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063.前進



 “思い込みで人は死ねる”
 いつだったか、リュカがどこかの誰かから聞いた言葉だった。最早その時の事はとうに忘れ去ってしまって、いつ、どこで、誰からそれを聞いたのか、リュカは思い出せない。


 目まぐるしく変わる自分に着いて行けていなかったのは、リュカ自身だった。罪悪感など無いなどと虚勢を張って騙して、けれどそんなものは唯の“思い込み”に過ぎなかった。
 ひとつの事以外、考える事を放棄したリュカは、自分の心を騙し続けていたのだ。彼等と共に歩みたいだなんて、そんなささやかなものは奥底に鍵を掛けて仕舞い込んで埋めてしまった。
 そうでもしなければ、全てが無駄に終わってしまいそうで恐ろしくて。たった一つの為にそれ以外の全部をかなぐり捨てて、リュカは何もかもから目を背けてただ前だけを見て走った。これまでの努力が全て水の泡になるという、その絶望を散々思い知って居るからこそ、リュカは失敗を恐れた。
 そして、それがようやく実を結び終わりを迎えられると分かった時。
 リュカはそこでようやく安堵した。

 何も考えなくても良い。誰も騙さなくても良い。自分すら騙す必要も無い。そう思ってしまったらもう、何もかもがどうでも良くなった。
 自分の役目はここまでだ。
 最後の最後で自分の目的は叶った。
 ようやく、数百年越しに、たったひとつだけ願いを叶えることが出来た。
 他人の為の願い。
 もう、それ以上に何も思い残す事はない。
 自分は生きていなくても良い。
 その時にようやく、リュカは肩の荷が下りた気がしたのだ。

 だから、ラウルやエレーヌにああやって言われていなければ、リュカはきっと“思い込み”で全部を投げ出していたに違いない。それ以上の幸運を、リュカは“思い込み”のせいで諦めてしまっていたに違いなかった。




* * *




 リュカが目を覚ましたのは、その日から二日程後の事だった。
 目を開けてまず、リュカの目には空が映った。真っ青に冴え渡った空と、そんな青に滲むように点々と浮かぶ白い雲。その光景に感嘆すると同時に、リュカははてと思った。
 自分は深い森の中に居て、あの森の中からはここまで綺麗な空は見えなかったはず。木々が、真っ黒い靄が、あの黒い塔が邪魔をして、空は狭くどんよりと重かったのだ。
 それが今や、目の前に広がるのは青々とした広い空だ。まるで王国の城の中から見るような光景だと、リュカは思った。

「リュカ、起きたか?」

 ふと耳に入ってきた聞き覚えのある声に顔を向ければ、そこには狼の姿のままのラウルが居た。いつかのように、リュカの頭上から覗き込むように見下ろしている。リュカの枕がわりになっているラウルの胴からは、彼の体温が伝わってくる。ふわふわとした暖かい狼の体毛が、リュカの頬に触れる。
 その声に応えるように首を縦に振ると、ラウルは満足したかのように顔を寄せてくる。そんなラウルに最早驚きもしなくなってしまったリュカはされるがままだ。横面を舐められたりしながら、リュカは緩慢な動作で周囲を見回した。

 ほんの数メートル先には、リュカの良く知る皆が居た。
 アンリの傍らに居ながら、ジャンはクロードと何かを楽しそうに話している。そんなクロードの傍にはノーマがついていて、彼は実につまらなさそうに二人の様子を眺めていた。
 そんなノーマの様子をジロジロと警戒しながら見ているのは、アンリのすぐ背後で立って控えるマティルドだった。彼は目だけは鋭くノーマを監視しながら、同じく立って木にもたれるロベールと口だけを動かし何やら話をしているようだ。コロコロと表情を変えるロベールに対して、マティルドはピクリとも表情筋を動かす事はなかった。
 何やら随分と仲良く(?)なったらしいノーマとクロードに、リュカは少しだけ興味をそそられる。彼等もまた敵対していたというのに、穏やかに話が出来るほどに関係は改善している。リュカはホッとしていた。ベランジェが去った場合に残された彼等に残された道。どれを選ぶかは彼等次第ではあるが、選択肢が多いに越した事はない。
 リュカはまたしても、他人の為に動いてしまったのだ。ほとんど無意識の内に、リュカは他者を優先する。何も考えずに、動いてしまうのだ。

