどこかへと貰われていくのが定めのようなものだった。それでも、出来損ないなりに国に奉仕が出来ると思えば嬉しくもあった。

 土壌が豊かなだけの小国《リンデル》の第二王子の相手が、大陸でも知らぬ者はいない軍事大国《ミューランド》の者であると聞いて、アーベルにも確かに不安はあった。けれど、そのような重要な国との交渉に使われるのならば、この身もようやく役立つ時が来たというもの。幼くもアーベルは、自分の事をそのように考えていた。それに、婚約もそう悪いものではなかった。

 顔が好みだったのだ。
 婚約の決まった日に見せられた姿絵はまさに愛らしい姫君で、話に聞く限りでは随分とお転婆な幼少期を過ごしたと聞いた。そんな子も悪くない。微笑ましいではないか。
 アーベルはその、グレイスと呼ばれていた自分の婚約者に、一目惚れをしていたのだ。だから、彼女と会えるのを楽しみに、この10年の時を過ごしてきた。
 
 いくら政治的背景に基づく政略結婚だとはいえ、互いに良きパートナーとして共にいられるよう、自分を夫として迎える姫君には誠心誠意尽くすつもりでいた。

 そして今。アーベルの目の前には、待ちに待った自分の婚約者の姿があった。目元口元には、擦り切れる程何度も眺めた姿絵の名残りがある。
 そんな婚約者の姿を見て思わず、アーベルは隣に立つ侍従のオリバーを仰ぎ見た。

「おい、オリバー」
「何でしょうか」
「男なんだが」
「ええ、そうですね」
「僕の婚約者だぞ?」
「そうですがなにか?」
「……」

 大アリに決まっているだろうが馬鹿者が、と心の中でひどく悪態を吐きながら、目の前に立つ美しい婚約者を見上げた。

 堀の深い端正な顔立ちに、輝くような金の髪。その目は青空を写し取ったようなスカイブルー。確かに、見惚れる程美しかった。まるで、彫刻か何かのようである。
『……大層、お美しい方ですよ。くれぐれも粗相のないように』
 そう前もってオリバーに忠告されただけはある。

 性別を除いて筋肉を除いて身長を除いて、ついでに戦闘狂という渾名すら除けば、であるが。つまりは想像と全く違った。

 一目惚れをした姫君はどうやら男だったらしい。アーベルはもう呆然とするしかなかった。

「お前がアーベル・ド・リンデルか?」

 低めの声にそう言葉をかけられた。目の前の男から発せられた声のようだった。それにギョッとしながら、アーベルは精一杯に背筋を伸ばした。15歳を過ぎた頃からピタリと止まってしまった身長が、ひどく恨めしく思われた。

「そうだ。……自己紹介が遅れて申し訳ない。僕がそのアーベルだ。この婚約について、今初めて知った事があったものでつい、失礼をした」

 あの戦闘狂と名高いグレゴール・ド・ラ・ミューラ。王族でありながら戦の第一線で活躍する、軍人の中の軍人。猛者。
 チビで甘やかされて育った自覚のあるアーベルには、威厳あるその佇まいに気圧されるばかりだった。
 震える手を背に隠して、精一杯の背伸びをする。歳下相手にこんな、と多少悔しくもあったが。アーベルは大層負けず嫌いだった。

 だが、グレゴールの次の言葉に、アーベルの覚悟はたちまち明後日の方向へと飛んで行ってしまう。

「俺の妻となるのなら、ドレスでも着てめかし込んでくればいいものを」
「……は?」
「こんな馬鹿げた条件で一体どんな阿呆がくるかと思えば……頭は兎も角、ツラは合格だな」

 ニヤリと嫌な笑みでそんな事を言われて、アーベルは途端に腹の中で何かがふつふつと湧き上がってくる感覚を覚えた。その隣では、オリバーがひどく慌てているのがアーベルにも分かる。

「お前も俺に媚びてみるか?」
「……」
「お前のような輩は腐るほど見てきた。どれほど見目が良かろうが、俺を利用できるだなんて思わない事だ」
「アーベル様冷静に、ここは冷静にですよ?」

 オリバーのそんな言葉は、アーベルの耳を抜けて出て行ってしまった。
 
「俺は男とはヤらんぞ。残念だっ――」
「黙っていれば、好き勝手に言うではないか……! 僕だって、お前のような者だと知っていれば……それに、僕の婚約者でありながら何だその図体は! 絵姿と全然違うぞ! それではただの筋肉ダルマではないか

 ああ、とオリバーが隣で上を仰ぎ見るのがアーベルにも分かった。
 堪え性がない、というのはいつも言われてきた事であるが。自分だって覚悟を決めて、しかも少しだけウキウキとしながら来たというのに。その言いように我慢ならなかったのだ。理解できない部分もあったが、貶されているのは分かったから。

 グレゴールの額に青筋が浮かんでいる。わざとらしい引き攣ったような笑みが、真っ直ぐにアーベルへと向けられていた。

「……ほう? それで?」
「だ、大体なぁ、何故僕の婚約者が男なのだ 僕はあの絵姿の子ならばと、国同士の和解のためこの身を捧げるつもりでここまでやって来たのだっ……だというのに……何故誰も止めなかったんだ オリバー!」

