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18.さよならの合図


 じっとりと上からイライアスに視線を投げかけられ、ジョシュアは物理的にも精神的にもじわじわと追い詰められていった。何せ、壁際に追いやられて両腕で逃げ道を塞がれてしまって逃げ場が無いのだから。

「ねぇー、何、何で何も言わないのぉ?」

 以前もこのような事があった。あの時は、赤毛のイライアスがすっかり油断しきっていたからこそ、ジョシュアは顔面に一発キめる事が出来たのであるが。今や互いに知り、戦い尽くしたからこそ分かる。彼のその圧倒的な力の前に、ジョシュアは屈服するしかないのである。例えあの時と同じように一発をお見舞いしたところで、ジョシュアの拳はまるで当たる気がしなかった。
 けれども、同時にジョシュアは知ってしまった。イライアスは決して、ジョシュアが心底嫌がる事はしない。その切れすぎる刃のような観察眼でジョシュアの心をも見透かし、ギリギリのラインを攻めて来る。ジョシュアの耐えられるか耐えられないか、そのギリギリを見極めてジョシュアを試すのである。故にだからこそ、この男は恐ろしくも、優しいのだ。

「ちょっとぉー……ねぇねぇー?無視は酷くね?」

 あまりにもジョシュアが黙りこくっていたせいだろう。痺れを切らしたイライアスが、不機嫌そうに膨れる。だがそんないつもの調子の赤毛の雰囲気に少し、ジョシュアは落ち着いた。

「ねーえー、」
「うる、さい。……あんまり覚えてないから、俺に聞かれても困る」
「えー何それぇ!あんなに気持ち好さそうにあんあん言っーー」
「言ってないッ!」
「……ふぅん?」

 いつものように素っ気なく言えば、イライアスが不服とばかりにとんでもない事を言い出す。ジョシュアが慌てて顔を上げて否定すれば、イライアスは何かを含んだような目でジョシュアを見下ろしていた。
 その瞬間、ジョシュアは悟った。これは何かを企んでいる顔だな、と。
 慌てて腕の中から抜け出そうとするも、素早くその腕に捕まって、両の二の腕を掴まれたまま壁に押し付けられてしまった。その上でイライアスは、身動きの取れないジョシュアにピッタリと身体を寄せる。そうして動けぬジョシュアの頬を左手でぶにっと掴み、顔を上げさせた。そのまま、鼻と鼻がくっ付いてしまうのではないかと思う程ジョシュアに顔を寄せて、イライアスはとても悪い顔をしながら低い声で言う。その眼差しから、ジョシュアは視線を逸らす事が出来なかった。

「正直に言わないと今、ここで犯すよ」
「ッ」

 本気の目だ。
 直感で悟ったジョシュアは、ピタリと動きを止めた。ゴクリと生唾を飲み下し、ゆっくりと口を開いて消えるようなか細い声で、言う。羞恥と恐怖と困惑と、ジョシュアの心は様々な感情でごちゃ混ぜになってしまっていた。

「ーーち、ーー、った……」
「ん?聞こえないけど?」

 ジョシュアの反応に味を占めたのだろうか。低く、嗜めるような声で、イライアスはしつこく問うた。彼は吸血鬼なのだから、この距離ならばその声も十分聞こえるだろうに。けれども追い詰められたジョシュアは、気付けなかった。

「気持ち、良かったの?」
「ッあ、……だ、から……」
「ん?」
「ーーかった……」
「聞こえない」
「だから、ッよかった、って、言ってる……」
「んふふ、やっぱ覚えてんじゃん」
「!」

 言ってしまってからジョシュアはほんの少しだけ後悔する。もう、ジョシュアは完全にイライアスに振り回されっ放しなのである。両頬をその手でふにふにと掴まれながら、ジョシュアは不服そうにイライアスを睨み上げる。謀ったな、と。そこからはもう、いつものイライアスのテンションだった。

「でもねぇ、さっき言ったのは結構本気だったからね?ちゃんと出来てえらいえらーい」
「…………」
「ま、次は容赦しないけどぉ」

 ジョシュアを解放しながら嬉しそうに言ってのけたイライアスに、思わずため息が出る。どこからどこまでが冗談で、どれが本心なのか、全くもって分からない。今まで出くわした者達の中でも最高に癖の強いこのイライアスに、ジョシュアはもう、どうしてよいのか分からなかった。
 執拗に狙ってくる癖に、引き際は潔い。無理強いという程無理にコトに及ぼうとはしない。まさに、遊び人に相応しい手練手管。ーーただ、その割に瞳に映る熱量は燃え上がるようで。少しでも油断すれば、こちらにも飛び火してしまいそうな。
 だが、そんな事を思っていた時だ。突然、イライアスが言った。

