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69.ゆっくりとおやすみなさい(前)
「――やぁやぁ、早かったね。この屋敷に来るのはもう少し遅くても良かったと僕は思うよ」
言われたように、アンセルムが指定した屋敷をジョシュア達が訪れた時だった。彼はにこやかにそんな事を言いながら皆を出迎えた。腹の虫の居所でも悪いのか。ミライアを前にして随分な物言いである。
嫌味のようにもとれるそんな彼の歓迎を不思議に思いながら中へと入る。屋敷の中は随分と広かった。玄関ホール近くには大ぶりのソファが並ぶ待合スペースが設けられていて、ジョシュアの知る家の造りとは少しばかり違うようだった。
「ここは元々小劇場だったんだ。それを前の持ち主が改装したみたいでね。彼が死んでからはずっと空き家で、僕が好きに使ってる。他にもあるけど、ここが一番のお気に入りなんだ。昔の衣装や小道具なんかも放置されていてね、とても興味深いよ」
ほのぼのと語って聞かせるアンセルムに促されるまま、ミライアの後に続いて待合スペースに足を向けた。
するとそこにはラザールも居て、茶や菓子など、少しばかりもてなしを受けているようだった。彼に声を掛けて近くに座ろうかと近寄る。しかし、そこでジョシュアは気付いた。
ラザールはなぜだか両手で顔を覆い、俯いたまま座っている。ジョシュア達が来た事は、先ほどのやり取りで知れたはずだろうが。彼は俯いたまま、一向に顔を上げようとしなかった。何かあったのか。
何となくそこには触れてはいけないような気がした。ジョシュアは軽く声を掛けながら、その右隣へと腰を下ろした。ジョシュアを追うように、イライアスもジョシュアの隣へと腰掛ける。デカい男二人と一人が悠々と座れるソファは年季が入っているが、随分といいもののようだった。
「ラザール……? どうしたんだ、大丈夫か?」
「……ああ」
ラザールからは、喉の奥から絞り出したような声が聞こえた。ジョシュアもそれ以上は何も聞かなかった。
それをニコニコとしながら眺めているアンセルムが、少しばかり不気味に思える。
ミライアとヴェロニカの二人は、何とも言えない表情をしながらジョシュア達の正面にあるソファへと座った。男性よりも体格の良いミライアと、女性の中でも比較的小柄なヴェロニカが並ぶと、まるで親子のようにすら見えた。
アンセルムは、向かい合わせに並んでいるソファの左手側、入り口に近い方にある一人掛けのソファへと腰掛けると、両手を軽く広げる仕草をしながら全員に向かって言った。
「さっきはああ言ってしまったけれど歓迎するよ。まだ少し、この街には居るんだろう? この屋敷は、ここにいる間は好きに使ってくれて構わない。この家も本当は街のものであって、僕の持ち物ではないからね。……この街とは、本当に長い付き合いだった」
しみじみと、懐かしむように言いながらアンセルムが言った。あのボロ屋敷で出会った時よりも随分と穏やかな表情で、アンセルムという吸血鬼を良くは知らないジョシュアでさえ、今の彼からはどことなく哀愁を感じる。
今のアンセルムを見ていると、キールの街を出た時の事を思い出す。潮時だと、10年余り暮らしていた場所を離れた時はジョシュアも少しばかり寂しく思ったものだったが。
彼はきっと、それの何倍も長くここで暮らしている。それに彼は、この街が好きだとも言っていた。そんな思い入れのある街を離れるというのは一体、どういう気分なのだろうか。
ジョシュアには想像できなかった。早くに親を亡くし、エレナと共にあちこちを点々としていたジョシュアからすれば。
「ここを離れる日どりが決まったら教えて欲しいかな。気持ちの整理もつけたい」
そんなアンセルムの言葉に、静かに「分かった」と答えたミライアは、そのまま続けてアンセルムと話し出した。話題は主に、彼が吸血鬼になった経緯やここでの暮らしについてのものだった。
