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第六話


 ディートリヒにはまだ、イェルンに知られていない秘密があった。彼の一族は、元より無尽蔵の体力を備えている。
 祖先が魔族と契りを交わしたなどと様々に言われてはいるが、本当のところは誰も知らない。知っていた者達は遥か昔に死に絶え、その事実は闇の中だ。ただそれでも、彼等の一族が総じて只人でない事は確かだった。
 絶倫な魔法使いに付き合い根こそぎ体力を奪われ気絶する。そんな事は稀だ。イェルンがそれと気付かぬだけで、ディートリヒはその都度演技をした。その程度、長らく国の暗部に身を置いていたディートリヒにとっては朝飯前だった。魔法使いも万能ではない。それは、敵を油断させる為に身に付けたディートリヒの技術。身に付けた技術だけは、絶対に彼を裏切らない。

 だからこそイェルンは知らないのだ。夜中にそっと小屋を出て行った彼の、その後を追う影があった事を。
 気付かれる事もなく夜闇に紛れ、イェルンの通った道を追う。その夜こそが、ディートリヒの世界なのである。
 いくら魔法使いとはいえ、その存在に気付かれてさえいなければ、魔法使いですら欺けるのである。そういった事情すらも熟知したディートリヒは、確かに優秀な兵器だった。


 暗闇に突然、透き通るような声が空から降ってくる。

「やぁやぁ、君達、僕の領域に何用かな? そんな物騒なモノをぶら下げて」

 それを耳にした襲撃者達は、声の主を見つけると微かに騒めき警戒心を露わにした。
 おおよそ10人程。こんな夜中だというのに灯りも持たず、音も無く行動する黒尽くめの者達は、誰も彼もがフードを深く被り、顔すらも見せなかった。彼等は腰に手を当て重心を低く、いつでも襲撃に備えられるような体勢で周囲をジリジリと後退していく。

 そして、そんな彼等を見て、イェルンは苛立ちを感じるのだ。ディートリヒがかつてこの連中と同じ処に居たのかと思うと、無性に腹が立った。同じ処にいたのにも関わらず、命令に従いあの美しいものを害そうとする連中。その事実が、無性に腹立たしく思えた。
 イェルンは空に浮かびながら彼等を見下ろし、冷え冷えとした視線を浴びせながら微笑む。しかし誰も、先程の問いに答えようとする者は無かった。それを不快に思いながら、イェルンは更に聞いた。

「なぁ、お前達は、僕の問いに答える気が無いのかい?」

 より一層笑みを深めながら、イェルンは再び聞いた。その苛立ちを覆い隠し、努めて平静を装う。けれどもその周囲からは、イェルンの感情に呼応して、力の源たる魔力がパキパキと音を立てながら飛び散り、あちこちに氷の結晶を撒き散らしていた。それが、イェルンの力のほんの一部が漏れ出ただけに過ぎない事を、彼らは知るよしもない。
 そしてそのイェルンが、普段は巧妙に隠し通している膨大な魔力を溢れさせてしまう程、感情を昂らせてしまっているというその事実を。そして、かつてこの男は、たった一日で一国を滅ぼした過去があるという事を。彼等は知らない。

 イェルンは、その場で再び口を開いた。

「果たして君らはこの僕の所有物に手を出そうとしている。誰一人、生かして帰さぬと言われても仕方ないと思わないかい?
ーー先日から僕の結界を解析して、遠くからほくそ笑んでいるお前も含めて、ね?」
「!」

 言いながら、イェルンが手で空を斬る。すると突然空中が割れ、真っ黒な裂け目のようなものが現れた。そして同時に、そこからは真っ黒いローブを着た男が、真っ黒い手のような何かと共に吐き出されてきたのだ。
 べちゃり、と音を立てながら地面に叩き付けられたその男は、よろけながらもすぐに立ち上がると、大きく目を見開いてイェルンを真っ直ぐに見上げた。その目には、隠しようのない恐怖の色が浮かんでいる。男は、ジリジリとイェルンから離れるように少しずつ後退した。

「魔法使い、お前は僕が誰だか分かるかい? どうしてここに連れて来られたのかも……分かるだろう? ずっと、観ていたものねぇーー?」
「ッ、」

 イェルンによって引き摺り出された魔法使いの怯え方は、傍から見ても尋常ではなかった。その異様な程の怯えようにさすがに動揺したのか、にわかに何事かを囁き出した。

「黒蛇殿、この者は一体、何者です?」

 そのような雰囲気に耐え切れなくなったのだろう。彼等の中でもリーダー格らしき黒尽くめの男が、ボソリと魔法使いに耳打ちした。黒蛇と呼ばれた魔法使いは最早、誰が見ても分かる程に怯え、震えていた。

