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065.忘れた頃に愛して(終)



 疾風のように過ぎ去る旅の日々は、ぼんやりと霞みがかった中でもリュカには楽しいものに思えた。ルーカスだった頃には見えて居なかった事が、今ならば見える気がした。

 旅路は驚く程順調で、そして穏やかなものだった。任務を終えた帰りであるし、騎士達も魔術師達も、束の間の開放感に気分も高揚していた。
 時折、森に残る魔獣に襲われる事もあったが、やたらと張り切ったクロードによって気付く間もなく尽く狩られていった。
 ラウルよりも逸早く気配に気付けるクロードのそれは最早才能で、ジャンに褒められて嬉しそうにしている。そんな彼を見ると、リュカは何とも言えない気分になる。
 これ程能力のある子供が危うく殺されるところだったと想像すると、一族の人間としても、そしてイチ大人としても、腹の奥底から何かが湧き上がりそうになる。ノーマが彼を見つけたのだと言っていたが、もし、それが無かったらと思うと。そこまで考えて、止めた。
 その事件の犯人なんて結局誰がやったかは不明のまま、ベルジュの家は続いていくのだ。後ろ暗い腹の内を隠し通しながら、表面ばかり綺麗に取り繕って騙し合う。そうして増長した一族は、一体何処へ向かっていくのか。
 そんな事はもう、リュカには関係の無い瑣末な事。国にもあの一族にすら呆れ果ててしまった今や、それを指摘して変えてやるだけの愛なんてとっくに枯れ果てている。今も昔も。だからリュカは、あの三人の為だけに、帰るのだ。


 そんな魔術師クロードの活躍の所為もあってなのか、ここの所ラウルの元気が無かった。クロードには自分のお株を取られてしまうし、ロベールにも良い加減リュカにばかりくっつくなと引き剥がされるなどなど、そのような日々が連日続いている。今まで好き勝手にしていた分、踏んだり蹴ったりだ。
 泣く泣く尻尾を引っ張られながら引き摺られていくラウルが余りにも情け無くて、思わずリュカは声をかけそうになってしまった。
 けれどそれは、『これもラウルの為だ』なんて半笑いのエレーヌに止められてしまったりして。そうか、それなら仕方ないのか、なんて、ロベールの次に仲の良いらしいエレーヌにそう言われれば、リュカは信じるしかない。
 そして、それが後でラウルにバレて影で掴み合いの喧嘩になる、なんて事はここ最近では珍しくない事だった。
 実は、そのような喧嘩の原因も、ジャンが裏で糸を引いていた所為だったりするのだが。知らぬのは当人達ばかり。

「あの……、流石に全部二人に告げ口しなくても好いんじゃ……」
「え、どうして?こちらの方が面白いじゃないですか」
「無駄に喧嘩を煽るだけなんじゃ……」
「クロード、覚えておいて下さい?こんなのは諍いじゃなくて、ただ大型のワンちゃん達がじゃれあっているだけ!……それに、抜け駆けなんて狡いじゃないですか?だからここは公平に!ーー僕のこの、胸に込み上げるものの為に……お二人には実験台になっていただくんです」
「…………あ、うん、はい」

 そのように、旅に彩りを添えるように彼等は笑いながら前へ進んでいく。残りの時間を惜しむ様に、仲間である事を誇りながら。

 そしてしばらく、再度リュカに、野営地の留守番当番が回って来た時だった。
 その日は何故だか、剣士の隊員ではなくエレーヌが、リュカと共に残る事になった。何をどうやって説得したのか、アンリが魔術師ペアの留守番を許したのだ。アンリはその場を離れる際、苦笑しながらエレーヌに何事かを呟いていた。リュカを始め、他の隊員たちにもそれは聞こえなかったが、その日は確かにアンリとエレーヌの間で何事かの約束が交わされたらしかった。
 エレーヌはどこか満足気な表情をしていて、けれども事情のさっぱり分からないリュカは、珍しい事もあったものだと、ただエレーヌの様子をチラリと伺ったのだった。

 この頃になるとリュカも、左脚にも慣れ、バランスを崩す事も少なくなった。誰かの手を借りる事も、ただぼうっと佇んでいる様な事も、段々と少なくなっていた。
 彼等と居ると、リュカは息苦しさを忘れる事ができる。自分でいる事ができる。リュカは少しずつ、取り戻していた。見えていなかったものを見るために。落としてきたものを拾い集めるために。
 そしてそんなリュカを見て、彼等はかつてのリュカ=ベルジュの姿を思い出してはホッと息を吐くのである。