 と、そのような彼等の様子を確認したところで、リュカははたと気付く。いつもあちら側でアンリと話している筈のエレーヌの姿が、見当たらないのだ。珍しい事もあったものだ、とリュカはラウルに鼻先を擦り付けられながら彼の姿を探す。
 いつも居る人の姿が見えないと、余計に気になってしまうものではあるのだが。果たしてリュカが目敏く気付いてしまったのは、ただの偶然だったか。ぼんやりと風景でも眺めるように、リュカはぐるりと目を向けて探した。だが、見当たらない。一体ひとりで何処へ行ったのか。そのような事を思っていた時だ。

「ぐぇ」
「おいラウルよ、お前、それは止めろと言ったろうが」
「エレーヌ、ロベールに、似てきた」
「お前と付き合えば誰でもこうならざるを得んわ!全く、お前は自由すぎる」

 頭上から思いがけない声が降ってきて、リュカはビクリとする。同時に顔に鼻先を擦り付けていたラウルが止まり、疑問に思ったリュカが上を向けば、ラウルの胴体を越えてこちらを覗き込むエレーヌの姿が目に入った。彼は、ラウルの頭を手で上から押さえ付けているのだ。それに内心で驚きながら彼等の様子を眺める。
 この二人も、気付けば随分と仲良くなった。以前は、ラウルもロベール以外と連むような事は無かったし、エレーヌもジャンやアンリ以外と気軽に話をしている姿は見られなかった。
 それがいつしか変わったのは何が原因だったのか。リュカには分からない。カズマが来たせいも多少あるのだろうが、様々な事があって、皆もそれぞれ変わったのだろう。リュカがそうだったように。
 大変な事ばかりではあったが、同時に得られたものは数多く、今やそれは手放せそうにない。そんな事を思える日が来るなんて、とリュカは存外落ち着いた気分で思う。ルーカス=ライツだった頃はこんな事考えもしなかったのに。人は変わるものだと、リュカはしみじみ思ったのだった。

『俺はリュカを助ける。他を信じられなくても、俺がーー俺とエレーヌが居る』
『大魔術師としてルーカス=ライツを目標にしてここまでやって来たと言うのにーーお前がその本人だと知った私の気持ちを考えてもみろッ』

 そんな事を言われてしまったら、信じずには居られないではないか。信じたくなってしまうではないか。
 故にリュカは、彼等に身を任せる事にしたのだ。少なくとも、彼等の旅が終わるまでは。
 その後の事はまだ、リュカには分からない。けれども王国に帰るまでは、リュカは彼等に付いて行ってみようと思えたのだ。

「なんだ、起きてんじゃん」

 またしても突然声が聞こえてきて、リュカは振り返る。つい先程までは彼方の方に居たのに、いつの間にやら移動してきたのか、ノーマが目の前に座り込んでいた。

「もう平気?」
「ええ、まぁ」

 平気なのかどうなのか、リュカ自身にも良くは分からなかったが、曖昧に返事を返せば、ノーマは口を尖らせながら更に続けて言った。

「ベランジェもどっか行っちゃったしさぁ。……アンタも、行っちゃうんでしょ?」
「ええ……誘われて。ずっと彼方に居るかは分かりませんけれど。アナタは、どうするんです?」
「んー、……まぁ、クロードは多分、行っても帰ってくるだろうし。アマンダもエーゴンも居るし。あいつら居る内は、森の中で暮らそうかなって」

 珍しく真剣な顔をしながら言ったノーマに、リュカは素直に驚く。リュカの前では子供臭い言動も多い彼だが、ここぞというところでは案外きちんとしているのである。でなければ、アマンダやクロードからもきちんと頼られる筈がないのだから。
 リュカの前ではそのような言動を滅多にしない所為で、誤解を与えていただけなのだ。甘えられる人間にだけ見せるその態度が、リュカの知るノーマだった。

「そうですか。……アナタも、意外とちゃんと考えているんですね」
「意外ってのは余計!こん中では僕が一番生きてるんだから、アンタもいい加減子供扱いはやめろって事だよ」
「まぁ……それはそう、なんですかね」
「そうなの!」
「アナタが私の前できちんとした態度を取るのなら、それを認めてあげても良いですよ」
「ぐっ……」