「彼は……あの、方は。かつて、かの国の、宮廷魔術師であった……こ、『氷の女王』……国を丸ごと凍らせた、かの、ココシュカの、『魔女』だッ!」

 魔法使いがその名を出した途端にだ。イェルンは不快そうに顔を歪めた。そう呼ばれる事を、彼は心底嫌っていたのだ。
 『氷の女王』、それは誰が言い出したかも分からない、彼の故郷での不愉快な渾名であった。あらゆるもの凍らせ、一国を氷の世界に変えてしまった恐るべき魔法使い。知る人ぞ知る、人の身ながら魔女と呼ばれた数少ない魔法使いの一人だった。今やその姿を見た者は居らず、他の魔女達と同様にこの世から住処を移したのだと、人々は噂していた。
 けれどもそんな『氷の女王』は、未だ人の世に留まりひっそりと人として生活していたのだ。誰からも干渉される事もなく、誰かを傷つける事もなく、今この時までは静かに穏やかに。

「不愉快だ。二度とその名は呼ばないでくれるかい?」
「グッ、んんーッ!」

 言うや否や、イェルンが魔法使いに向けて素早く手の平を向けると、途端に彼から苦しむような声が上がった。周囲の者達は驚き、そして同時に庇うように後ろへ彼を隠す。
 やはり周囲を人で囲みながらその魔法使いの具合を見る。魔法使いは、口を押さえて苦しそうに腰を折っていた。
 ジリジリとさらに後退しながら、その内の一人が魔法使いの体を支え、苦しそうなその上半身を持ち上げる。
 その原因を目にした途端、目にしてしまった者達は、一斉に息を呑んだ。

「口がーー……、」

 苦しみにもがいている魔法使いの口は何と、話せぬよう氷で塞がれていたのだった。信じられぬ事だ。この距離で、他者の口を塞げるほどの氷を一瞬で生み出すなど。魔法使いの常識では考えられない事だった。
 いくら国の暗部をつかさどる者達とはいえ、魔法を使える者ですら貴重だった。魔法を使えない彼等は、今ここで、この魔法使いを救う手立てを持ち合わせてはいなかった。
 強大な魔法使いに対抗できるのは、同じく強大な力を持つ魔法使いだけ。言わずと知れた、この世の理だった。
 ただ、それには例外ももちろんあるのだが。そんな、魔法使い以外の例外も、やはり世界には片手で足りる程の数しかいない。無論、彼等黒尽くめの者達の中にその内の一人すら含まれてはいないが。
 そういった、災害レベルの化け物を前にすれば無論、人は恐れを抱く。
 しかし、それでも尚、イェルンを前にしてすら、彼等黒尽くめの者達が最も恐れを抱くものは、目の前で見た事もない魔法を使う強大な魔法使いなどではなかった。
 それは、彼等を使う飼い主なのだ。よくよく躾けられていると言ってもいい。任務に失敗した者達が辿る道を知っているが故、彼等はどのような死地にあっても諦める事はない。そして、運良く飼い主から逃げおおせたとして、組織の中に居た者がそれまでに与えられた影響は中々消える事はない。ディートリヒがそうであるように。
 彼等にとって、飼い主は決して逆らってはいけない存在であるのだ。そう、教え込まされてきた。まるで本物の、狗のように。

 だがそんなもの、対峙しているイェルンには知った事では無い。彼等が何人死のうが何か大事なものを失おうが、それはイェルンに逆らった者が悪いのだ。イェルンに近寄りさえしなければ良い。それを堂々と破って自分から飛び込んできた者など、イェルンには唯の虫ケラ同然なのである。
 さすがは『魔女』と呼ばれる人間の考え方である。既に普通の人間とは明らかに違っている。彼は元より、そういう人間なのである――。

「お前……その程度の魔法を防げない魔法使いだとは、呆れた。僕の故郷では、お前程度の者は魔法使いとすら名乗れないよ」

 最早故郷では生きてる者すら居ないけれど。口には出さず、呆れ返った溜息すら吐きながら、イェルンがそんな事を言えば。彼等はより一層、殺気を強めた。
 だが同時に、イェルンは感心する。ここまで力の差を見せつけられて尚、諦めないとは。ほんの僅かばかり、彼等を見直しながらも同時に、イェルンは哀れに思った。死地にあってすら、自らの生を自由にできぬ彼等に生きている意味はあるのか。ここで始末してやるのが彼等の為ではないのかと。
 イェルンは無言でその手を再びかざした。

