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願わくは自殺心中(嬲り者)



 エミディオはその日、性懲りも無い人間達によって人間界へと召喚されてしまっていた。それは取るに足らない日常で、最早カケラも人間ではない彼は何の感情も抱く事もなく、されるがままに唯の義務であるかのように相手をしていた。

「エミディオ、じゃあこれはどう?」

 手に籠いっぱいの珍しいフルーツを手にしながら、少年は満面の笑みでエミディオを仰ぎ見る。
 目の前にいる少年がなぜ、人間ながら悪魔の自分にこんなにも馴れ馴れしく話しかけてくるのか、彼は全くもって興味がなかった。
 確か、ここ数千年程、人間と悪魔は度重なる闘争の中にあったのでは無かったか。
 エミディオは首をかしげていた。何度足蹴にしても同じ。悪魔召喚がここまで悪用された例はかつて無いのではないか、とエミディオは思うのであった。

「しつこいわ貴様。どれでも同じだと言うとろうが」

 不機嫌を隠しもせず、脚を組み、椅子の肘掛に肘をつく。当初よりも長くなった銀の髪は肩程までになっているが、相変わらず細身の黒のローブにスリットが入っているものを着せられている。
 これを着ねば、サタナキアがいつまでも付きまとってくるものだから、エミディオは最も面倒でない道を選ぶしかなかったのである。
 相変わらずな際どいスリットが、彼の足をまざまざと見せ付けていて、それが人間の国王の御前にあろうとも、彼の知ったことでは無かった。

「わしには食物など口に合わん。食ろうても何も感じぬわ」
「えー……」

 それは唯の、エミディオの日常の一部で。退屈な一日の中で、主人であるサタナキアの慌てた顔の見れるただの戯れに過ぎなかった。
 エミディオは未だ悪魔としては新米である。故に、特定の悪魔を召喚する為の悪魔召喚に抵抗するには、力が足りないのだ。だからこうして簡単に、人間界へと召喚されてしまう。未だ選り好みの拒否すら出来ないままなのである。

 そうしてしばらく、エミディオが彼等の相手をしていると、いつだってサタナキアが慌てて迎えに人間界へとやって来てくれるのである。口では憎まれ口を叩く事も多かれど、サタナキアは確かにエミディオの伴侶に違いなかった。
 そんな、慌てる主人の様子を見て、エミディオが愉悦を抱いているなんて多分、あの悪魔はきっと、想像してすらいないだろう。

「ねぇ、エミディオー、聞いてるーー?」

 いい加減人間の相手も飽きてきて、エミディオはくわりと欠伸をひとつ落としたのだった。

 その日だって、本当はそうである筈であったのだ。
 その瞬間までは。


 エミディオはその時突然、変化に気付いた。空気が震え、ゾワリと背筋に悪寒が走る。
 今ここでエミディオが感じたのは、目の前の少年の力と同じような気配だ。強い神力の、人間のそれとは比べ物にならない程の力の気配を感じる。

「あれーー?」
「どうした、ヒカル」
「天使様の気配ーー」

 そんな会話に最早冷静で居られなくて、エミディオはその場でバッと立ち上がった。この場全体に立ち登る、膨大な程の神力の気配に身体中の肌が粟立ち、怖気が止まらない。息苦しくゼイゼイと鳴る呼吸に、死んだ時の事が思い出された。
 一刻も早くここから逃げたかったが、生憎とエミディオには扉を開けるだけの力はまだ無い。サタナキアも来て居ないと言うのに。エミディオは、恐怖の余りパニックになりそうな気分を、己の精神力で何とか押し留めた。

 そしてーーーー、それはとうとう姿を現した。

 突然、天井付近が明るく光り輝き、その広間中を照らした。その輝きは日の光程に眩い。耐えきれずに、エミディオは手をかざし目を瞑った。瞼を閉じても尚目玉を犯す光に、エミディオは本気で目を焼かれるのではないかと錯覚した。

 それが数十秒程続いたかと思えば、徐々に弱まり、そしてパッと消える。それを見計らい、すぐにそっと瞬かせながら目を開くと。
 光の消え去ったそこには、何と3対の純白の翼が生えた世にも美しい天使が、姿を現していた。宙を漂い、聖母の如き微笑みを浮かべている。何処か人間味のない、形だけの完璧な笑みのようだった。
 最早神官ですらなく、記憶すらも無いエミディオにだって分かる。それは、大天使とそう呼ばれる存在だと。

