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2. 栓なきこと

 赤子は獣の乳を飲み、魚や獣肉を食べ、すくすくと大きくなっていった。
 銀狗(ぎんこう)はその男の子を金霞(キンカ)と名付けた。
 空が黄金色に輝くその一時をそう言うのだと、小耳に挟んだ事があった。
 
 闇の中でしか生きられぬ自分とは違い、この子供は人として生きることができる。青く冴えた空の下、彼が他の者たちと同じように人間として生きるその時を銀狗は想像した。
 朝焼けに見える黄金色の空のように、この子には人間としての明るい未来が約束されている。それを思って付けた名だった。

 金霞は、山の中にあっても病気すらほとんどしない、強くて明るい子供だった。銀鉤は物静かで喋る事は少ない方だったが、金霞はそれとは正反対だった。人間の街へと遣いに行かせる度、そこであった出来事を嬉々として語って聞かせた。彼がそれにうんうんと相槌を打ってやれば、金霞は花が咲いたように綺麗に笑った。

 その楽しそうな笑顔を見る度、銀狗は思った。金霞と共に暮らし育ててきた男が、人間を喰らう異形の者だと知ったら。この子供は一体、何を思うのだろうかと。いつもその考えが、銀狗の中にはチラついていた。



 そんな思い出を振り返りながら、金霞と過ごしていたぼろ小屋をぐるりと見渡す。いつも使っている菅笠と半合羽を羽織ってから、銀狗は外に出た。
 日は未だ高くに上っており、空は青々と輝いていた。銀狗のような日陰者にはまだまだ辛い時間帯だったけれども、それにも構わず銀狗は足を進めた。

 小屋の傍にあった山桜は蕾をつけ、もうじきその枝いっぱいに薄紅色の花を咲かせるのだろう。何度も目にしてきたその光景を、銀狗はもう二度と見る事はない。
 今日この日をもって今度こそ、銀狗はここを離れる。

 金霞は小屋には居なかった。すっかり大きく成長した彼はこの頃、街で何かの仕事を得たようだった。
 街から小屋へ戻る度、その仕事の師匠が鬼畜だ何だのと騒いでは銀狗を楽しませてくれたが、彼は頑なに仕事の内容を話そうとはしなかった。

 銀狗はそれを気にも留めなかったが、人間の暮らしも大変なのだろうと己に言い聞かせた。
 時折くたびれたように帰ってくる時もあって、銀狗はいつもそれをここで出迎えるのが日常となりつつあったが。

 けれどもう、これっきりだ。
 銀狗は再び、孤独なひとりの鬼へと戻るのである。
 後ろ髪を引かれながら振り返る事なく。銀狗はただ真っ直ぐに前だけを向いて、薄暗い山中の森の中へと足を進めた。

 耳の奥で、愛らしい子供の笑い声がした。たったの十数年、暮らしを共にしただけのその子供の声が。
 頭を振ってそれらの声を振り払いながら、銀狗は笠を深く被り直すと。スッと森の影の中へと消えてしまった。


 あの小屋を出てから数日後、銀狗は戦が起こると噂のその土地へと足を踏み入れていた。何者にも見つからぬよう、普段以上に気配も妖力すら徹底的に隠しながら、銀狗は暗闇の中を歩いた。

 時折生き物の気配を感じ取ると、木に登り息を潜めてやり過ごした。気配も簡単に隠せる鬼としては過剰過ぎるほどの警戒ぶりだったろう。

 けれど今、金霞にだけは決して見つかってはならないのだ。いくら姿を消しても自分を見つけてしまう金霞にだけは。
 そうでなければ、次こそ銀狗は。

 そうして辿り着いた山の麓には、小さな集落がひとつあった。この国の田舎らしい、大層静かで穏やかな村のようだった。
 その村より山を登った所に、放置されていた山小屋を見つけた。銀狗はしばらく、そこで暮らす事にした。

 戦が始まるまでは飯は食えぬ。鳴り出す腹をそこいらの獣肉で誤魔化しながら、銀狗はひっそりと息を潜めてその時を待った。

 他の鬼はどうか知らなかったが、銀狗は生きた人間は好かなかった。そんなものを喰う気には到底なれなかったのだ。
 いくら鬼になったとはいえ、彼も元は人間だ。喰おうとすると、その昔世話になった侍女や寺の住職の顔が頭に浮かんだ。

 鬼というのは、人の負の情念が極まって生まれるのだという。けれども銀狗の場合は違った。その昔、彼に恋慕して死んだ女の呪いか何かで、彼はこうして鬼になってしまったのだ。
 そもそも、他人に対してそれ程の情念すら持ち合わせてもいなかった彼は、他の鬼ほど狂う事なんてできやしなかった。

 身も心も鬼に成れれば、銀狗もここまで食べるものに苦労はしなかったろう。
 山を通りかかった人間を襲って腹に収めてしまえばいい。けれどもそれができないから、銀狗はこうして戦を待つのである。