 アーベルがオリバーに向かって勢いよく振り返った。その矛先を向けられたオリバーは、困ったように説明する。

「それは……お二人共嫌だとは仰られなかったので」
「僕は男だなんて聞いてないぞ
「もちろん言いましたが、アーベル様が舞い上がり過ぎてお聞きになっていなかったものと思われます」
「ぐうっ……おい、お前っ、グレゴール!」

 再びその視線がグレゴールへと戻った。すっかり追い詰められたような気分であるアーベルとは違って、彼は相変わらず澄ました顔でアーベルを見返してくる。

「お前は相手が男だと知っていたのか
「知らされてはいなかったな。……そうだと知ったのはつい最近だ」
「なん、だと……だがお前は今日、知っててここへやって来たのか?」
「どんな奴か見てやろうと思ったのもあるが……国同士の決定だ。今更俺が何か言ったところで簡単に覆せるようなものでもないだろう?」

 ぐうの音も出ない。王命どころか、他国との和平条約が絡んでいるのだ。一人の都合でほいほいと破棄できるようなものではない。アーベルは一人、唸るばかりだった。

「うぐっ……ぐぬぬ……」
「私はアーベル様に何度も確認いたしましたよ。あの方が婚約者で本当によろしいのかと。何年も。聞く耳を持たなかったのはアーベル様ですからね」
「ぐうぅ……もっと強く言えっ! ……父上と母上はなぜ止めなかったのだ?」
「それはもう、あんなに飛び上がって喜んでいらしたので……お二人は、無理に止める方がお可哀想だと」
「……なんと」

 王も王妃もアーベルには甘い。そして向こうは政治的思惑から婚約を押し進めたい。それがどうやら、こんな馬鹿げた事態を引き起こしてしまったようなのだ。
 本気で言い訳のしようがなかった。毎日、あの絵姿をいつでもどこでもうっとりと見つめながら、自分も国の役に立てる日が来るのだとアーベルは舞い上がっていた。それをまさか、こんな形で後悔する時が来るだなんて。

 王子として国の役に立てる。そう喜んで受けたものを、今更婚約を破棄したいだなんて口が裂けても言えない。意地でも貫き通す必要があった。混乱の余り、本当はどうしたいのかすら、アーベル自身にも分からなくなってしまっていた。

「ほう……? そんなに喜んでいたのか? 俺の絵姿を見て?」

 そのようなアーベルに、ニヤニヤとした笑みを浮かべたグレゴールが聞いた。彼の男らしい、堂々とした立ち振る舞いが益々アーベルの癪に触った。

「う、うるさい! あんな可愛い子が僕のものになるだなんて聞いたら、そりゃ嬉しいに決まってるだろうが
「んぐふっ」

 混乱のあまりにそう叫ぶと、オリバーから奇妙な音が出た。グレゴールは鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしている。アーベル自身でも何を言っているのかも分からなかった。
 失礼、と言って咳払いをしたオリバーは、少しばかり動揺しているようにも見えた。

「成る程な……事情は何となく分かった」
「……申し訳ございません」

 絞り出したような声で言ったグレゴールは、澄ましたようないけすかない表情も嫌な笑みも浮かべてはいなかった。どこか狐に摘まれたような顔で、アーベルの方を見ている。
 先程までとはどこか違った妙な空気が、その場には流れていた。

「いや、いい。……このまま進めるぞ」

 グレゴールがそう言った。それにはアーベルも、そしてオリバーですら驚愕の表情を浮かべる。

「なっ、何だと お前、正気か……?」
「……お前はその両陛下を悲しませるつもりか? 国の為にとここまで来たんじゃなかったのか?」
「うぐ……」
「俺もお前も、第二王子以下なんてのは国の為の駒だ。そんなのは分かっているだろう? ここでお前がうんと頷かなくても、どこかでまた同じような事になる。それなら、契約上だけでもなんでも、とっとと結んでしまえばいい。面倒そうでさえなければ俺は別に誰とでも構わん」

 グレゴールの言葉は最もだった。個人の感情がどうであれ、一国の王子として生まれた以上はそういう責務がある。最初から分かっている事だった。尻拭いももちろん自分でしなければならない。それくらいはアーベルももちろん、理解していた。

「言われなくてもそれくらいは分かっている! ……し、仕方ないな。分かった、お前の好きにするがいい。この僕と結婚できる事を喜ぶのだ!」
「……」
「重ね重ね申し訳ありません。皆、アーベル様を甘やかすもので……これでも根はイイ子なんです」
「オリバーッ!」

 あんまりな言いようにアーベルが叫んだ。外交の場、なんていう雰囲気はもうどこにもありはしなかった。

「ほとんどアーベル様が引き起こしたようなものではありませんか。大人しく貰われてくださいね」
「僕が貰われる方なのか……?」
「精神年齢的に」
「僕の方が歳上だぞ
「……ええ、そうですね」
「おい、なんだその間はオリバー」