『まさかこのような好機が訪れようとは。運命の女神は我々に味方した』

 肩程の、ウェーブがかった金の髪を靡かせながら、空を思わせる目をキラキラと輝かせる。古の兵士を思わせるような出立ちで、革衣に身を包みながらも素足で、片手に光り輝く剣を携えて漂っている。脚に何かの葉巻き付け、顔に笑みを貼り付けながら、それはそこに居た。
 天使は人間からすればそれは、奇跡にも等しい存在である。それが大天使ともなれば、人間の長い歴史において片手で足りる程にしか目撃例はない。まさか死後、悪魔になってから遭遇するなど、かつてのエミディオは想像すらしなかったに違いない。

『迎えに来たのだよ、我が仔よ』

 その存在の輝かしさに、エミディオは目が潰れるかと思った。そして同時に、身体の震えを自覚する。
 圧倒的な神力に、エミディオは最早立っている事も出来ずその場にへたり込んだ。しかし、その天使からは目を片時も逸らす事が出来ない。
 きっと、弱小でチンケな悪魔でしかないエミディオなぞ、あの天使にかかればほんの一瞬で塵と化そう。そうされていないのは、最初からそのつもりがないから。
 エミディオは、強すぎる神力による息苦しさにゼエゼエと息を切らしながら、自分に向けられるその視線を、震えながらもただ見返す事しかできなかった。

『そう怯える事はない、人の仔よ』

 優しく語りかけながらゆっくりとエミディオの目の前へ降り立ち、かの大天使は彼に優しく語りかけた。

『私はミハイル。私はそなたを迎えに来たのだよ。そなたは元々、死後に我々天使のものとなる筈であったのです』
「ッ!」

 言いながら、大天使は怯えるエミディオの顔を両手で包み込むと、優しく笑いかけた。
 そんな大物を目の前にしたエミディオは、最早正常な思考も出来ない。かろうじて理解出来たのは、目の前に居る存在は、自分を生かしも殺しもできる存在であると言う事だけ。

『それを、あの穢らわしい怪物めに掠め取られてしまった……小賢しい盗人めが』
「あ、……ぁ」

 目の前に居る天使は、今のエミディオにとっては、人間から見た悪魔にも等しい、恐ろしい存在なのである。皮肉にも、エミディオは二度目になる、死への恐怖を味わっていたのだった。

 だが、魔王にも匹敵する力を誇る四大天使がひとり、ミハイルは更に続けて言った。

『可哀想に……愚かな人間によって堕とされた哀れな仔羊よ。すぐに元の姿にーー天使の一人として連れ帰って差し上げましょう』
「ッ!?」

 そう言うが早いか。ミハイルは素早くエミディオへ口付けたのだった。途端に、少しずつ体内へと流れ込んでくる神力に、エミディオの身体が僅かに焼け爛れる。じわじわと与えられる苦しみにエミディオは暴れた。しかし相手は大天使。全く抵抗になどなっていたかった。
 それがどんどんと量を増やし、かつてエミディオが常に纏っていた神力を超える頃には、エミディオは気力を失い、ぐったりとその手に支えられる事しか出来なくなった。焼け爛れた体内から込み上げてくる血臭と、二度目になるその苦しみに、エミディオは最早辛うじて意識を保っている状態だった。

 しかし、そんな内側の痛みは、ミハイルが口を放すその瞬間、瞬く間に消え去ってしまった。そんなエミディオの身に、かつて纏っていた神力が満ち満ちている。
 ミハイルは、急場凌ぎよろしくこの場で、エミディオのその身を天使に近い状態へと傾けてしまったのだった。だが今、エミディオは悪魔の眷属である。当然ながら、互いの力が反発し合うのは必至だった。
 エミディオがホッと一息付いたのも束の間、その身を苦痛が襲うのはすぐだった。

「あ……あ"、がぁーー、うぅッ!」

 身体中に染み付いた神力と、悪魔を受け入れ始めたからだ。混ざり合い反発し合い、溶けていく。
 朦朧とする意識の中、目の前に光る人影が唯一の救いの道であるかのように見える。エミディオはその素足に縋った。

『ご安心なさい。苦しいのは天使へ至る過程の一つ。堕落の悪魔とは違い、その苦しみこそが、我々のような存在へと昇華させるのです』
「ぐ、ぅあ、ぁッーーミ、ハぃル、さま……」

