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1. 儚きこと


 |戦場《いくさば》には鬼が出る。
 その土地では有名な話だった。その鬼はたいそう美しい少年の姿をしていて、出くわした者全てを喰ってしまうのだという。正確には、出くわした者が皆、その姿に魅了されて喜んでその身を差し出してしまうのだそうだ。

 興味本位で鬼を見に行くと言った者達はみな戻らなかった。彼らの安否を気遣い、知人や友人が恐る恐る見に行ってみると。彼らはことごとく、その場にあった刀で喉元をっ切って死んでいたという。その傷はどうして、他者にやられたものではなかった。彼らは自ら、己の首に刃を当てたのだ。

 |戦場《いくさば》には鬼が出る。
 鬼に魅入ってしまうその前に、目を閉じてその場から立ち去りなさい。
 人々は、その美しい鬼を恐れた。


 ◇ ◇ ◇
 

 |銀鉤《ギンコウ》は、片手に死んだ侍の首をぶら下げながら夜の戦場を歩いていた。シンと静まり返ったそこには、彼以外に人の気配はない。真っ暗闇の中、むせかえらんばかりの血臭に濡れたそこを、銀鉤はてくてくと一人で歩いていた。

 漆黒の長い髪に切れ長の赤い目、女と見間違わんばかりの美しい顔立ちをしている。どこか物憂げなその表情は、整いすぎたその顔の造形と相俟ってゆらりとした妖しい美しさをまとっていた。藍色の着流しを身を包み、それを緩く着崩した様すらその雰囲気を助長している。まるで、見たもの全てを魅了するような。不思議な魅力が彼にはあった。

 この日もまた、いつもと変わり映えのしないつまらない彼の日常だった。
 話し相手はいない。誰も彼も、彼に魅入られて死んでいく。あるいは彼を害そうとする。だから銀鉤は、人前には、それどころか同じ鬼たちの前にだって姿を現そうとしなかった。どうであれ、彼に魅入られた者たちは皆結局死んでしまうのだから。銀鉤はいつも一人だった。

 だがこの日はいつもと違った。ふと彼の耳が、微かな人の悲鳴を拾ったのだ。この戦場には似つかわしくない、女の悲鳴だった。
 こんな所で一体何事だろう。銀鉤は声のする方向へと早足に駆けて行った。あきらめもせずにある種の期待を込めながら。
 助ければこの退屈も少しまぎれるのでは。何度となく願ったそれを今日も抱きながら、銀鉤は駆けて行った。

「ああ! 嫌だ、この子だけは、この子だけはお助けをぉっ!」
「寄越せ女! その子供を殺さねばこの戦の意味が無くなる! 火種の元となる|男《お》の子は殺さねば……さっさと寄越せ!」
「ああああっ!」

 銀鉤が耳を澄ませば、そのような会話が鮮明に彼の耳に入ってきた。彼らのやり取りで粗方の事情は察せた。
 彼はその場で侍の首を投げ捨てると、いよいよ体勢を低くし、だっと本気で駆け出した。

「っ、何だ貴様ッ――」

 侍が何かを言う暇さえ与えなかった。女と侍の間を駆け抜け、通りすがり様に侍の首を落とす。すると途端、再び周囲が静寂に包まれた。
 
 どさりと崩れ落ちる侍の体を見やった後で。銀鉤は女の方を見やった。
 残念なことに、刀で背を突かれた女は既に事切れた後だった。せっかく助けてやったのに手遅れだった。少しばかりそれを残念に思いながら、彼は女の背に突き刺さったままの刀を抜いてやる。

 その勢いで女の姿勢が崩れ、ゴロリと体が横になった。刀を投げ捨てながらそこでふと、彼は気付いた。上等な着物を着た女の胸元に、赤子が抱かれていたのだ。

 その赤子はこんな中に在りながら泣き声ひとつ上げず、女の胸元でこの惨劇の一部始終を見ていたのである。

 随分と図太い赤子だ。そんな事を思いながらも彼は困り果てた。この赤子をどうすべきか。
 近くに人の気配があるにはあるが、おそらくは先ほどの侍の仲間たちだろう。この赤子を連れて行ったところで殺されるのは目に見えている。それでは、わざわざ彼が助けた意味もなくなるだろう。
 それとは無関係だろう人里にしたって、ここから随分と北に行った所にあった。彼の脚でも数日はかかるだろう。はて、一体どうしたものか。

 彼は赤子のそばまでゆっくり近寄ると、その手で赤子を抱き上げた。侍の血で汚れた彼の手が、赤子を覆う着物を汚す。
 くりくりと愛らしい小さな生き物は泣きもせず、銀鉤の様子を窺うようにこちらをジッと見つめていた。
 しっかりと、生きた人の顔を見たのは随分と久しぶりのような気がした。

「お前、独りぼっちだな。私と同じだ」

 鬼になってから随分と経つ。鬼と化したその時から、彼はいつでも一人だった。
 人間だった頃は、それはそれは愛らしいと|女《・》|た《・》|ち《・》に愛でられたものだったが。それらはあっという間に儚くなってしまった。

 その時のことが何故だか今になって思い出された。母は大層綺麗な奥方だった。父も一国の城主だったと聞いたことがあった。彼は幼い頃から寺に預けられていたというが――今となっては後悔ばかりだ。
 身分もそこそこに高かった筈の彼は今や、変わり映えのしない毎日をただ退屈に生きる獣へとなり果ててしまった。美しいだけのただの獣に。

「まぁこうなっては仕方ない。しばらく私のところへ置いてやろう。お前が立派な人間になったら――食ってしまうかもしれないがな」

 言いながらその頬に手をやれば、赤子はきゃっきゃと楽しそうに笑い出した。何とも無邪気で無防備だ。銀鉤が何者かも知らず、赤子もまたその手を彼の方へと伸ばしている。
 彼の鋭い爪が赤子に当たらぬよう用心をしながら、銀鉤はその頬に何度も触れた。生きた人肌に触れるのは一体、いつぶりだったろうか。

「ああうー、ああ!」
「……なんだお前。本当に私が怖くないのか? ……赤子ではまだ、そこまではわからんのか」
「あああ、ううー」

 人間であった頃、こんな風に赤子と接する機会はなかったような気がした。周囲に集まるのは大人ばかりで、同年代の子供は彼に近寄りもしなかった。無駄に高い身分のせいもあったろうが。依怙贔屓、と影で呼ばれているのは知っていた。
 そんな状況が気に入らず、父母の言う事も聞かずに随分とやんちゃをしていたが。鬼となったのは、その罰が当たったのだろう。
 赤子を見ながら、銀鉤はしみじみとそんな事を思った。

 久しくない、胸に込み上げてくるこの感情は一体何だったか。うっとりと赤子を眺めながら彼は言った。

「まぁ、良い。これも私のやんちゃのひとつ、お前をここから連れ去ってしまうからな。こんな所にいたら、赤子なんぞ飯も食われずにとっとと死んでしまう」
「あうう、きゃっ!」
「……赤子は、何を食うのだったか――」
 
 そうひとりで呟くと、銀鉤は赤子を抱いたままその場を離れた。
 月に照らされたその横顔はどこか楽しそうだ。数百年にも及ぶ孤独ですっかり失くしてしまっていた彼の表情が、僅かにその顔に再び宿っている。
 そのようなことにも気づかぬまま、人間を魅了してやまない鬼は赤子を抱いて、彼の根城へと戻っていくのだった。

 闇夜に覆われた戦場に、場違いな赤子の笑い声が響く。

「なんだお前、さっきからうるさいぞ」

 楽し気な鬼の声と共に。






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