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72.見えなかったものを見る
客人たちを案内するため、部屋を出て行ったアンセルムを待ちながら、ラザールはぼんやりと考えていた。
アンセルムと出会ったのは、オウドジェの街で起こる誘拐事件がきっかけだった。行方不明となった女性を探してくれという依頼をラザールが指名で受ける事となり、彼女へとつながる手がかりを探していた。そんな時、ラザールは本当に偶然、アンセルムと酒場で出会ったのだ。誘拐犯へとつながる情報を持っている人物がいないか、探していた所だった。
そんな時、ふと目に付いたのが彼だった。他の人間達とは、明らかに空気が違った。ラザールの直感だった。
――隣、いいか? 俺も一人なんだ。
ニコニコと怖がらせないよう意識しながら近づいた。大柄な方で、他者には威圧感を与える自覚のあったラザールは、殊更柔らかく話しかけたのだ。
どうぞ、と柔らかい笑みで応えたその時の彼を、不思議な気配を纏う綺麗な男だとラザールは思った。男にしては肌が白く、真逆の色をした黒髪に一際映えた。同性でもドキリとするような色気があって、その時は隣に座るだけでも緊張したのを覚えている。
容疑者の疑いと男の雰囲気との相乗効果で、ラザールの心臓はやけに高鳴っていた。
だが、不意に思いついた世間話を振ってみると、彼からはどこか気の抜けたような、自分では到底考えつきもしない話が返ってきた。不意を突かれて大声で笑ってしまったものもある。ラザールは最初に抱いていた懐疑心も忘れ、彼の言葉遊びについつい興味を惹かれてしまったのだ。
明らかに怪しいのに。自分とはまるで違う人種の彼に、憧れに近いものを覚えていた――。
ラザールが、しみじみそんな事を思い出していた所だった。部屋の扉がガチャリと開いた。この客間には自分以外に誰もいない。思わずラザールの心臓が跳ねたが、平常心を保とうとその場で大きく息を吐き出した。
「ただいま、みな部屋に送ってきたよ」
「ああ、お帰り」
「うん」
ニコニコと嬉しそうにしているアンセルムに、ラザールは何とも言えない気恥ずかしさを覚えた。
「君と僕は同じ部屋で良いよね」
「えっ、……ああ、そりゃそっか。うん、俺もそれで大丈夫だぞ」
「それなら行こうか、こっちだよ」
「色々とありがとう」
「んふふ、それは僕のセリフだ」
そういうやり取りの後で、二人もまたその日を過ごす部屋へと向かった。
どこか古めかしい建物は、歩くたびに床がぎしぎしと軋んでいる。まるで、今のラザールの心境をそのまま表しているかのようだった。やたらと緊張している。身体の動きがどこかぎこちなく思われた。
そんな気分の中で、ラザールはとうとう意を決して、アンセルムへと声をかけた。
「アンセルム」
「ん?」
「さっき、この家に皆が来る前の事だけど……」
そこで一度言葉を切って、生唾を呑み込んでから言った。中途半端が嫌いなのは彼の性分だった。どうせ、ずっと共に過ごす事になるのだ。
「なんで、……キス、したんだ?」
屋敷に二人きりだった時だった。あの客間で皆が来る直前、ラザールはアンセルムに口付けをされたのだ。それは触れるだけの大層可愛らしいものだったが、ラザールはしばらく顔を上げることすらできなかったのだ。
アンセルムの話を聞くのは楽しかった。
この街で起こった珍しい出来事や昔々の話、有名な劇作家の生涯など、生きた言葉で語られる物語は臨場感もたっぷりのものだった。そんな話の中でふと、ラザールはうっとりとするようなラブストーリーを聞かされた。
実際にこの街で起こった恋人達の物語で、すれ違いや他者による妨害など、様々な困難に見舞われながらも二人が少しずつ愛を深めていく話。恋愛ごとにはさして興味がないラザールも、ついつい聞き入ってしまった。アンセルムの巧妙な話術に惹き込まれたのだ。
そして、そんな物語の最後に二人の真実は語られた。