 苦しみに胸を押さえながら、足元へ縋り付くエミディオに、ミハイルは優しく言葉をかける。

『ええ、この大天使ミハイル。私の下へと参ればきっと、貴方もすぐに上級天使となりましょう。如何なる困難も、孤独をも乗り越え、天使を統べる天使のひとりへと成るのでーーーー』

 そこから先の言葉は、続かなかった。突然、苦しむエミディオの背後から三叉槍が2本突き出され、それが大天使聖ミハイルの顔面と首を刺し貫いたのだ。血飛沫が舞い、ミハイルの顔が、後ろへと仰反る。

 それを為した張本人、悪魔大将軍サタナキアは、射殺さんばかりの鋭い眼光で、彼を睨み上げていた。その激昂に合わせて、彼の保持する魔力が周囲で渦を巻き、風が沸き立った。
 這いつくばっていたエミディオをその左腕で抱き起こしながら、右腕では顔面に突き刺した槍に力を込める。最早抑え切れぬ怒りに、サタナキアは震えていた。

「そこまでだクソ天使がーーッ!」
『あ、がっ……』
「俺のモノに手ぇ出して唯で済むと思うなよ……?」

 怒りを湛えたサタナキアの声に反応して、しかし槍に貫かれているはずのミハイルは。その顔面に穏やかそうな笑みすら浮かべながら、サタナキアを見下ろした。余裕があるのか、はたまた自虐の笑みなのか。
 浮かべるのは笑顔のはずなのに、聖ミカエルは背筋が凍るような衝撃を見た者に与える。

『こ、れはこれは、悪魔、大、将軍閣下』
「顔面と首に2本も突き刺さってもまだ喋るか……この、化け物め」

 化け物である悪魔よりも化け物らしいミハイルの様子に、サタナキアはそう、吐き捨てるように言った。
 だがそれを聞いても、ミハイルはただ笑うばかり。それが一層、彼の恐ろしさを表しているかのようだった。

「私は大天使ミ、ハイル。こ、の程度で、屠れ、るとは思、わぬ事です」
「最高位のクソ天使じゃねえかよ。……ケッ、捨てた癖に子分を今更取り返しに来たってか」
『子分、では御座いません。捨ててもおりません。私達に、次ぐ大天使候補を、迎えに来たのです。……元々彼は我々天使のもの。返して頂きます』

 サタナキアの言葉など意にも介せず、ミハイルは突き刺さったままの槍を掴み押し返しながら優しく咎めるように言う。聖ミハイルは大天使。人を教え導き、そして神へ反抗する者は何でも屠る者。

「させる訳ねぇだろうがよ、コイツは俺のモノだ。俺が見つけたーーおい、エミディオ、しっかりしろ!今、連れ帰って手当てしてやる!」
『ーーあの場で死んでいれば、ちゃんと我等の元へ送られる手筈だったのです。聖なる非業の魂は、神の元へ捧げられ天使へと昇華されたはず。貴方のような、邪悪な者が横入りさえしなければ……』
「ホザけッ!おいエミディオ、耐えろよ!今すぐ俺がーーーー」

 その先の言葉は、紡がれる事は無かった。
 サタナキアの呼びかけによって、エミディオが顔を上げた瞬間、その目の前で。サタナキアの顔が、腕が、一瞬で塵に変わった。

「ーーーーッ!!」

 ぐらりと右に傾いたその大きな身体を、エミディオは慌てて抱き止める。無くした頭と右腕の切口からダラリと血が垂れ、その周囲に塵が舞う。
 エミディオはただ呆然とソレを見た。

 あの、悪魔大将軍が。
 あれ程に、魑魅魍魎の悪魔達を容易く蹴散らし、魔界への扉さえ容易く開ける、残酷にも美しいサタナキアが。一瞬にしてその首を、その腕を失った。
 エミディオはその身を苛む苦しみさえ忘れ、信じられない気分で首と片腕の無くなったその身体をただひたすら見つめた。
 幸いにもその心臓は無事である。回復は出来るだろう。しかし、神力により受けた傷は悪魔大将軍とは言えども治りにくい。ましてや、失ったのが頭部とあらば、果たしてどれ程で回復できるのか。

 何も分からないエミディオは恐怖した。先程の比ではない。サタナキアがこの世から消えてしまう事に、恐怖した。眷属の悪魔でさえあれば、サタナキアと共に死ねるという事をすら忘れる程に。エミディオは恐怖した。身体の底奥から、何かが沸き立ち、噴き出してくる程に。その心が、荒れ狂う。