「……なーんてね。冗談。ってかもうそろそろ良い時間だから、いつものヤるよぉ。必要ならご飯も獲ってくるから、早く着替えて下きてねー」

 くるりとジョシュアに背を向けながら言い放ったイライアスは、それ以上何も言う事なく、部屋から姿を消してしまったのだった。

 そうやってのらりくらりと言葉を変え態度を変え、あの男の本心が全く見えない。ジョシュアはのろのろと用意を始めながら、かつてない程の難問に頭を悩ませるのだった。







* * *







 いつもの地下室に、イライアスの声と、気の抜けたようなジョシュアの声がが響いた。

「ストップ、ストーップ!」
「……あ?」

 その日の夜半から始まった二人の戦闘は、突如上がったイライアスの一声で中断されてしまったのだ。左に手にした逆手のナイフを振り上げたまま、ジョシュアは足にブレーキをかけ、地を滑って止まる。ジョシュアは突然の静止の声に思わずキョトンとした顔をしてしまった。見上げたイライアスは、ひどく渋い顔をしていた。

「今日はもう、これで終わり!」
「え、何でだ……まだ、夜はーー」
「今日はもうぜんっっぜん駄目、俺も駄目、アンタも駄目!」
「は……」
「だから今日は終わりぃー」
「あ、ああ……」

  早口で捲し立てたイライアスは、珍しく不機嫌そうな顔を貼り付けていた。ジョシュアはポカンとする。確かに今し方言われたように、ジョシュアは今日集中もろくに出来ずイライアスに吹っ飛ばされまくっていたのである。怪我こそ大して負わなかったが、それはジョシュアが上手く避けたからではない。今日のイライアスには、いつものような攻撃のキレが無かったのだ。攻撃に迷いが見えていた。故にジョシュアも、容易く避ける事ができた。
 それは戦闘を始めた序盤から、二人とも分かっていた事だろう。ジョシュアとしても、こんな状態でやり合っても成長は見込めないと思っていたからこそ、その提案は望むところであった。肯定するように頷くと、イライアスもジョシュアも、構えを解く。

「もぉ気分最悪ぅー、やんなっちゃーう」

 イライアスはそう言うと、その場でバッタリと仰向けに倒れ込んで動きを止めた。相変わらず訳の分からない男である、とジョシュアは遠目に眺めつつそんな事を思った。
 だがジョシュアもまた同じようなもので。いつもは一晩中ほとんど毎日イライアスと戦い続けていたものだから、この空いた時間に何をして良いのか分からない。少し、困ってしまった。ここのところずっと役割を与えられっ放しだった上、必死でミライアなりイライアスなりに引っ付いてきた。彼等と共に居る時間の方が多くて、ジョシュアはすっかり人間だった頃の過ごし方を忘れてしまったのだ。
 途方に暮れるように壁際に座り込み、何ともなしに今使っている2本のナイフを手にとった。ここしばらくは何本も駄目にしてしまっている。
 ジョシュアが人間だった頃、最後に購入したナイフはどちらかと言えばモンスター用だ。それに、使用するには少しばかりクセがあり、貧乏症も手伝ってまだ使えていないのだ。
 それだから、手元にあるものはミライアやイライアスから与えられたものである。ジョシュアは完全に二人のヒモだ。考えてほんの少し凹みつつ、下服の衣嚢に入れた布きれを取り出した。よくよく見てみると、2本共既にあちこち刃が欠けてしまっており、もうじきジョシュアも廃棄したくなる程切れ味も落ちるだろう。そう思うと、磨く意味も無い気がして、ジョシュアは軽く汚れをぬぐっただけでさっさとポーチへとしまってしまった。
 ジョシュアの知る吸血鬼は二人だけだが、彼等は二人共素手で戦う。武器はすぐに壊してしまうのだそうだが。ジョシュアはどうにも素手には抵抗がある。自分の手が、爪が、何かの肉を裂く手応えなど感じたくもない。その内慣れるのだとしても、今はまだ、そうはなりたくなかった。ジョシュアは未だ、臆病者なのだから。
 と、そんな事を考えていた時だ。声が、聞こえた。

「え、もう磨くの終わり?」

 相変わらず気配の感じられない男である。けれども、戦闘の余韻も手伝って、それを何となく読めてしまったジョシュアは、目の前に座った男へ普段通りの調子で応えた。

「もう、刃が欠け始めてる。多分次でこれも駄目になる」
「へぇー……それ、ここ来て何本目?」
「きゅ……じゅ、十数本……?」
「わぁー、武器って、そこそこするのにねぇ」
「ぐ」
「姐さんも俺もお金持ちで良かったね」
「ッハッキリ言うな。……分かってるさ、自分でも。……ありがたいと思ってる」
「ふぅーん?素手はヤんないの?」
「まだ、その勇気はない」
「へぇ、そういうものかなぁ?俺もう慣れちゃったわ。ここ百年は武器握ってない」
「そうか」
「うん」