『こうして二人の男性達は、その後も困難を乗り越えながら、死ぬまでずっと共に幸せに暮らした』
そういう最後で締め括られた物語は、ラザールに衝撃を与えた。つい、男女間でのものを想像してしまったけれども。最後の最後でそれが覆された。そういう恋の物語も実際にあるのだと。そういう関係性も悪くないと、ラザールも思ってしまった。そして、そのままアンセルムは――
「嫌だったかい?」
ラザールの問いかけに対して、そんな言葉が返ってくる。アンセルムらしい、のらりくらりとした態度だ。ラザールは、その返答に困った。何と返すべきものなのか。ラザール自身にもよく分からないのだ。嫌、ではなかったとは思うのだ。
けれど、ラザールの知るキスというのは、好き同士が互いの気持ちを確かめる時なんかに行うものであって、自分とアンセルムとは仕事で偶然出会った気の合う仲間のようなもの、確かにその容姿も美しくてドキリとするような色気があるけれども、別に決してやましい気持ちがあった訳では全然なく、と、やけに焦ったような気分になりながらそんな事を考えていると。気が付けばラザールは、薄暗い廊下の途中で立ち止まってしまっていた。
ハッとして俯き加減になっていた顔を上げれば、にこやかに笑うアンセルムが、彼のすぐ目の前に立っている。
「ラザールは、僕は嫌かい?」
「嫌って、……別に俺は、そんな……」
「うん?」
いっそ、ジリジリと目の前に迫ってくるアンセルムに、ラザールはじわじわと追い詰められていった。トン、と背中が廊下の壁にぶち当たる。
「ラザールは僕の事好きかい?」
「え」
「好きか嫌いかで言ったらどっち?」
自分のすぐ顔の横、壁面にアンセルムの手が置かれた。その綺麗な顔が段々と近付いてくる。ラザールは、アンセルムの顔を見上げることができなかった。
「答えておくれ」
耳元でそう囁かれ、ぶわりとラザールの顔が熱くなった。耳元に吐息が当たり、何故だか背筋がゾクリとした。
「っいや、その……嫌いでは絶対にない、からな?」
そう絞り出したラザールの声はどこか掠れていた。
「ふぅん……? じゃあ、好きかい?」
アンセルムはちっとも引こうとしなかった。しつこい。実にしつこい。嫌いではないと濁そうとしたけれども、この男にはそれでは不十分なようだった。
どうしても好きだと言わせたいらしい。そんな雰囲気がビシバシと伝わってきて、ラザールは困り果てた。言ったところでどうにかなる訳でもないのだろうが。
あの物語を聞いた後で、あんな風に口付けをされた後ではどうしてだかそう、軽々しく言ってしまうのは憚られた。そういった意味合いで好きというわけでもなしに。
――本当に、そうなんだろうか……?
頭の中で、ラザールのそんな気持ちがぐるぐると回っていた。
「なら、もう一回すれば分かるのかな?」
中々答えないラザールに焦れたのか。アンセルムがふと小首を傾げながら言った。
一瞬何を言われたのか分からず、ラザールは思わず顔を上げる。ジッとラザールを見つめていたその目と視線が絡み合った。柔らかく微笑んでいるけれど、逃さないという意思を感じるようだ。獲物を狙う、肉食獣のような眼差しだった。
「キス。もう一度すれば、ラザールは分かるんじゃあないかな?」
「……んん
」
目と鼻の先。互いの息が触れてしまいそうな程に、アンセルムの顔が近寄ってくる。
「ちょっと……待てっ、アンセルム……!」
小声で悲鳴のような声を上げて、ラザールはその瞬間に思わずぎゅうと目を瞑った。
ツンと鼻の先に触れる感覚があったかと思うと、間近にあった気配はスッと離れて行った。覚悟していたものとは違っていて、ラザールは少しばかり呆気に取られる。
あれ、なんて思いながらラザールが目を開くと、先程よりも嬉しそうなアンセルムの顔が見えた。
「もしかして、期待させたかい?」
「へ?」
「キス。唇の方が良かった?」
言われて意味を理解して、一層ラザールの顔が熱くなった。
「っいや待て、違うんだ! 俺は別にそういうやましい気持ちがあった訳ではなく――