 だが、その時の事だった。イェルンにも気付けぬ内に突然、バリンッと音を立ててイェルンの結界のひとつが崩壊した。

「ッ何だーー!」

 イェルンにも油断はあったろう。魔法使いの気配は一人だったから、てっきりこの男だけだと思っていたのだが。この件に駆り出されている魔法使いはどうやら、一人では無かったらしい。
 かつて、彼等がディートリヒを捕らえた時と同じだった。人外の力を持つたった一人をどうにかする為、彼等は再び結集しその好機を伺っていたのだ。

「おうおう、取っ捕まった黒蛇追いかけて来てみれば……何だ、こんな所に珍しいのがいやがったなぁ、『魔女』よ?」
「え、うそ……慌てて来てみれば……ラッキーッ」
「魔女ってーーえ、もしかして、あれ、ホントに『氷の女王』?え、うそ、ほんとに?」

 イェルンの見ているその目の前で。地面からずるりと這い出て来た三人の人間達だった。彼等はそれぞれ同じ黒いローブを着ているが、纏う空気は様々だ。
 一人目、赤色の短髪の男は、さも偉そうな口調で言い放ちながら鋭い三白眼でジロリと睨み上げている。
 二人目、青色の長髪の女は、驚きに目を見開いて、イェルンを凝視している。その目には、好奇の視線が多分に含まれていた。
 三人目、金色の短髪の男は、青髪の女と同様に目を大きく見開き、呆然とした表情でイェルンを見据えている。

 彼等のどれもが、国の宮廷魔法使いと同等の力を有しているのだろう。イェルンの目にはそう映った。腐っても、国の裏側に仕えるような者達だ。そう楽に事を運べるはずもなかった。流石は、あのディートリヒを生捕りにした者たちの一部。
 彼等はイェルンの足元にも及ばないであろうが、結託した魔法使い達がどれ程厄介なのか、イェルンは知っている。彼は舌打ちを打った。
 何より、このタイミングで結界を壊されたのが痛い。張り直すのは苦ではないのだが、何せ時間がかかる。ディートリヒが家の中で眠っているので問題はないはずなのだが。嫌な予感がしていた。その上この場所を知られたとなれば、居場所を移らなければならない。そう思うと、イェルンは少しだけ憂鬱だった。
 そしてこの状況。複数の魔法使い相手だ。さしものイェルンですら、手加減は出来ない。
 この地を再び人の住めぬ土地に変えてしまいそうだ。そう思うと、彼の苛立ちはより一層強くなった。

「ああ、全く……自殺願望のある連中がこうもゴロゴロと」

 ディートリヒには見せられない、と本人も自覚する恐ろしげな凄味のある微笑みを浮かべながら。イェルンは己に課していた縛りを徐々に解いていった。途端、溢れ出す力をもう、隠しもしない。あちこちで、イェルンの力は周囲を凍り付かせていった。
 そしてそれを感じた途端、彼を目の前にした者達が怖気に見舞われ、たちまち身震いをする。その冷気と、魔力の重さと。そして、その男の、『魔女』の本当の姿に。

「あー、もう、面倒臭い。殺さないように手加減するのすら面倒臭い。ーーそれよりも、あの国、全部吹っ飛ばせば早いのかなぁ? ねぇ、お前達。そう、思わないかい?」

 ニッコリ、見下すように魔法使い達をイェルンが見やれば、彼等はたちまちその瞳に恐怖の色を浮かべた。

「実は『魔女』の氷ってねぇ、一度凍らせると中々溶けないんだ。だからなるべく、吹き飛ばすようにしている。消し炭にするんだ。その方が土地の回復が早いから。僕の魔力とは相性の悪い、炎の魔法で。……流石に、何年も人の住めない土地にポンポン変えてしまったら僕も色んな人に叱られてしまうんだよ、全く」

 仕方ない、とでも言いたそうな仕草で肩をすくめ、イェルンはただ世間話のように語る。最早彼以外、誰もその場で話すことは出来なかった。

「選びなよ。お前たちに死に方くらい選ばせてやる」

 まるで死神のように宣言する彼を、誰も彼もが絶望的な目で見上げていた。





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