長く生きた吸血鬼が住んでいると気付かなかった事に、ミライアも思うところがあるらしい。いつもより多少熱の入った彼女の口ぶりに、珍しい事もあるものだとジョシュアは驚く。ただ単純に彼女が悔しかっただけなのかもしれないが。
そんな彼女らの話を小耳に挟みながら、隣でようやく顔を上げたラザールに小声で話しかけた。
「ラザール」
「……ん?」
「本当にこれで良かったのか?」
「これでって……アンセルムの事か?」
「ああ。……記憶を消して、何もかも無かった事にもできた。俺達は兎も角、少なくともラザールだけは関係無かった事にもできた。だから、これでいいのかと、少し考えてた」
ジョシュアにはそれが少しばかり引っかかっていたのだ。既に吸血鬼となってしまっているジョシュアならば兎も角、ラザールは引き返す事ができたはずだ。
記憶を消し、今まで通り普通のハンターとしての生活を送る。少しばかり腕が立って信用されるハンターとして、暮らせたはずだった。
けれどそれをラザールはしなかった。どうして彼は、あの場でこの選択をしたのだろうか。元の生活に戻ろうとは思わなかったのか。それはただの純粋な疑問だった。
そして、そんなジョシュアの言葉にラザールは答える。
「そうだな……少し、足手まといになるんじゃないかと思って迷ったりもしたけど……でも、あんな風に人が好きで、街を護ったりもしてきたアンセルムがさ、誰にも知られずにひとりきりで暮らしていくっていうのは……なんか嫌だなと思った」
そう言う横顔には優しげな笑みが浮かんでいて、ジョシュアはその表情から目を離す事ができなかった。
「誰かひとりでもそれを憶えていれたらいいなと、思ってさ。まぁ偶然ここまで知っちゃったし、ならそれが俺でも別にいいだろ?」
ラザールはジョシュアの方を振り返りながら言った。まるで悪戯を思いついた少年のような顔をしていて、ジョシュアにはその表情が眩しく感じられた。そんな風に相手を想えるのは羨ましい。素直にそんな事を思いながら、ジョシュアはラザールの言葉に短く言葉を返した。
◇ ◇ ◇
アンセルム達との話し合いを終え、その場が解散になると、アンセルムはそれぞれに部屋を案内してくれた。
元劇場というだけあって特殊な作りをしている部屋が多く、部屋数がないと言う事で三組に別れて過ごす事になった。ジョシュアは当然、イライアスとの同室である。
しばらくラザールと共に過ごしていたため随分と久々のことで、ジョシュア自身も肩の力が抜けるのを感じていた。普通の人間が同じ部屋に居るというだけで緊張するのは、もう既に条件反射のようなものだった。
「じゃあ、君達はこの部屋を使って。壊さない限りは大丈夫だと思うから。……ゆっくり寛いでくれたまえ」
またしても意味深な言葉を吐きながら、アンセルムは二人の部屋の前から去って行った。そそくさ、という言葉が似合うほどあっという間に居なくなったものだから、ジョシュアは少しばかり訝っていた。
「……何だか嫌な予感がする」
部屋に入る前に、ジョシュアがボソリと呟く。その声を拾ったイライアスは、どこか不思議そうに言った。
「ん? 何で?」
「いや……何となく」
あの手の人間は無言で何かをやらかす。ハンターとしての勘なのだろう、そうやって疑いを胸にしながら扉の取手へと手をかける。なんとなく覚悟を決めながら、ジョシュアは恐る恐る部屋の扉を開けた。
入り口から見る限りは、普通の古びた部屋のようだった。大きな屋敷風なだけあって、一般的な宿屋よりは当然広い。ただ、アンセルムが管理しているおかげなのか、小綺麗で手入れもそれなりにされている。埃っぽい空気は仕方ないだろうが、それは些細な事だった。
「普通……、だな」
「うん?」
思い過ごしだったろうか。肩透かしを食らったような気分になりながら、着ていたローブを脱ぎ、ゆっくりと中へ足を踏み入れる。そして。
