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逃亡、そして逃亡
ガチャン、と鍵が閉まる音を聞きながら、僕はようやく正気に返った。気付けばそこは、見慣れた僕の自室で、寝室のカーテンの隙間からは夕焼けの光が漏れているのが見える。一体、僕はどうやってここに戻ってきたのだったろうか。本当に全く、覚えていなかった。それでも、僕の気分は最悪でザワザワと落ち着かなくて、ともすれば涙すら溢れてきそうだった。
『──マサキはシノの信頼を裏切ってる!』
徐々にハッキリとしてきた頭で、じわじわと嫌な事を思い出してくる。あの時僕は、さくらがわに全部言われた。指摘されてしまった。何もかも、僕のしている事はみんな駄目な事なんだと。
『全部打ち明けるべきだ──』
そんな事、最初から分かっていたのだ。僕はずっと、シノを騙し続けてきた。シノを騙し自分を騙し、僕は僕の平静を保ってきた。
勉強なんて本当は好きでやっている訳ではないし、いい子ぶってハイハイと他人の要求を聞くのも嫌い、頼むくらいなら自分でやって欲しい、何でそんな事すら出来ないの、何で僕に押し付けるの、何でそんな事も分からないの、どうして──僕はこんなに頑張ってるのに、その努力を誰も分かってくれないの。
七海ならできて当然だよね、流石七海だよ、次も期待してるよ七海、お父さんとお母さんみたいになれるように頑張るんだよ──僕は僕のやりたいようにやりたいのに。
ズルズルとベッドまで進んで、枕を鷲掴んで抱える。言われてしまった事が悔しくて、苛立ちをぶつけるように頭を押し付ける。ギリギリと枕を締め付けて居ると何故だか、目頭が熱くなった。ここまでずっと我慢、していたのに。
『──僕の事なんか何も知らない癖に、知ったような口を聞くな!』
思い出せば思い出す程に腹が立って、僕は鳴り止まないスマートフォンの電源を切って部屋の隅に思い切り投げ付ける。当然、バシンっという音と共に壁に当たって、それは床に落ちた。壊れただろうか。もう、それでも構わないや。今は誰にも会いたくない。僕は悔しさに震えながら、頭を枕に押し付け続けた。
『ただずっと、傍に、居られればっ、──』
泣きそうになったのは本当にその一瞬で。僕は咄嗟に、その場から逃走したのだ。言い逃げとでも言えば良いのか。地頭の良いさくらがわの事だ、その言葉の意味を、もしかしたら彼は分かってしまったのかも知れない。
じわじわと瞠目していった彼の表情が、ずっと瞼の裏に焼き付いている。負け犬の遠吠え。まさに、そう呼ぶに相応しい台詞だったろう。
グズグズと鼻を啜りながら、僕は色々な事を思い返していた。もし僕が、シノに打ち明けるとしたらどのタイミングが良かったのだろうか。中学で初めて人を殴った時? それともあのビルに連れて行ってもらった時? いやそれとも、中学校の友達を紹介した時がそうだったのだろうか。考えてももう、どうしようもないのに、僕は今更ながらただただ妄想していた。
そういう考えてもどうしようもない事を何度も何度も、ぐるぐると考えていた時だった。突然、部屋のチャイムが鳴り響いたのだ。部屋に入って来れないだろうと分かってはいても、ドキドキと心臓が早鐘を打つのがわかった。
優等生──学年首席の僕には、小さいながら個室を充てがわれている。普通は二人部屋なんだけれども、成績上位者には僕のような待遇が与えられている。シノも、そして多分、さくらがわも。
僕は居留守を決め込む。いつもの僕ならば、相手に悪いだろうって気遣いから、呼ばれればすぐに出るようにしていて。それはまさに僕のイメージにぴったりだった。けれども今の僕は誰にも、それこそシノにすら会いたくなかった。
三回、四回、とチャイムは鳴り続けた。しつこい、僕はそれを不快に思いながら、相手が諦めるのをジッと待ったのだった。十回程鳴ってからだろうか。相手は諦めてくれたようで、ようやく静かになった。部屋で一人、枕に顔を埋めながら僕はホッと息を吐き出した。別に、どうせ部屋に入ってこれやしない。僕はゆっくりと、体に入っていた力を抜いて、元の思考に戻ったのだった。