 それからしばらく。向かい合ったまま、二人は沈黙した。手にした布きれを衣嚢に戻しながら、ジョシュアは少しばかり考える。何故、この男は自分にここまで構うのか。何がしたいのか。何を求めているのか。直接聞くのは憚られるが、何故だかもやもやとして気にかかった。
 だが、そんな事を思うジョシュアの気持ちとは裏腹に、イライアスは何事も無かったかのように、普段通りに振る舞いながら言ってのける。

「もうそろそろね、良い頃だと思うんだよねぇ、俺」
「何がだ?」
「王都」
「!」

 唐突に始められたかの話題に、ジョシュアは思わず顔を上げる。途端目に移ったイライアスは、いつになく落ち着いた、真面目くさった表情でジョシュアを見ていた。

「俺ら並みに腕の立つ吸血鬼やら魔族やらって早々居ない筈だから……万が一遭遇したとしてももう、死にはしないと思うんだよねぇ」
「……それは、本当か?これで、いいのか?」
「何、疑ってんの?この俺が言ってるのに?」
「い、や……アンタともまともに斬り合えてもいないのに、これで良いのかと思って……」

 思わぬ言葉に少しばかり心が揺れる。この男にそれを言われて、嬉しく無い筈がない。だがそれと同時にこんな戦闘力で本当に良いのかと疑ってしまう。己の不出来具合は、自分が一番良く分かっているから。

「んー、王都で無事に過ごすだけならまぁ、問題ないっしょ。姐さんと別行動する訳でもあるまいし……十分だよ」
「そ、か」
「うん。姐さんにも一応連絡とったし、あと数日もあればここを出るんだろうね」

 その時告げられた言葉にジョシュアは驚く。一体、どうやって居所も不明確なミライアの所へ連絡をしたのだろうか、と。

「彼女と?一体、どうやって……」
「蝙蝠で伝言飛ばした」
「蝙蝠……使い魔か」
「使い魔っていうか……自分の一部、みたいな?霧やら蝙蝠やらに姿変える時のアレね。魔力みたいなもんかな。俺ら位になると滅多に使わない力だけどさ」

 そのような話はジョシュアも初めて聞く内容だった。伝説として伝わっている事位は知っているが、真実とそうで無いものが混じり合い、ジョシュアにはどれが真実なのかどうか判断が出来なかった。
 ミライアから聞いた話もまだまだほんの一部で、これから学ぶ事も多い。今この話を聞いたジョシュアが、その能力をすぐに身に着けられるかと聞かれれば、確実にNOではあるのだが。ジョシュアに、魔術的な才能は皆無だから。

「……成る、程。その能力の話は真実だったのか」
「ん。だから、俺が伝言出したら姐さんもすぐにわかる」
「そうか」

 そんな話がひと段落したところで。イライアスは続けて言った。

「俺は一緒に行かないよ」

 それを言われたジョシュアは、一瞬思考が停止してしまう。当然と言えば当然ではあったが、すっかり忘れていた。

「当たり前でしょ、元々そういう約束だったし。俺は一人でフラフラしてるのが性に合ってるの。それにーー」

 そこで一旦言葉を切ると。イライアスは大きくため息を吐き、視線を逸らしながら言った。

「前も言ったと思うけど、ジョシュアの血が俺に合いすぎる。あんな事やらかしちゃって思い知ったよ。傍に置いてたら他の血ィ飲めなくなりそうで……」
「は……」
「だから安心してよ、もうあんな事は二度と起きないから。それに君、首から血ィ吸われんの苦手でしょ。姐さんの所為、かな」
「…………」
「だからあと数日だけ、よろしくね」

 そう言って笑ったイライアスの顔はいつものようにも見えたが、ジョシュアは気付いてしまった。その笑い方は、ミライアによってジョシュアと引き合わされたその時とそれと同じだ。どこか少し、壁を感じるような。ほんの僅か、ジョシュアにはそのように思えてならなかった。
 その日は結局、それ以上何も言えずにジョシュアはひとり、二階の部屋で過ごしたのだった。その日も次の日も、イライアスがジョシュアの部屋を訪れる事は無かった。






* * *






 それから、ミライアが二人と合流したのは2日後の事だった。いつもの地下室に居た二人に目掛けて、ミライアが突っ込んで来たのだ。

「……成る程、“赤毛”が言うからどんなもんかと思ったが。これくらいならばどうにかなるだろう」

 地下の壁に大きな凹み跡をつけたミライアに目掛けて、ジョシュアは大声で叫ぶ。

「ッだからって、予告もなしに突然襲ってくるな!死ぬかと思ったぞ!」
「あ?襲撃に予告なぞする阿呆が何処に居る」

 辛うじて初撃を避け、追撃を受け止め壁に激突したジョシュアは、バクバクと鳴る心臓の音を自覚しながら半泣きでミライアを睨み上げる。だが、構えを解いたミライアは勝手知ったる顔である。