 二人は並んで木に背を預け、ジッと焚き火を見つめていた。手を広げてしまえば触れてしまうようなそんな距離で、二人はそこに座っていた。

「あの……、エレーヌさん」

 先に口を開いたのは、リュカからだった。こんな些細な事でも、リュカが自分から動く事にエレーヌ含め皆がホッと胸を撫で下ろしていたりするのだが。当人がそれに気付く事はない。

「何だ」
「先日、ベランジェとは何を話していたんです?」

 また、ベランジェか。
 エレーヌがそのような事を思っているなど露も知らず、リュカは隣に座るエレーヌを見上げる。
 いつだったかエレーヌが見た、人の顔色を窺うような、不安そうな表情をしていた。エレーヌは微塵も知りもしないが、ルーカスだった頃の影がチラつくようだった。

「何、大した事ではない。ーーお前の事を頼むと、言われた」
「え…………、ベランジェが?」
「ああ」
「そう、ですか」

 エレーヌがそう応えると、リュカは嬉しそうに口許を緩めた。無意識なのだろう、そんなリュカの表情にエレーヌは一瞬、眉を顰めた。
 ふとした時、リュカの口からはベランジェの名前が出る。それが彼等にどのような印象を与えるのかを、本人はまだ理解していない。
 そしてエレーヌも、目の前で見せつけられる彼等の強い繋がりに、微かな胸の痛みを覚えるのである。まるで自分が、蚊帳の外へと追い出されてしまったような。
 エレーヌは、更に話を切り出した。

「お前は、ベルナールという名前に聞き覚えは?」

 一瞬、驚いたように目を見開いてから、リュカはその問いに応える。ベルジュ家ではよく聞くその人物が一体、自分達とどのような関わりがあるのか。そんな疑問が、顔にはありありと浮かんでいた。

「ベルナール……初代ベルジュ家当主、ベルジュの家名を最初に名乗った方、ですか?」
「ああ、その人物の事だ。……では、そのベルナールの手記が、城の禁書棚に隠されていた事は知っているか?」
「…………え?」
「その様子だと知らんか……歴史書関連の棚だ。気付かれぬように隠されていた。ベルジュ家歴代の秘事を綴った本に紛れてそれがあったのだ」

 エレーヌが説明して見せれば、リュカの目にも驚きと好奇の色が湧く。身体を少しだけ身を乗り出すように、リュカは聞いた。

「それは、一体どのようなーー?」
「ベルナールとベランジェの、二人の話だった。ベランジェの名前は伏せられてはいたが、お前達の話から、それがベランジェであると推測するのは簡単な事だった」
「!」

 その場で息を呑んだリュカに構わず、エレーヌはいつもの調子で先を続ける。

「二人は幼馴染で友人で、その友人はその強力な魔力故に軟禁されていた。二人は密かに会っていたが、ある時それを家の者に知られ、友人は何処かへ連れて行かれてしまう。ベルナールは何年も探し回ったが、何処にも居なかった。そしてベルナールはある時を境に、友人を探すのを止めた。そしてその数年後、ベルナールはベルジュを名乗るようになったーーと、掻い摘んでこのような話だ」
「…………」
「その手記の内容を本人へ伝えた」
「!」
「手記を渡す事も約束した。それが、あの男にとって一番だと、思ったのだ……。もう本人は居ないが、気持ちは伝わる。だからあの男も、縛られるのではなく自由に生きるべきだと」

 その時のリュカは、何とも複雑な思いを抱えていた。一時ながら共に過ごした彼に、そのような過去の話があったなんて事、リュカは知りもしなかった。知ろうともしなかった。
 もしかしたら、リュカは彼に聞いた事があったのかもしれない。けれどそれは、ベランジェの口から語られる事は無かった。それ程大切だったのか、それとも、思い出して辛いから語られなかったのか。
 リュカは途方に暮れたような気分だった。