」
「やましい?」
「うあ、あ……」
おうむ返しのように言われて、ラザールの頭の中が益々混乱する。何か言葉を発するたび、どんどん墓穴を掘っていくようだった。
「やましいって、どんな想像をした?」
そう問われて、思わずゴクリと生唾を呑み込んでしまった。
アンセルムの白い肌が目の前に晒されるのを想像した。ゆっくりと上衣を脱ぎながら悠然と微笑み、自分をベッドの上へと押し倒してくる。着込んだラザールの服をゆっくりと寛げて、それでその後は。
男同士なんて今まで考えた事もなかったが、彼ならばどうしてだかそれもできてしまう気がして。ラザールはひどく狼狽えていた。
そして、そんな彼に向かってアンセルムは言った。
「まぁ僕は、君相手ならいつでも大歓迎だから。君だけはね」
すぐ耳元でそう囁いて、するりと顎下を指先でくすぐると。アンセルムはラザールからそっと離れて行った。
「ラザール、君と僕の部屋はこっちだ。普段僕が使っているお気に入りの部屋だよ。特別に、君も一緒に使わせてあげよう」
先程までの怪しげな雰囲気が嘘のように、普段通りの様子に戻ってしまったアンセルムは。あっけらかんとそう言ったかと思うと、廊下の奥の方へと再び進み出した。
しばらく、その場から離れて行くアンセルムを、ラザールを呆然と見ていた。
「ラザール? どうしたんだい?」
「あ、ああ、今行く」
「うん。君に話したい物語はまだ、あるんだよ――」
まるで何事もなかったかのように話すアンセルムを見ながら、何とも言えない気分を抱える。
先程のアレは、アンセルムの本心だったのだろうか。自分のような武骨な男に、彼のように綺麗な男が本気でああいう事を言ったりするものなんだろうか。自分ではない、他の美しい誰かに、ああいう思わせぶりな態度を取る事はあるのだろうか。
ラザールはそう考え出すと止まらなかった。真面目で良い人、色恋沙汰にはてんで弱い。鈍い、と言われて振られる事も多かった。こんな自分に、アンセルムのような美しい人間が本気で言い寄ったりするものなんだろうか。
結局その日はずっと、そういう思考が止まらなかった。
「ラザールはそっちのベッドを使っておくれ。僕が普段使ってるから寝心地は良いはずだよ」
そう言われて何も考えずに横になったベッドは、普段香ってくるアンセルムの匂いがした。
そのせいだろうか。夜は、繰り返しキスを強請られる夢を見た。
「おはよう、気持ちよく眠れたかい?」
「っああ、ありがとう……よく、眠れた」
「それは良かった」
にこやかに笑いかけてくるその顔に、夢で見た時のそれが重なった。曖昧に言葉を返しながら、しばらく二人きりの時間を過ごした。ふとした時に夢での事が思い出されて、上の空の時間が多かったように思う。
ラザールがそんな様子だったからだろう。短い間同室で過ごしたゲオルグは時折聞いた。
「ラザール……? 大丈夫か?」
「え? 何がだ?」
「ぼーっとしてる」
何とも言えない表情でそう聞いてくる彼に、曖昧に笑って適当な言葉を返した。後ろにいた大きな赤毛の男にジッと見られていた気もしたが、アンセルムに忠告されたようになるべく気にはしない事にした。
『あの赤毛の吸血鬼は女帝と同類だからあんまり関わっちゃいけないよ。そう、あの人の良さそうな吸血鬼もね。彼に近付きすぎたらだめだよ、勘違いで戦闘狂達に睨まれたくはないだろう?』
その意味が今では分かるような気もしていたが、触らぬ神に祟りなし。ゲオルグの黒くピタリとした衣服の下、首筋から何やら赤い痣のようなものが見えた気がしたが。ラザールはその場で何も見なかった事にした。
何も見えていなかっただけで、すぐ側には自分の知らなかった世界が広がっている。このたった数日でそれを思い知らされて、ラザールはますます深く考えるのだった。
アンセルムと、彼らとの事を。
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