『小煩い邪魔者は居なくなりました。放っておけばまた牙を剥くやもしれません。エミディオや、そのゴミを此方へお渡しなさい。早く心臓を突かなければ、塵は塵へと還さねば』

 エミディオのそのような様子にも気付かずに、ミハイルは顔と首、両方の三叉槍を引き抜くと、その場で放り投げ、その手をエミディオへと差し出した。その傍ではカランカランと、2本の槍が重なり地面に落ちる音が響く。
 今や周囲の人間達は全て眠りにつき、誰一人、その場の光景を見ている者は居ない。しばしの沈黙の後。ポツリと言葉が呟かれる。

「ーー……だ」
『?』

 ミカエルにも聞き取れなかったその言葉。首を傾げたミハイルへと振り向き。エミディオは再び、口にした。

「僕のだ。サタナキアはもう僕のだ。あげない。誰にも、あげない……泥棒。ーー盗人!」

 振り向いたエミディオを目にした途端。ミハイルはその場の状況も忘れ、息を呑んだ。振り返ったエミディオは見た目、ほとんど変化は見られない。
 けれども、纏うものが、変わった。先程迄のエミディオではない。そう、ミハイルは直感した。
 そしてその瞬間、ミハイルはバッとその場から飛び退いた。そうしなければならないと、神より遣わされた戦士としての直感でそう思ったのだ。
 だがーー、その時はもう既に、遅かった。手遅れだった。

『え?』

 ハッと気付いた時。ミハイルは再び、己の顔に、そして胸元に、捨てたはずの三叉槍が突き刺さっている事に気が付く。いつ、どのように刺されたのか。そしてなぜ、目の前にエミディオが居るのか。何も分からなかった。
 グイと、槍ごと己の身体を宙持ち上げられる。一体、その細腕でどうやってと思う間もなく。
 その背に一対の翼が生えている事に気が付く。燻んだような鈍い色。堕天使ほど黒くなく、天使程純白ではない。その姿に、ミハイルは一人の大天使を思い浮かべる。

「しんじゃえ」
『ザラ……ル、サマ……』

 死神と名高い処刑人。まるでその姿を見ているようだと錯覚した。
 そして、次にミハイルが気が付いた時。彼は槍ごと床に縫い付けられ、身動きがとれずにいた。
 その時にはもう、あの二人の悪魔の気配は消えていて。ただ、三叉槍が二本、己に突き刺され残されただけだった。 

『隙をつき逃げられましたか……』

 刺さる槍にそれぞれ手を触れて塵に変える。ゆっくりとミハイルがその場で立ち上がる頃には、顔の孔も胸の孔も既に塞がっていた。
 真っ直ぐに横目も降らずに上を向き、考えるのは逃した魚の大きさだった。あの姿は、そしてあの目は。
 その時の事を思い出すと、自然と笑みが漏れた。きっと、アレを我ら天使の元へと誘ってみせる。そう固く決心した。

 彼は音も無くその場から浮き上がり、天井目掛けて真っ直ぐに上昇していく。それが天井付近に差し掛かったところで再び、眩い光が周囲を照らす。
 やがてそれが収まる頃には。ミハイルの姿はどこにもなかった。

 シーンと静まり返ったそこは、人が何人も倒れ伏しているだけで、何事もなかったかのように元通り。きっと彼らが目を覚ました時。彼らは何が起こったかも知らないに違いないのだ。

 

* * *



 サタナキアを何とか魔界への扉を開いたエミディオは、無我夢中で屋敷へ彼を連れ帰った。何をどうやったのか、本人にもよく分からない。けれどもエミディオは、確かにそれらをやってのけたのだ。

「ッご主人!」

 口々に叫ぶ屋敷の者達に手伝われながら、エミディオは彼の寝室へとその身体を運ぶ。魔界へ戻ってきたおかげか、回復のスピードは早まったようだ。サタナキアの身体がベッドへ寝かされる頃には、頭部はほとんど再生していた。それでも、固く閉ざされた瞼は未だ開かれる事なく、意識を失ったままだ。まるで死んでしまったかのように眠るその姿は、その顔立ちの端正さと相まってまるで人形のようだった。
 エミディオはいてもたっても居られなかった。自分がこうして元気に動き回れるのだから、死んでは居ないと分かりきっている筈なのだが、それでも不安でたまらなかった。
 まるでこの世界にひとり取り残されたような気分で、生きた心地がしない。
 ベッドに寝かされたサタナキアの顔をただジッと見つめながら、エミディオは佇んでいた。