 だが、続けてエレーヌに言われた言葉に、リュカはそんな気分もあっという間に吹き飛んでしまう。

「それと、リュカ=ベルジュの事は心配するなと、言ってきた……」
「!」

 そう言って突然、エレーヌはリュカの方へ乗り出してくる。唐突に目の前に寄せられた顔に、リュカは息を呑んだ。

「彼と約束をした。それで、お前にーーリュカに何かあれば、私はあの男に消されるそうだ」
「!?」

 そう言って、おかしそうに目の前で笑ったエレーヌに、リュカは思わず赤面してしまう。普段全く笑みなど見せない男が、しかも一時期でも憧れを抱いていたその男が、自分に対してそのような態度でとんでもない事を示してみせたのだ。嬉しくない筈がない。
 そしてベランジェだって、そんな条件を相手に突き付ける程自分を心配してくれているなんて聞かされて、リュカが嬉しくないはずがない。最早何に対して喜んでいるのか、エレーヌなのかベランジェなのか訳が分からなくなって、リュカは混乱する。自身の顔が赤くなっているだろう事は分かっていながら、それでもエレーヌから目を逸らす事が出来なかった。

「な、ぜ……そのような約束を貴方が……」
「さぁ、何故だろうな。……私の命を背負うのは、嫌か?」

 ニヤリと、見た事も無いようなしたり顔で言った彼に、リュカは益々混乱する。嫌かと問われて否と、リュカが彼に返せるはずが無い。けれども何故だか声には出せなくて、リュカは急いでふるふると顔を横に振った。

「そうか。それなら満足だ」

 そう言って、一旦エレーヌの顔は離れた。けれどリュカは、未だ止まぬ胸の高鳴りと、エレーヌのその返答の意味を考えてしまって動揺する。本当に、一体何を思ってそこまでしてくれるのか。
 こっそりと深呼吸をして息を整えて、リュカは努めて平静を装った。けれど、途端に二人きりであるこの状況を妙に意識してしまって、リュカはどこか落ち着かない気分になった。早く、皆帰って来ないだろうか。リュカはそんな事すら思い始めてしまう。

 けれど、今のリュカにとっては残念な事に、エレーヌの行動はそこで終わりでは無かったのだ。
 一度は離れて行ったエレーヌは、今度はリュカの真横にまで身体を移動させてきたのだ。すぐ側、動いてしまえばすぐに触れ合ってしまうその距離で、エレーヌは上体を寄せながらリュカに再び問うた。
 先程よりも近いのではないかとリュカが錯覚する程、エレーヌの顔が傍にあった。リュカは動く事も、そして振り払う事も出来ない。話す度、エレーヌの吐息が耳元にかかった。

「先日は、ラウルと二人きりで何を話した?奴の事だ、私の事も何か言っていたろう」

 何でもお見通し。
 久々にエレーヌからそれを思い知らされているかのようで、リュカは動揺した。不安などでは無い。ただ、それを聞かれ答えるのが恥ずかしいのだと、リュカは初めて自覚する。

「それ、は……」

 別に、言ってしまえば何でもない事なのだろう。けれど何故だか、リュカはエレーヌにその話題を知られる事に抵抗感を覚えた。
『ドキドキした?』
 ラウルの言葉が自然と思い出される。

「ラウルの事だ、また、ハッキリとお前に聞いたのでは?」
「あ、え、……」
『これが、エレーヌだったら?』
「ラウルと私ならばどちらを選ぶのか?ーーと。お前は答えたか?」

 ラウルの言ったその声が、今のエレーヌの言葉と重なり、記憶なのか現実なのかが段々と分からなくなってくる。口から漏れた声は、最早意味を成さなくて。リュカは気分を落ち着けようと必死で、深呼吸をした。
 そして、そんな風に真っ赤になってしまったリュカの様子に、エレーヌは満足したのか、それ以上の答えをその場で求める事は無かった。ス、と寄せていた顔を離すと、どこか優し気に、エレーヌは言った。

「まぁ、十中八九まだだろうな。……私も答えはまだ求めん。帰ってからなーー?」

 そう言ったエレーヌの言葉は妙に意味深で、顔が離れた事で少しばかり余裕のできたリュカは、チラリと見上げるようにエレーヌを盗み見た。
 普段の様子で元の位置に直ったエレーヌは、それでも何処かご機嫌の様子で。それっきり、暇を持て余すように魔術を使い出したエレーヌは、リュカの方を見ることは無かった。
 そんなエレーヌの様子から目を逸らし、少しだけホッとしながらリュカは考えた。今まで類を見ない程、真剣に考えた。
 エレーヌもラウルも答えはしばらく求めないとは言ったが、必ずその返答を期待されている。
 想い続けても何も返ってこないその状態が、如何に辛く苦しいものであるかを知っているからこそ、リュカは答えなければならないとそう思うのである。