「ブッフフッ……、アンタらホント、期待を裏切らない……」

 そして、そんな一部始終を見て、更にはジョシュアより素早く退避していたイライアスは、可哀想なモノを見る目で笑いながら、ジョシュアとミライアのコンビを見ていたのだった。

「おい“赤毛”、良くやった。あの件は望み通りチャラにしてやろう」
「あざーっす!……あっ、でもでも、その壁の凹みは直さないといけないから後で請求するからねぇ」
「それくらい何でもない」

 ひと月ぶり程になる二人のやり取りを見ながら、ジョシュアは抜いてしまったナイフを元に戻す。相変わらず、ジョシュアなど居ないかのように話を進める二人を見ながらジョシュアは何とも言えない気分を味わう。
 この二人の間にはやはり、どこかジョシュアには立ち入れないような雰囲気があり、少しばかり寂しさを感じる。自分ばかりが知らない、共有される二人の時間を感じてしまうからか。最早どちらに対してそのように感じているのかも分からず、ジョシュアは戸惑う。こんな気分になるのは随分と久々の事だった。
 そして、そんな事を考えていた所為だろうか。ジョシュアは、ミライアの呼びかけに気付けなかった。


「ーーーー?ーーおい、聞いているのか、“下僕”!」
「アッ、はい!」
「明日には出る。荷物をまとめておけ」
「明日か……分かった」
「出来るだけ整えておけよ。おい“赤毛”、お前も暇なら着いてーー」
「え、ごめん無理ィ。それは俺も流石に……」
「何故だ」
「だって、なーんか嫌な予感する。待ち伏せとか何かさぁ、面倒なのありそうだし。俺ガチの殺り合いってきらーい」
「…………まぁ、やる気のないお前は害虫程に使えんからな。無理にとは言わん」
「その割にはひっどい事言う……」

 そんな、いつもらしい二人のやりとりをボーっと眺めていると。一通りの予定を確認したらしいミライアは、用が済んだとばかりに、あっという間に姿を消してしまったのだった。いつもと変わらぬ、嵐の如き訪問だ。
 彼女が去ると、たちまち辺りが静まり返る。そんな中、先に口を開いたのはイライアスの方だった。

「明日だってね、出発。んじゃあ、俺もお役御免って事で。君も死なないように気を付けて」

 きっとそれは、イライアスなりの別れの挨拶なのだろう。あの日から数日ほど、どこかよそよそしさを感じるその様子にも、ジョシュアはただいつものように答えるだけだ。

「……ああ。世話に、なった」

 真っ直ぐに見つめながら言えば、やはりイライアスは笑う。そのような反応であっても、ジョシュアにはここ数日の間ずっと考えてきた事を伝えないなんていう選択肢はこの時、どこにも無かった。
 イライアスの常軌を逸したような接し方はどうであれ、ジョシュアは確かに彼を認めている。ミライアとはまた違った形で、彼は確かにジョシュアの助けになった。ジョシュアの意にそぐわない事はあったけれども、それを許してしまえる程に、ジョシュアはイライアスを好ましく思っているのだ。
 真面目に面と向かっている状況に緊張しつつ、ジョシュアは己を叱咤しながら吐露した。

「アンタと会えて良かった。色々あったが……感謝はしてる。あの時は……まぁ、確かに少し、恐い思いはしたが。アンタの事は信用してるんだ。あまり気に病まないでくれ」
「!」

 ジョシュアが言い切ってしまうと、イライアスはひどく驚いたように目を大きく見開いていた。それでも構わず、ジョシュアは続ける。

「また、そういう機会があれば……いつものようにしてくれると嬉しい」

 最後までちゃんと言うことが出来た。ジョシュアなりに、ちゃんと頑張れた。そう思うと安心して、ジョシュアはフッと微かに笑う。本人の自覚こそないが、恐らくそれは、ジョシュアが吸血鬼になって初めて見せた本物の笑みだったろう。
 それを目にしたイライアスはその場で微動だにせず、ハッと息を呑んだように固まった。ジョシュアから目を離さず、ただ茫然としたような表情で。
 それからしばらく互いに見つめ合った所で。ジョシュアは恥ずかしさを誤魔化すようにくるりと背を向けると、そそくさとその場を後にした。

「また、明日」

 そう言って部屋を出ると、ジョシュアゆっくりと二階の部屋へと戻っていったのだった。





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