「ーーエミディオサマ」

 エミディオがハッと気付いた時、すぐ隣にお付きの悪魔のひとりがそこに居た。頭が虎、腕に毒蛇を巻き付けて蝙蝠のような翼が生えている。
 彼は不思議そうにエミディオへ問うた。

「その、姿ハ……」
「姿?」
「堕天使サマ」
「堕天使……?」

 そこで問われて自身の後ろを見て初めて気付く。背中に翼が、生えていたのだ。鳥の翼のようにびっしりと羽根の生え揃った、柔らかそうな翼だ。黒くもなく、そして白くもない。髪の色のような、燻んだ鈍い色をしていた。

「は?なんだこれは」
「堕天使ニ、成られた。その魂ニ相応しキ悪魔ニ」
「魂に相応しき悪魔ーーああ、それで、私は人間界から戻って来られたのか……?そう言えば、サタナキアを連れ帰ったのは私だったのう……どうやったのだったか……さっぱり覚えとらんわ」
「天使に襲ワレた、ように見エる」
「……何かから逃げてきた記憶はあるのだ。何ががあって、何がどうなったのかは、私にもよう分からん。サタナキアが……」

 それから先、エミディオは言葉を続ける事ができずそのまま口を閉ざしてしまう。けれどもお付きの彼はそれ以上に何かを聞く事なく、そっとその場を辞した。出来た従者だ、なんて思いながらエミディオはひとり、再びサタナキアの枕元へ佇んだのだった。

 エミディオにとって、サタナキアが全てだ。だからこそ、それを奪われると思った時。感じた事のない程の怒りに襲われた。
 そこから先はもう、何も覚えていない。





「エ、ミディオーー?」

 サタナキアが意識を取り戻したのは、それから半刻程たってからの事だった。彼はエミディオとは違い、全てを覚えている。
 目を覚まし、目に映る天井を見て真っ先に、サタナキアはエミディオの事を思った。あの時の光景が、彼が天使に縋り付きながら苦しむ姿が、目に焼き付いて離れない。

「ッーー!」

 鮮明に思い出してしまってまず、サタナキアは勢いよく起き上がった。あの時、あの後一体どうなったのか。自分はあの恐ろしき天使に不意を突かれて首をもがれ、とっくに消されていてもおかしくなかった。
 だが、何故だかサタナキアは生きているのだ。ならばエミディオは、無事だろうか。連れて行かれてしまってはいないだろうか。
 そんな最悪な想像をするだけで、サタナキアは心臓をギュウと鷲掴みにされるような恐怖と怒りとを覚えるのだった。

 キョロキョロと辺りを見回し、エミディオの姿を必死で探す。半ばパニックに陥っているサタナキアは、そのままエミディオを探す為にベッドを出ようと、掛けられていた毛布を勢いよく剥ぎ取った。そしてそこで、ようやくサタナキアは気付く。

「んあッ……?」

 何とその探し人は最初から、己の腰辺りに背後から抱き付いていたのだ。良く確認すればすぐに気付いたらはずだったのだが、動揺の余りにサタナキアは周囲が良く見えて居なかったのである。
 しかし、羞恥よりも何よりも先に安心感が優って、サタナキアは大きく安堵のため息を漏らす。本気で、盗られたのではないかと不安だったのだ。目の前であれ程強大な力を見せつけられ、手も足も出ずに敗北した。
 そんなだらしのない自分から、エミディオはきっとするりと抜け落ちて行ってしまったのではないか、と。

「ーーエミディオ……」

 サタナキアはエミディオの手をそっと取りながらその場でぐるりと己の身体を反転させた。そしてその身体を抱き寄せながら、愛おしそうにその頬に手を触れる。
 すっかり眠ってしまっているエミディオの目は閉ざされ、見る事は叶わない。けれども今は、その瞳が見たくて仕方なかった。いつものように憎まれ口を叩きながら笑ってほしい。ただそれだけで、背中に生える翼だとか、彼の纏う空気だとか、そんな変化が些細なものに思えた。
 信じられない程穏やかな気持ちで、サタナキアはその鼻筋にそっと口付けを贈った。するとどうだろうか。至近距離から見つめるサタナキアの目の前で、瞼がヒクヒクと震えてそっと、開かれる。その隙間から、いつもの赤い、宝石のような目が涙に濡れてキラキラと輝いていた。
 最初に出会った時の空色も鮮やかで目を惹かれたが、自分の色に染まったこの色も、サタナキアは好んでいた。人であったこの者を、自分が変えたのだ。自分のものだというしるし。