けれども、やはり現実はそうそう甘くはなくって。
ガチャンッと、鍵の開く音。そして、ドアノブが捻られる音が、虚しくも静まり返った部屋に響く。何で、どうして。今更そんな事を考えても、もう遅い。
誰かが部屋に侵入してくる気配を感じながら、僕は息を詰めて緊張で震えた。こんな時に一体誰が、そんな事は分かり切っているのに理解したくなくて、僕は回らない頭で逃げる事ばかりを考えた。
逃げ場なんてどこにもない。
「おい、ナナ!? 居るか──?」
ドタドタと駆け足で部屋を横切って来る音を耳に、僕はただ、ジッとしている事しか出来なかった。
開けっ放しの寝室の扉から勢い良く入ってきたのは。
最初から分かっていた。この部屋のスペアキーを渡したのはただ一人、シノしかいない。
「シュウから連絡があって、ナナを探せって……様子、見てやってくれって──」
一番気遣って欲しくない人と、一番今の僕を見て欲しくない人が結託して、僕を追い詰める。すぐに出ていって欲しいくらいであるのに、僕以外の他人を一番に思ってる僕の大好きな人は残酷に、僕に構うのだ。
「ごめ、でも、大丈夫だから。今、だけだから、大丈夫。ひとりにして」
顔を枕に埋れたまま、くぐもった声で僕は言うけれども。シノの性格を知っている僕は、このまま彼が引き下がらないのを知っている。
「お前……そんな訳、ないだろ、だったらシュウが連絡してくるはずない」
「っいいから──!」
腕を掴まれて、それを僕が振り払っても、シノは諦めない。僕と同じで負けず嫌いで意地っ張りで、僕とは違って他人思いだから。
「ナナ」
それとおまけに、シノは何でも出来る人間なのだ。一生懸命頑張らなければならない僕とは違って、それこそ何でも器用にやってのける。だから僕は、いつだってシノには敵わない。
「!」
「お前泣いてたろ」
枕を取られて腕も取られた僕は、シノの困ったような、怒ったような顔を目にしてしまう。咄嗟に顔を俯けるけれども、シノはそれを許してくれなかった。こんなみっともない顔、見られたくなかったのに。
あっという間に両腕ともシノに掴み取られて、強く引かれた。けれど僕だって、意地の張り合いには負けちゃいられない。腕を使ってシノを遠ざけながら、顔を見せまいと下を向く。今はまだ、絶対に知られたくなかった。
「おい、意地を張るなよ……何で泣いてんだ、何があった」
僕はただ、首を横に振り続けた。
「誰かに何かされたのかよ、なぁ! もしそうなら、俺がそいつを許さない」
「っ違う! 何でもない、だから、ほっといてよ! ひとりにして!」
「シュウに連絡されといて、放っとける訳ねぇだろ!」
シュウが、シュウが──シノの口から何度も発せられるその人の名前が、僕を一層意固地にしていた。絶対に喋ってやるもんか。僕はこんな所で人一倍の負けず嫌いを、発症していたのだった。
そうやって二人とも譲らず、我慢比べの状態になっていたそんな時の事だった。
「なぁ、おい、一体何がどうなってんだよ……」
突然扉の方から聞こえてきた声に、僕もシノも驚いて動きを止めた。チラリと目を向けるとそこには、シノの向こう側には、不良──レイジの姿が見えたのだ。僕は彼を見たその瞬間に、何故だかひどくホッとして。
「っおい、ナナ待て!」
「はっ!?」
シノの隙をついて駆け出した。レイジの腕を引っ掴んで、僕はその場から逃走した。兎に角何でもいい、シノのそばから、僕は逃げ出したかった。
レイジは一年生、彼の部屋は僕らの下の階。レイジを強引に引っ張りながら、僕は滅多に使わない階段めがけて駆けて行った。
「おい、アンタ、何があったんだよ」
「へや」
「あ?」
「レージのへやどこ」
「何で」
「いれて、シノからかくまって」
「──理由、ちゃんと話せよ? こっちだ」
短く要求を伝えて今度は、僕がレイジに引っ張られながら、二人して全速力で駆けて行った。そうして、廊下を歩く生徒達に驚きの表情で見られながら、僕らは逃げるように目的地へと駆けていったのだった。
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