「……」
「わぁお……何これ」
目に飛び込んできた光景に、ジョシュアは思わず固まってしまった。イライアスですら呆けた声を上げている。
ベッドがあった。見た事もないくらいに大きな、真紅の天蓋付きの豪華なベッドだ。部屋の四分の一ほどを占めている。大の大人二人が寝転んでも余裕があるほど。もちろん、ベッドはその一台しかなかった。
「アンセルムは、俺達のどこをどう見てこの部屋に案内しようと思ったんだ……」
「さぁ……俺もああいうタイプのヒトって何考えてるか良くわからないからなぁ」
あの場ですぐに別れてしまって、今更アンセルムを探すのも面倒だ。今日もなんだかんだと色々あったせいで、ジョシュアも少しばかり疲れている。精神的に。
アンセルムを屋敷の中で探し出して部屋を変えてもらうよりも、今この場ですぐに休みたいという気持ちが勝った。
その場で大きくため息を吐きながらコートを入り口近くに引っ掛けると、ジョシュアは真っ直ぐにベッドの方へと向かった。上衣を脱いで部屋に置かれた椅子に引っ掛けると、そのままベッドへとダイブした。
予想以上に寝具の触り心地が良く、うつ伏せのままジッとしていると眠気が襲ってきそうなほどだ。分厚いカーテンの引かれた部屋と、程よい蝋燭の灯りがジョシュアの眠りを誘う。本当にこのまま何もせずに眠りについてしまいそうだ、とジョシュアがウトウトしていると。案の定、邪魔が入った。
「こうして部屋に二人きりは久々だねぇ、ジョシュア?」
すぐ傍でそう言うイライアスの声が聞こえる。ハッとして、ベッドに埋もれていた顔を横に向けると、目の前にイライアスの顔があった。ベッドの横に座ってジョシュアの顔を眺めている。
今のイライアスは、ここ最近では一番上機嫌そうだ。それは良かった、だなんてぼんやりとした頭でその綺麗な顔を眺めていると。イライアスはそのままベッドへと乗り上げてきた。ジョシュアを跨ぎ、その向こう側へと移動する。
当然二人にあてがわれた部屋であって、共に使用するベッドなのでそれは自然な流れでもあるのだけれども。いつかのやりとりが思い出されて、ジョシュアは無意識の内に身を固くした。
「随分と面倒な奴らが釣れたね。やっと君もあのハンターのお守りから解放される」
目の前で同じように寝転がり、うっそりと微笑むイライアスの表情が目に入る。あまりにも嬉しそうにそう言うものだから、ジョシュアはどうにも妙な気分だった。
そうだな、なんて苦笑しながら短く言葉を返すと、イライアスはジョシュアへと腕を伸ばしてきた。そのまま正面からぎゅうと抱きつかれる。
今まで後ろから抱き付かれる事が多かったが、こうして面と向かってこうされるのはほとんど経験がなかった。今更ながら、妙に気恥ずかしい。その腕の中でもぞもぞと身じろぎをしていると、イライアスから再び声がかかった。
「あの二人さ、色々とありそうだよね」
楽しそうにそんなことを言ったイライアスに、ジョシュアもラザールとアンセルムの姿を思い浮かべた。あのボロ屋敷での二人のやりとりをイライアスは見てはいないはずだ。しかしそれでもやはり気になってしまうのは、あの二人の雰囲気にあるのだろう。
出会って間もないはずなのに、まるで旧知の仲のようにも見えた。互いの信条のもとに思いやる二人の姿にはいっそ、羨ましさすら覚えた。吸血鬼と人間、違う種族として出会いながらもああして思いやれるのは、とても素晴らしい事のように思えた。自分とはまるで違って。
そんな事をツラツラと考えつつも、イライアスの言葉に耳を傾ける。
「人間とあそこまで上手くやれてるのは正直にすごいと思うよ。俺は結局誰一人、そういう人間には出会えなかったから」
その一言に、様々な意味が込められているような気がした。
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