「サタナキア……?」

 目があってまず、エミディオは名前を呼んだ。それが堪らなく愛おしく思えて、サタナキアは微笑みを浮かべて応える。

「おう。……エミディオ。お前、平気か?怪我は?調子は?」

 そのまま、その胸に頭を擦り寄せ彼の香りを吸い込む。声を聞けた。サタナキアはそこでようやく、ホッと息をつく事ができたのだった。

「……サタナキア、」

 頭上から、エミディオの呼ぶ声が聞こえてくる。それに応えながら、サタナキアはギュッと一層強く、その身体を抱き締めた。エミディオの声は少しだけ、震えていた。
 そうしてすぐ、サタナキアの頭はその腕に抱き締められる。強く強く、かつて無い程に。震えるその腕に抱き締められた。泣いているのか、頭上からはぐずぐずと鼻を啜る音が聞こえる。

「う……馬鹿者、……魔王を貶めた大天使に、お前が敵う訳がなかろうがッ……」

 そう震えながら言った声に苦笑しながら、サタナキアは顔を上げる。すると目の前に、泣き腫らしたエミディオの顔があった。

「泣くな。主人が迎えに行くのは、当然の事だろうが」
「阿呆」
「敵う敵わないじゃねぇんだよ。あそこで行かなきゃ、俺はお前の主人でも伴侶でも無くなるんだよ。……お前に何も無くて、ホッとした」
「…………」

 宥めすかすように優しく告げながら、サタナキアはその唇にそっと口付けた。最初は確かめるように、啄むようなものから。それを段々と、二人は深いものに変えていった。互いの存在を確かめ合うように、舌を交わらせ唾液を交換する。時折サタナキアがその舌を吸い上げると、くぐもった声が上がった。歯列をなぞるように、そして上顎を舐め上げれば、熱い吐息と共にその身体が震えた。
 涙に濡れたルビーを目の前にジッと見つめながら、サタナキアはいつものように、或いはそれ以上に、エミディオを愛す。
 そしてそのエミディオもまた、普段とは些か違った様子で、その愛を返すのだーー。



「ん、どうした?今日はやけに、積極的だな」

 そんな事をサタナキアが言い出したのは、二人とも衣服を全部取り払ってしまった時だった。
 いつもならば、エミディオはサタナキアのする事をジッと観察しながら、上に乗られて言われるがままだったのだが。今日は違っていた。
 エミディオは、随分と熱に浮かれた様子で、サタナキアの肩を押して仰向けに寝転がした所だったのだ。その上で、苦笑混じりに言ったサタナキアに啄むようなキスをひとつ落とすと、無言でその上に跨った。
 意外と意地っ張りなエミディオは、サタナキアに何かを説明してくれる様子はない。サタナキアは、そんな様子のエミディオの様子にすらドキドキとしながら、その行動を見守った。

「……今日は、お前への仕置きだ。私を、ここまで心配させたんだからの。触るのも動くのも禁止じゃぞ。私が好いと言うまで動くでない」

 それはもう、何と言うか最早ご褒美なんではないか。サタナキアは何も言わなかったが、そんな事を考えながら、期待に胸を膨らませた。
 この、美人でエロの化身の如き悪魔の女神(矛盾してはいるが)は一体、どんなエロスを見せてくれるのか。サタナキアはそれを想像するだけで興奮した。

 まずエミディオは、サタナキアの身体を両手で愛撫していった。その唇に吸い付きながら、鍛え上げられた上半身にさわさわと触れる。首元から後ろ首、肩から肩甲骨にかけて、触れるか触れないか、絶妙な接触具合で下へと降りていく。エミディオがそのような事を行っているという事実に、サタナキアは得も言われぬ興奮を覚える。
 けれども、先程言われたように触るなと言われれば流石のサタナキアも従わざるを得ない。案外、この頑固な美人の言葉を反故にすれば、拗ねてとんでもない事態に発展するのだからして、サタナキアはしぶしぶ我慢するのである。
 そのまま、エミディオの滑らかな手は、サタナキアの胸の飾りに到達する。触れられた途端、ざわざわと背筋が震え、頭の天辺がカァっと熱くなるような興奮を覚えた。
 発情したような濡れた視線で己の目をジッと見つめ、性器をサタナキアの腹に擦り付けながらその胸を弄る。まるでサタナキアの身体を使ってエミディオが自慰をしているかのようで、想像しただけでサタナキアはイッてしまいそうな程の興奮を覚えた。
 そしてふと、エミディオは唇を離して、目の前で言った。興奮した、浮ついたような声音だった。