 そのような二人のいつものやり取りに、横槍が入る事は無かった。ノーマもまた、リュカにとっては信用のできる人間の一人である事を、ラウルもエレーヌも承知しているのかもしれない。

「ま、それはそうと真面目な話、クロードよろしくね。一応、僕がずーっと面倒見てきてるんだから……何かあったら僕また何するか分かんないよ」
「!」

 突然ノーマからそのような事を言われて、リュカは今度こそ本気で驚く。塔の中ではそのような素振りを見せた事が無かったからこそ、衝撃は大きかった。
 思えば確かに、リュカが彼の腹に風穴を開けた時、彼は必死になって彼を庇っていた。珍しい事もあったものだと気にしては居なかったが、そのような裏があったとは。リュカはノーマを見直していた。

「ッその顔、絶対失礼な事考えてる!僕にだって色々あったんだから、それくらい当然でしょ……ずっと僕が親がわりだったんだからッ」

 珍しく顔を赤くしながら言ったノーマに、リュカは何やら心の中でもぞもぞとした気分を抱えた。自分に置いて行かれたあの時の少年が、自分以上にしっかりとした生き方をしている事に何とも言えない気分になるのだ。自分を置いて大人になってしまった事を寂しく思うかのような、嬉しく思うかのような。リュカは初めて感じるそのような感情に、気恥ずかしさを覚える。
 
「アナタは、行くつもりはないのですね」
「うん。……そうじゃないと、クロード帰ってくるとこ無くなるでしょ。ここの森、僕嫌いじゃないし、召喚契約した子達もバンバン出しても怒られない」
「……召喚については兎も角、アナタの事だからてっきりついて行きたがるのかと思っていました」
「そりゃあ……僕に何も無かったらそうしたかもしれないけど、今は見捨てられないものもできちゃったし。みんな居なくなったらまた、ついてくかもね」
「そうですか……クロードの事については、私が連れてきますよ。帰りもちゃんと」
「ん。アンタの事だから心配はしてない。その後はまぁ、クロードが自分で決めるでしょ」
「ええ」

 それからしばらく、二人の間には沈黙が流れた。そして、その沈黙が破られた時。リュカは思いがけず、言葉を失う事になったのだ。

「僕さぁ、多分、アンタの事好きなんだと思う」
「…………ん?」
「ッだからぁ、恋愛的な意味でね、一緒に居たいって思ってたんだよね。ずーっと前から」

 少しだけ照れ臭そうな表情でそう言ったノーマを、リュカは呆然と見つめる。

「…………」
「でも、アンタ全然気付かないし、多分僕の事なんて何とも思ってなさそうだし、ベランジェとは血の契約でずーっと繋がったままだし。……僕らの愛って重いから、ベランジェと三人で居たらきっと泥沼。ひっどい事になると思うんだよね。まぁ幸い、何百年も会ってなかったお陰で気持ちの整理とかついてるし、アンタもベランジェも別々に過ごすっていうから良かったけど。ね、この気持ちって実はアンタに初めて会った時からなんだけど、気付いてた?」

 余りの衝撃に固まっているリュカに、ノーマは問うた。
 だがリュカの答えは、ノーマの言うようにノーだった。やけにセクハラじみた行動をしてくるとは思っていたが、それは彼の貞操観念の低さに起因するものだと、そう思っていたのだ。だからリュカは、声も出せずにただ首を横に振る事しか出来なかった。

「だろうねぇ。アンタもそれどころじゃなかったろうしさ。……でもこれからは僕、どうしたいかちゃんと考えてみるから。もしずーっとそれが消えなかったら、その時は覚悟してよね。幸い僕達には時間がまだまだ、たーっぷりとあるから」

 ニッコリ、随分とスッキリしたような顔で笑ったノーマに、リュカはまるで眩しいものでも見るかのような気分になる。時間が止まってしまっていたのは自分だけで、後は皆、しっかりと前に進んでいたのだ。
 それを寂しく思うのと同時に、自分もちゃんと前に進まねばと、リュカは漠然とそんな感想を覚えた。ノーマは今も昔も、リュカにとっては大切なもののひとつに数えられるのだ。





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