 しっかりと考えようとするのだが。その日のリュカの頭の中は碌に働きもしない。どうしてこれだけでこんなにも動揺しているのか、本人にも分からない。
 答えなどもうとっくに出ているのかも知れなかったが、リュカは何度も何度も繰り返し思い悩んだ。
 そのような思考はそれから数日間にも及び、日がな一日ぼんやりと過ごすようになる。そんなリュカを、周囲の者達は心配したと言う。
 ただしジャンだけは、その理由をあっという間に思い立ってしまって、ひとり悶えて静かに奇声を上げ、傍に居た者には大層心配されるなどした。

 そうやって、旅の日々は順調に、そしてあっという間に過ぎ去っていった。その旅が終わりを迎えたのも、それから十数日と経たない内だった。森を抜け岩場を抜けて、見覚えのある城下街へと歩みを進めた。最初は出迎えこそ無かったが、彼等の顔を見るや否や、街の人間は次々と現れ、歓喜の声を上げた。例えそれが偽りの話だったとしても、人々にとっては待ちに待ったヒーローだった。
 懐かしき故郷へ戻り、城へと戻り、討伐隊の任務はそして無事に、完了されたのだった。





* * *





 リュカはひとり、目深にフードを被りながら森の中を歩いていた。あの黒い森のような不気味な場所では無い。青々とした緑の生茂った明るい、豊かな森だ。
 その森の道なき道を、リュカは目的を持って進んでいった。その間考えるのは、少し前に引き合わせたクロードと、リュカの家族の事だった。

 彼等は姿もすっかり変わってしまったリュカを、そしてリュカの話を、驚きつつもちゃんと信じてくれたのだ。全てを話す訳にはいかなかったが、今の姿がリュカ本人である事は信じてくれた。
 テオドールこそ、最初はジイッと睨み付けるようにリュカを見ていたが、本人だと理解出来ると、いつものようにブスッとした顔でリュカに声をかけてくれたのだ。
『怪我、したのか?脚、おかしい』
 左脚の事に最初に気付いたのはテオドールだった。まさか気付かれるとは思っても居なくて、リュカは面食らった。そう指摘されれば、心配性な両親が黙っているはずもない。
 流石に隠し通す事も出来なくなって、リュカは仕方なく彼等にもその事を暴露する事になった。任務でどうしようもなく、左脚を差し出したのだと、正直に彼等に告げた。
 その時の三人の顔は多分、リュカは一生忘れる事ができないだろう。やはり、自分は何も見えていなかった。それをその時、リュカは痛感したのだった。



 そのような事をつらつらと思い出していると。リュカはあっという間にそこへと辿り着いてしまった。永らく、自分以外を寄せ付けぬよう結界を張っていた、苦い思い出のある我が家。
 騎士になるずっとずっと前、リュカがルーカス=ライツであった頃に暮らした家。ルーカスの屋敷は別にもあったが、彼がずっと住んでいるのはこちらの小屋の方だ。研究用に集めた沢山の魔術書とその為の品々。そして、かつて大魔術師であった時のものが、保管されているはずだった。
 結界を張ったとはいえ、中がどのようになっているかなどは想像もつかない。それでもリュカは、その周りを覆う認識を阻害する結界を自ら壊してそっと、家の中へと繋がる扉を開けた。
 ギィギィと耳障りな音を立てて開いた扉からは、薄暗く埃臭い部屋の中が見える。大きくひとつ、深呼吸した後で、リュカは意を決して中に足を進めた。
 案の定、あちこち埃を被ってはいたが、中は思っていたよりも綺麗だった。懐かしい家の匂い。苦い記憶ばかりが思い起こされる、自分だけの空間。何者にも邪魔をされない、自分でいられる空間。
 他の誰かをこの家に入れる事なんて無かった。強いて言えば、精霊王ヴィクトルだけが、自分の空間に押入ってきたのだ。懐かしくて、そしてどこか苦しくなるような記憶だ。

 だがそこでふと、リュカは疑問に思った。数百年と放置して、これ程まで綺麗に家が残るものなのだろうか、と。もっと埃を被っていたり、朽ちかけているものだと思っていたのだが。彼が何か手を加えたのではと、ヴィクトルの顔を思い出してはいやまさか、と頭を振った。そしてぐるりと家の中を見渡しながらリュカは、その場で腕を組み、右手を口に当てながら思案した。
 その問いの答えは、間もなく明かされる事になった。