「はぁ……のぉサタナキア、イイ、か?」

 上気した顔で上から見下ろし、口端を唾液で濡らしたまま舌舐めずりをしている。おまけに小首まで傾げていれば、それはもう、誘っている小悪魔にしか見えなかった。

「ッたり、めぇだろ」

 耐えるように喉の奥から唸るような声が出た。サタナキアは、そんな自分の状況にすら興奮しながら、自制心を総動員して、エミディオの様子を見守った。
 するとエミディオは、そんなサタナキアの様子に満足そうにいやらしくわらって、再び口付けたのだ。
 そうしてそのまま、今度はその手が、既に大きくそそり立っていたサタナキアの性器を雑にぐにぐにと弄り始めたのだ。流石にこれには耐えられず、サタナキアは思わず鼻から熱い息を漏らしてしまう。
 それを至近距離から見たエミディオは、何とも嬉しそうな表情で、口付けを深めた。普段とはまるで逆転してしまったような状況に、サタナキアもまた、興奮を煽られる。二人はそんな状態のまましばらく、唇を寄せた。

 エミディオが唇を離すと、二人の間を一瞬、透明な糸が伝う。それが途切れてからも、二人は何も言わず無言でしばし見つめ合った。最早、二人の間には言葉も要らぬ。互いに抱え切れない程の愛を胸に収め、それを見せつけるようにただただ気の赴くがまま、心で動くのだ。


 エミディオはサタナキアに跨り、ゆっくりと上から腰を落としていく。ほとんど慣らしてもいなかった筈なのに、大きなサタナキアの性器を呑み込むように、それはエミディオの中に収まっていった。

「あ、あ……ッ、入って、くる……」

 満足した様子で声を漏らすエミディオは、明らかにわざと言っている。嬉しそうに、知らぬうち眉根を寄せるサタナキアに聞かせる為に、わざと言っている。いつ、我慢が聞かず手を出してくるか、それを待ち望むかのように、愉しむように。エミディオは観察していた。

「ッ、エミ、ディオ……」
「まだ、ダメッ」

 すっかり中に収まって、エミディオが一息をついている時。サタナキアは堪らず訴えた。けれども当然、エミディオからのGOは出ない。その腰に触れたくて持ち上げた手を、言われるがままに落としてその脚に触れるだけに止める。それだけでもう、サタナキアは何故だか興奮した。
 そしてサタナキアは葛藤する。このままエミディオの言葉を無視して動いてしまうか、それとも今から彼がやろうとしている事を我慢しながら見守るか。
 すぐに決められずにいたのは、どちらも等しくサタナキアの興奮を誘うからだ。そんな様子で眉根を寄せるサタナキアに、エミディオは笑って言う。、

「待てだ。私が、やる」

 酷く興奮したような、嗜虐的な様子で告げたエミディオのその姿は、サタナキアにはとても美しく映った。このまま彼の言う通りにして、その先の、淫らに乱れるその姿を見たい。サタナキアの葛藤が、勢いよくそちらへと振り切れたのは、それからすぐの事だった。


 その、少年とも青年ともつかない細腰が揺れる。同じく興奮でそそり立った彼の性器から先走りご流れ落ち、部屋の僅かな灯りに照らされててらてらと光っている。
 その淫らに揺れる腰の奥では、サタナキアの性器がエミディオのナカで擦られてしゃぶられて、見え隠れしている。
 それはもう、倒錯的な光景だった。

「は、ーーッ、のぉ、サタナ、キア、ッぅ、きも、ちイイか?」

 サタナキアの腹筋に手を置き、腰を振るエミディオが、随分と気持ち良さそうに笑いながら問うてきた。
 もちろん、サタナキアの答えなんて決まりきっている。

「そりゃぁ、お前が乗って自分から腰、振ってんだ……すぐ、イっちまいそうだ」

 視覚的にも精神的にも、既に気を抜くと絶頂してしまいそうな程興奮していたサタナキアは、素直にそう応えてみせた。それを聞いてエミディオは動きを止めると、嬉しそうに、幸せそうにわらう。そしてそれと同時に、ナカがぎゅうと締め付けられた。

「う、ッ!」

 それでもう堪らず、サタナキアは少しだけ高められてしまうが、それを何とか耐え切る。流石の事態に辛くなってきたサタナキアは、甘えるように優しく、エミディオに言ってみせる。