 戦はいい。
 銀狗はそれ自体も好きだった。
 互いの命を投げうって、彼らは己の信じるもののために戦うのである。彼らにとってそれは必要な死だ。生きる為の死だった。
 不条理がゆえに蹂躙される命などではなく、彼らにとってはそれが生きるために必要だからこそ戦って死ぬのだ。どちらが勝ってもそれは同じ。

 そうした彼らの命のやりとりを前にして、銀狗はある種の憧れを抱くのである。自分には決して味わう事のできない、その戦いの狂気を。

 戦の後、そうした彼らの残骸を拾い集めながら想いを馳せ、銀狗はひとり心と体を満たすのである。
 それまではひっそりと息を殺し、彼はその場で何日も眠り続けた。


 そうしてある日、銀狗の鼻は戦の匂いを嗅ぎ取った。
 戦場に漂う独特の空気とその匂いが、風に乗って銀狗の居る所まで届いたのである。
 凝り固まった体を伸ばし、逸る心を抑えながらふらふらと外に出た。
 やはり日はまだ高い所にあったが、笠と半合羽を被れば問題はない。平野が近い麓の村付近であれば、木々も日光を遮ってくれる。

 日陰を選びながら早足で進めば、やがてその喧騒が彼の耳にも届くようになった。弓を引く音、矢が風を切る音、刀が空気を裂く音、侍達の鬨(とき)の声が聞こえた。

 鬼の五感は人間よりも優れている。戦場の見える位置まで下山し、銀狗は木に登ってそれが止むまで、うっとりとそれを眺め続けた。
 自分があそこに加わる事はできない。何せ彼は、一目見ただけで人を殺す化け物に違いないのだから。
 日が暮れるまで飽きる事なく、彼はそれを遠くから見つめ続けた。


 ふと気がつくと夜になっていた。
 日はすっかり暮れ、山の頂の方から青褐(あおかち)色が押し寄せてきていた。無数とも那由多とも思える程の星が、微かに輝いているのが分かる。
 腹を空かしていたせいか、その日の戦いが終わった事にも気付かず大分出遅れてしまったらしい。銀狗は急いで木から飛び降りると、身に付けていた笠と半合羽を脱ぎ捨てて足早に進んだ。

 人の気配のする灯りの方を避け、暗闇の中を駆ける。
 腹が満たされると思うと、もうそれだけしか考えられなくなっていた。何故、自分がこそこそとこんな所にまで来ていたのかも忘れ、銀狗はようやく食事にありつく。
 先程まで命を懸けて戦っていた者たちが自分の腹に収まるのかと思うと、何とも形容し難い心地がした。

 そうしてしばらく、自分のお眼鏡にかなったものを物色しながら腹に収めていった。
 けれどその時だった。銀狗は、俄かに信じ難い声を聞いた。

「銀狗か?」

 彼の背後、そんなに遠くない位置から、彼の名前を呼ぶ声がした。

「その着物はそうだろ、銀狗だろ?」

  銀狗は動きを止めた。その場から一歩たりとも動く事が出来なかった。
 先程まで胸の内を満たしていた心地もすっかり吹き飛んでしまって、サァッと全身の血の気が引くような感覚に見舞われた。

 銀狗が聞き間違う筈もない。
 この声は金霞のものだ。またしても、彼に見付かってしまった。

 しかもそれだけではない。頑なに隠し続けてきた彼の素性が、きっとこれで金霞にも分かってしまっただろう。
 苦労して、鬼である事を隠し通してきたと言うのに。

「銀狗……やっぱり、人じゃなかったんだな」

 元々限界は感じていたのだ。
 銀狗もまた、自分の食事を取らなければならない。その度に金霞を街へと遣いにやっていたのだが、ここ数年は随分と怪しまれていたようだった。
 
 銀狗が帰る頃には既に金霞が戻って何刻も経った後だったり、銀狗が一人で何処かへ出かけようとすると金霞に引き留められたりもした。

 ――俺を他所へ行かせて、アンタは一体何処で何をしてるんだ――?

 適当にそれを躱しながら、銀狗はこれまでその正体を隠し続けてきたのだ。
 銀狗が金霞から離れるべき時はもう、とっくに過ぎていた。それでも離れられなかったのは、銀狗の弱さ故だ。

 けれどこれで、銀狗は金霞に嫌われて心置きなく彼から離れられるのである。喜ぶべき事ではないか。何も悲しむ事はない。
 震える手を握り締めながらそう覚悟を決めると。銀狗は血に濡れた口許をその手で拭い、ゆっくりと振り返りながら彼に向かって言い放った。心にもない、その言葉を。

「ああ、そうだぞ金霞。――だから早く、私から離れろと言っただろうに」

 自分は笑えているだろうか。そんな事を思いながら、彼は金霞の顔を見た。
 いつもコロコロと表情を変えるその彼が、今ばかりは無表情に銀狗を見つめていた。

「銀狗……」
「いつからだ? お前はいつから疑っていた」
「ずっと、前から。……容姿が全く変わらないから変だとは思ってた」
「そうか。ならばとっとと私に捨てさせてくれれば良かったものを。知らずにいた方がお前も傷は浅かったろうに」
「……」
 「分かったならさっさと行ってしまえ。見逃してやる。そうでなければ、ここで喰うてしまうぞ」