「悪いがこの小屋は、勝手に使わせて貰っていた」

 この場に居たもう一人の男によって。
 突然聞こえた声にビクリと身体を震わせたリュカは、慌てて背後を振り返った。リュカの入ってきた扉の、丁度影になる位置。そこにどうしてだか、エレーヌが居た。

「一体、どうやって……」
「私も大魔術師だ。慣れればそっくりそのまま結界を張り直す事も可能だし、痕跡を消す事も容易だ」
「…………」
「私は、興味を持てば調べ尽くす人間だ。ルーカス=ライツの事ならば誰よりも知っている。ーーここに、来ると思った」
「……そう、ですか」

 何の心の準備も出来ずに出会してしまって、リュカは内心では酷く動揺していた。あの時言われた言葉がぐるぐると何度も頭を駆け巡る。
 けれど何よりも、エレーヌその人に対する感心の方がその時は勝った。
 この男は本当に何でも、明らかにしてしまうのだろう。リュカは感嘆して、目の前の男を見た。

「貴方は、本当に凄いですね」
「!」

 ポロリと出てしまった言葉は、リュカが心の底から思った事だった。何も考えずに自然と出てしまった言葉。こんな事は初めてだった。純粋に、リュカにはエレーヌが眩しくて仕方なかった。

「魔術研究一辺倒だった私に比べ、貴方の知識はそれに留まらない。膨大な知識から考え出される貴方の考えは他者を圧倒する。あの、魑魅魍魎はびこる城内で、敵対される事なく上手く収められてきたのも、貴方のその手腕故なのでしょう。ずっとそう、思っていましたーー私も、貴方のようになれたら良かった……」

 その時口から出た言葉は、恐らくこの時代でずっと抱えてきた、リュカの本心だった。以前の剣士のままでは決して本人に伝わる事のなかったリュカの心。
 剣士だった時から、そして魔術師に慣れた今も変わらない、リュカの本心。

 リュカがそれを口にしてからしばらくの間、沈黙が走った。
 リュカもそれ以上言葉を発する事もない。ただ、エレーヌを見ていた。
 エレーヌもまた、その場で壁に身体を預けながら、ジッとリュカを見ていた。
 そのふたりの視線は混じり合って、逸らされる事も無い。ただ無言で、リュカもエレーヌも、見つめ合った。
 先にそれを崩したのは、エレーヌの方だった。

「私はそう、大した人間では無い」

 苦々しい表情でその口を手で覆い隠すようにしながら、エレーヌは床に視線を落とした。

「以前、お前とラウルの前で言ったように、人が人に好意を寄せるそれを、私は『無駄』だと決めつけた。先の人生には不要だと思い込み、他者の気持ちですら無碍にしてきたのだ。私は、自分の事しか考えていなかったのだ」
「…………」
「何故他人などの為に己を犠牲にするのか理解出来なかった。だから私の周りから、それを追い払いたかったのだ。私の行動は全部、自分の為に過ぎなかった。そうすれば……己が惨めにならずに済む」

 そこで一度言葉を切って、エレーヌは顔を上げた。先程のような苦しそうな表情こそしてはいなかったが、声音にはそれが滲む。

「だが、それこそ間違いだった……ようやく分かった。私とは正反対のラウルやお前達と共に行動してやっと、理解した。そして、自分がどれだけ愚かだったかも。一度味わってしまったらもう、手放せる気がしない。もう二度と元には戻れん」

 静かに言ったエレーヌに、リュカもまたポツリと言葉を漏らした。エレーヌと同じようにリュカだって、他人の気持ちを無碍にしていた点では、大して変わらないのだ。その方向性が違うだけで。

「……ええ。本当に、その通りです。私も知ってしまった。だからもう、捨てられなくなってしまったんです」

 静かな声で互いにそう言って、ふたりは黙り込んだ。しばらくの間沈黙が続く。けれどこの時、沈黙はリュカにもエレーヌにも、それが苦ではなかったのだ。
 そして、再びどちらかが口を開いた時。そこで何かが変わる。
 先に口を開いたのは、リュカだった。