「ッなぁ、エミディオ、俺様も、動きてぇ。お前、を気持ち良くさせるのは、俺の役目、だろ?」

 余程切羽詰まった表情をしていたのか、エミディオは一瞬驚くように目を見開いた。だが、次の瞬間には、彼は再びその顔に嫌らしい笑みを浮かべて口を開く。

「お前がイくまで、ダメ。動きたかったら、イって見せてくれんと、な?」

 そんな事を言いながら、エミディオは再び動きを再開する。じわじわと熱に浮かされるような快楽に、サタナキアはもう堪らなくなった。いつものように緩急をつけて突き上げるようなそれとは違って、イけそうでイけない。それどころか、先程なんかはイくのを我慢してしまったりしているのだ。それがもう、堪らない。そしてそんな状況そのものが、余計にヨかった。

「うぅ、ぐ……ッ!」

 我慢に我慢を重ねて、好きなように攻められてみせる。そんな状況に興奮して、サタナキアが絶頂を迎えたのは、それからすぐの事だった。

「ビクビクしてる。ほれ、もう、我慢するで無い。私ももう、ダメだ……イッてしまう……サタナキア、お前、も、さっさと、イッてしまえーーーーぁッ!」
「ううッーーん!」

 エミディオも限界だったのだろう。言いながら興奮して締め付けて、イイ所に当てて間も無く。仰反るように絶頂した。ビクビクと何度も震え、蕩けた顔でその余韻に浸る。
 そうしてサタナキアも、そんなエミディオの締め付けに耐え切れずとうとう、弾けてしまう。何度何度も奥に吐き出すように、腰が揺れる。
 互いに、射精してからぜえぜえと息を整えたところで、くたりとエミディオがサタナキアの胸元へ倒れてくる。それをサタナキアは両手で抱き止めると、そのままエミディオの髪へとキスを落とした。繋がったまましばらく、二人は無言で抱き合っていた。

「なぁ、エミディオ」

 そこで先に口を開いたのはサタナキアだった。

「ん?」
「お前、翼とか生えたけど……ほんと、大丈夫か?」

 それまでずっと、胸にしまっておいた疑問だった。二人でこんな行為までしておいて今更ではあったが、どうしても聞いておきたかったのだ。

「さぁ……大天使殿に神力を吹き込まれての、何やら訳の分からん事にはなっとるようだが……全く、問題ないのぉ」
「そう、か?堕天使っぽいが……堕天使ではねぇよなぁ。羽根が黒くねぇ」

 抱き寄せながら、背中に生える翼をさわさわと撫でる。それがくすぐったいのか、エミディオは微かに身体を捩った。

「そこだな……まぁ、魔界の扉を開ける程の、正真正銘の悪魔になったらしいからの。何はともあれ、私からすれば願ったり叶ったりよ」
「……俺からすりゃあどっちでも構わない訳だが」
「もう、下手に人間界に召喚されるような事もあるまい」
「そんなら良いがな」
「もし……それでも召喚されてしまったら、お前、来るでないぞ」

 そんな唐突な言葉に、サタナキアはピキリと動きを止めた。

「は?」
「あんな大天使、お前に相手させる訳にはいかん」
「あ"あ"!?」
「私ならまだ神力が残っとる。奴が私に吹き込んだのよ。ーーあの阿呆め、お陰でこの身体で再び神力をも使えそうだわ。例え今回のような事があっても、お前が来る前に自力で煙に巻いてやるわ」
「お前っ……」
「そう心配するでない。奴らに私を引っ張る事など出来はせん。殺す事もな。私は、天使の事なぞ何とも思っとらん。むしろ、嫌いかもしれん。ーー人間だった頃から」
「…………」
「だからそう、心配はするな。私がお前の伴侶だと言うならば、私にもお前を護らせろ。今日のような事は御免じゃの」
「…………おう」
「死に向かう無謀な突撃なぞは好かん。私の為にも、頼むから理性的になってくれな。サタナキアが居なくなってしまっては、私は生きている意味がない。お前が生きる限り、私が隣にいる事を忘れるでないぞ」

 そう言ってエミディオは、何度目かも分からない口付けを落とす。そしてサタナキアもまた、分かったとばかりにそれに応えるのだった。
 今までとは少しだけ変わった関係性を互いに認め合いながら、二人はいつまでもそうして交わり合う。伴侶として、決して道を違わぬ仲間として、二人はずっとずっと離れる事なくその生を全うするのだ。
 これからもずっと。飽きるまで。





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