 想像していた以上に金霞は聡明だった。もしくは、いつまでもずるずると金霞と共にいた銀狗が阿呆だったのかもしれない。
 こうなっては、意地でも金霞とは離れなければならない。そうでなければ、彼自身が人間としても生きづらくなるに決まっているのだ。

 そんな事を思いながら、銀狗はわざと彼の傷付くような言葉を選んで使った。心にもない事をツラツラと。

「お前さえ居なければ、私は鬼として自由になれる。お前に振り回されるのも、もう疲れ――ッ!」

 だがその時、銀狗は思わず口を噤んだ。
 突然、何かに縛られたように体が動かなくなってしまったのだ。上半身、腕なんかはピクリともしない。
 今までに経験した事もない現象に、銀狗は困惑した。

 そんな彼の目の前で、金霞は静かに言ってみせた。

「そこまでにしてくれ、銀狗。俺の我慢がきく内に済ませたい」
「ッおい、何だこれは……!」

 冷静な金霞を前に、銀狗は叫んだ。
 金霞は右手の人差し指と中指を上に立て、それを胸の前で構えていた。今までに銀狗が見た事がない仕草だった。もしや、この見えない拘束も金霞がやったのであろうか。

 銀狗は訳の分からない不安に駆られながら、目の前の金霞に目をやった。彼は相変わらず気味が悪いほどの無表情でいる。
 どうしてだかこの時ばかりは、金霞の事が恐ろしく感じられた。

「アンタが鬼だとか怪異だとかいうのは、薄々感じてた事だからこの際どうでもいいんだ」
「は」
「アンタは解ってないんだろうけど、俺が一番恐れてるのは……銀狗、アンタが俺の前から姿を消す事だ」
「何、言って……鬼は人を喰う! お前のような人間と共に居たところで相容れない。私が、お前を襲うかもしれないだろうが」
「それなら子供の頃に俺を襲ってる筈だ。わざわざ俺が成人するまで育てた事自体が不自然だ」

 金霞は冷静に言葉を紡ぎながら、銀狗をじわじわと追い詰めてゆく。大股で一歩一歩、ゆっくりと近寄ってきていた。
 縛られているせいで時折よろけながら、銀狗はそれから逃れるように後ずさる。
 
「ッ、だから、私は人を襲――」
「戦場にばかり出る鬼が居ると聞いた」
「!」
「その鬼に出会すと、その美しさ故に自ら進んで死んでしまうらしい。そんな力があるなら、何故鬼は戦場にばかり出る? 山中や街中で出たという噂は聞かない。その方が断然、楽だろうに」
「……」
「その解はきっと、その鬼が生きている人間を喰わないからだ」

 金霞のその言葉に唖然とした。共に暮らしていながらずっと、金霞もまたそれを隠していた事になる。
 噂に聞くその鬼が誰であるか。それを知りつつもずっと、欺いていた事になる。
 銀狗は真っ白になった頭で、金霞の言葉を聞いていた。

「戦場なら、何人喰われようが居なくなろうが元々死んでる。死体が一部無くなろうが誰も気にしない。……だからその鬼は、人を殺したくないのだろうと俺は思ったんだ」
「そんなのはただの噂に過ぎない。憶測に過ぎない。私がその鬼だという証拠すらもない」
「ああ、そうだな。――だが、俺は知ってる。アンタは、決して人里へ出ようとはしなかった。誰であろうと、人間のフリをしていても会おうとすらしなかった。普通の鬼であったならそれは不自然だ」

 金霞の言う通りであった。
 銀狗は人前には決して現れなかった。日中外に出ることすら滅多にしなかった。少しでも、正体が公になる可能性を排除したかった。

「それは何故か? 銀狗こそが、出会うだけでその人間を殺してしまう鬼からだ。戦場に出るというその鬼以外で、それ程強力に人を魅了する鬼の話は聞いたことがないそうだ」

 そんな金霞の話の途中で、銀狗は違和感を覚えた。金霞があまりにも鬼の事情に詳しすぎるのだ。
 その好奇心を抑えられず、銀狗は恐る恐る彼に聞いた。

「聞いた事がないそうだ――? 金霞お前、誰からそんな話を聞いた? 私以外の鬼の話など、そうそう聞ける筈が――」
「俺の師匠だ」
「!」
「京の都で長いこと、あやかしの退治人をしていたそうだ。鬼の話はすべてその人から聞いた。今、アンタを縛ってる術もその人から教わったものだ。俺にはその手の才能があると――」

 その瞬間、銀狗の中で何かが繋がった。
 金霞が何故、消えた銀狗の居場所をすぐに突き止めてしまうのかも。そしてお喋りな金霞が何故、その師匠や仕事については何も話そうとしなかったのかも。
 全部が繋がってしまった。

 金霞は化け物の退治人として恐らく唯一、銀狗を殺す事ができるのである。

 気付けば目の前に立っていた金霞を、銀狗は茫然と見上げていた。





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