 普段通りの二人のやり取りだった。
 そんな彼らへと、グレゴールの冷静な声がかかる。

「おいアーベル。ここへ署名しろ」

 グレゴールが、用意された机の前でアーベルを手招きしていた。本当にこの婚約をそのまま押し進めるつもりらしい。アーベルは口を尖らせながらも大人しくその導きに従った。

「……ここ?」
「ああ」
「こ、こうか?」

 ぎこちなくペンを走らせ、アーベルは求められた箇所に名前を記した。上目遣いで窺うようにグレゴールを見上げれば、彼は満足そうにこくりと頷いた。

「問題ない。――これでこの婚約は正式なものとなり、両国間の条約が無事に結ばれた事になる。追って両国王間でも会談が組まれるだろうが、その時には俺達も共に出席する手筈だ。……今日のような騒ぎはナシだからな」
「う、うむ……僕だってやる時はやるんだからな」
「んんっふ……せいぜい頑張れよ」
「何だその笑いは! 馬鹿にしているのか 先程も言ったが、僕の方が歳上で――!」

 キャンキャンと吠えるアーベルに、グレゴールは笑いながらまるで宥めるかのように言葉をかけた。先程までの強い口調とは打って変わって、どこか揶揄うような言いように何とも言えないモヤモヤとした気分を覚える。

 ずっと昔から、アーベルは失敗ばかりだった。何をやっても上手くいかない。落ち込むアーベルを、周囲はそれでもいいと言って慰めてはくれたが。王子でありながら不出来で役に立てないという罪悪感が、いつまでもアーベルの中には残った。

 この婚約で初めて皆の役に立てる。そう思ったからこそあんなにも喜んだ。まぁもちろん、お相手の姫君が好みの可愛らしい子だった事もあるが。
 それがまた、こういう失敗を引き起こすだなんて思ってもいなかった。そんなアーベルの失敗を、こうも易々と受け入れてしまえるグレゴールのその器量もひどく羨ましかった。自分とは違って何もかもできる人間。歳下のくせ、既に武勲すら立てて立派に活躍している人間。

 だからこそ、婚姻を進めてくれた事が嬉しくもあって、そして同時にひどく嫉妬した。こうやって喜んでいる自分とは違って、仕方なくも受け入れてくれたグレゴールが憎らしい。
 堂々と目の前に立つ彼を見上げながら、アーベルはそんな事を思う。

「――この城を案内する。ついて来い。俺達の暮らす城だ」
「なっ、何だと この城が……僕はただの会談の場だとばかり……」
「俺の話はさすがのお前も知ってるだろう? その褒賞の一つだ」

 言って、くるりと踵を返したグレゴールに慌てて付いていく。お付きの侍従や兵士達はそのままで、どうやら共には行かないようであった。

「領地も貰った。お前がどんな我が儘を言おうが聞いてやれるだけの財力はある」

 グレゴールの足並みに合わせて小走りに進む。その大きな背中をジッと見上げながら、この先の事に思いを馳せた。

「だが、国家間での思惑がある事は忘れるんじゃないぞ。中では兎も角、外面くらいは取り繕ってくれ」
「……それくらい、言われなくても。僕だって、何も考えてない訳ではないぞ、覚悟だって決めて来たのだ。男女の違いなんかは兎も角、お前の隣に立つ者としての責務は果たす。正式な場では僕の名でも何でも使え」

 そう言ってみせれば、立ち止まって振り返ったグレゴールと目が合った。明らかに驚いたような表情をしていて、アーベルはたちまちその目をつりあげる。

「な、……何だ貴様、その目は!」
「いや……さっきのを見る限り、お前にはあまりそういうのは期待できないと思っていた」
「っ、いくら僕だって、外からどう見られているのかそれくらいは知っている! 利口には程遠い……だからせめて、この存在くらいは役に立ちたいのだ。今回の婚約の件……こんな僕でも父上や母上の役に立てると思って舞い上がっていた。……迷惑を、かけた」

 だからこそ、この婚約には自分自身でまたかと失望した。同時に、理由はどうであれ拒絶しなかったグレゴールに救われもした。例え形ばかりの婚姻となっても、宣言した通りにその義務を果たすつもりだった。グレゴールも、男であるアーベルに本当の意味で心を許す事はないだろう。
 そんな事を考えると、アーベルの胸にチリリとしたものが走った。それに気付かないフリをしながら、アーベルは一国の王子としてグレゴールに言うのである。

「……おい、グレゴール。この僕の頑張りを無駄になんてさせないからな。僕の国を裏切ったら、タダでは済まさないぞ」

 ぐっと腹に力を入れながらグレゴールを見上げる。憎たらしくなるくらい完璧なつくりをした男は、アーベルを見下ろしながらゆっくりと頷いた。

「……承知した。受け入れた以上は、俺も最善は尽くす」
「う、うむ」
「では、行こうかアーベル」
「よろしく頼む」

 本当に分かってくれたのだろうか。そういうアーベルの不安をよそに、グレゴールはその後ちゃんと、城の中のあちこちを丁寧に案内してくれた。
 いつの間にか駆け足でなくても追い付けるようになった事に気付いたのは、案内を終えた二人が並んで、皆の待つ大広間へと戻る頃になってからだった。





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