「貴方にも、ラウルさんにも、感謝しています。感謝してもしきれない。多分、あなた方が居なければ、私はこの国に戻る事を諦めていた。大切な存在を、忘れてしまう所だった」
「…………」
「だから、どちらかを決めて欲しいと言われた時は悩みました。|皆《・》、私にとっては大切な方々ですから。……けれど、それをお二人が望むなら、決める事を望むのなら、応えますよ」

 そう言ってリュカは、微かに笑うと。緊張した面持ちで見つめていたエレーヌに、そっと近付いて。その胸元に顔を寄せて、その背に腕を回して。
 リュカはポツリと呟いた。

「エレーヌ、……貴方の傍に、ずっと居たいです。私の欠けた所を、貴方なら埋めてくれる気がする」

 途端、その身体が微かに震えるのをリュカは感じた。そして更に、リュカはギュッとその身体を更に強く縋り付くように言う。

「あの時、城で言われた言葉に勝るものはなかったんです。初めて認められた気がした。だから、その喜びを分かち合いたいんです」

 顔をエレーヌの身体に押し付けているのだから見えはしないが、リュカの顔には笑みが浮かんでいた。先ほど見せたそれよりも、もっとずっと幸せを噛み締めるかのようなものだ。残念ながらエレーヌがこの時それを見ることは叶わなかったが、きっとその内、再び目撃する機会はすぐに巡ってくるはずだ。

 そうやってしばらく、リュカが離れずにいると。エレーヌもまた、ゆっくりと抱き締め返してくる。背中に回った腕が、暖かくリュカを迎えた。

「私で、いいんだな?」

 自信満々に詰め寄ってきたあの時とは打って変わって、どこか狼狽えたようなエレーヌに、リュカはクスクスと笑った。

「何なんですか貴方……先程、言ったじゃないですか。ーーもう、今日は言いません。おしまいです。先日はあんなに迫ってきたのに……」
「……よく、言うだろう?幸せを前にすると怖気付いてしまうと」

 そう言いながら、リュカの腰の辺りに回っていたエレーヌの腕が、その肩にまで上がってくる。そうしてそのまま、エレーヌはギュッと抱きしめてきたかと思うと、顔をリュカの髪に寄せた。他人の熱がここまで心地よく感じられるなんてと、リュカはそっと熱い息を漏らす。

「ええまぁ、そういう気持ちも、分かりますけど。……幸せと、言ってくれるんですね」
「……お前がいたら何でも出来る気がする。ーー欠けた何かが、埋まってくれるような気がする」
「それは、光栄です。……まぁ実際、今の私なら何でも出来てしまうんですけど」

 互いに笑い合ってそのまま、ふたりはしばらくの間抱き合っていた。沈黙も他人の温もりも、不快なものでは無かった。
 そしてどちらとも無く顔を寄せて。ふたりは口付けを交わす。
 世界にはふたりだけしか居ないのではと錯覚してしまう程、その時はお互いの事しか見えない。
 誰も居ない空間で、しかしテーブルの上に置かれた青い瑪瑙のペンダントだけがそれをジッと見つめていた。
 そこでの事はずっと、ふたりだけの秘密。

 小屋の外ではそよ風が木々を揺らす音だけが響き渡り、人の気配も動物の気配も感じられない。傾きかけた日の光が葉の隙間から零れ落ち、地面に生えた緑に生きる活力を与える。
 かつては幾人もの孤独を閉じ込めてきたこの小屋も、そのように使われる事は二度と無いだろう。
 前を向いてきちんと歩き出した人間は、立ち止まる事なくずっとずっと歩いて行ける。時々立ち止まったり、振り返ったりする事もあるだろう。悲しみに暮れる事もあるだろう。けれどそれでも、前を向いて顔を上げて、隣を歩く者達の為に進み続けるのだ。





「ーーーーは?辞めてきた?」
「そうだ」
「大魔術師を?」
「ああ」
「…………一体、何故!」
「色々と腹に据えかねたんでな。お前と同じではないか」
「!」
「それに、ここ以外の世界も見に行きたいと、以前言っていたろう」
「!?」
「そしたら、ベランジェやノーマ達にも会いに行くんだろう?私も行く。あの男には、私も渡すものもある」
「!」
「盗った事がバレる前に逃亡したい」
「は!?」
「冗談だ」
「…………貴方、ほんっと……いえ、冗談なんて言えるんですね。失言ばかりかと思ってました」
「お、おまえ……」
「冗談です」

 変わる事なくこれからもずっと。



END




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