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魔王



 彼は、暗闇の中で微睡んでいた。何も無い、無のまま、心地よく空間を彷徨っていた。今の彼には肉体は存在しない。寒さも暑さも、外気の温度すらも感じられない。ただただ、空中を浮遊していた。此処が何処かすらも、己が何なのかも分からぬまま、浮遊していた。ただ一つわかる事は、彼には成すべき事があるという、まだ消える訳にはいかないという、その意識だけ。そんな強い精神力で辛うじて己を維持しながら、彼は漂っていた。

 それがどれ程の期間続いたか。彼には判断が出来なかったが、ある時ふと、何かに引き寄せられるのを感じたのだ。真っ暗な闇の中でふわふわと漂いながら、彼は抗うことなく流れた。

 そして後、彼はハッキリとした声を聞いた。それは己に向けられたものだとハッキリと理解出来る位、不思議と彼の中にも響いてくる声だった。

『ーーエドヴァルド?』

 思念だか魔力だかに成り果てた彼に向かって、それは名前をハッキリと名を呼んだ。其処で彼は、初めて自覚する。自分はエドヴァルドという存在だったと。

 名前とはこの世界に於いて、力を与える一つの方法と見做されている。故にそれを自覚すれば、それ即ち実体を持つだけの力となる。塵や魔力でしかなかったそれに名前が与えられ、そして故に、それが実体を得る。例え存在自体が曖昧であっても、それは確かにカタチを得たのだ。

 エドヴァルドの名前を告げたその声は、彼とは違いハッキリとした自我を持ちながら、更に続けた。

『やはりお前だろう、エドヴァルド……私との約束を果たそうとした、優しき偽善者』

 彼は実体は得たものの、それ以外は何もわからなかった。考える力すら持たない、力を内包した唯の黒い物体だった。それでも、己を呼ぶその声が心地好いのは確かで。勇者だの魔王だの、彼等の約束だの、そういった事は覚えていない。だがそれでも、それは声の主の元へ行きたくて仕方がなかった。ふわふわと彷徨いながら、声の主を探す。

『もうひとつ、頼まれてくないだろうか。私に、お前の力をくれないだろうか。私は実体化するには弱り過ぎている。少しで良いのだ……直ぐにお前にも実体を与える程の力ならば取り戻せるーー頼む、もう一度だけ、頼まれてくれ……頼む』

 続けられた声は本当に哀しげで。意識すら、知能すら持てなかった筈の唯の力の塊は、それでも声の主の下へと向かった。何の思考も意識すらもない筈なのに、それはその声を止めたくて仕方なかった。だから、辿り着いたその時、ただの一片の躊躇もなく、それは全てを預けた。




 荒れ果てた廃墟のような魔王城の中。ただの力の塊でしかなかった其処で、変化はゆっくりと起こった。
 残された小さな塵の山から突然、手が空高く突き出された。人のようで、それでいて黒い爪の鋭く伸びた力強い手が、空を掴むように、天を掴むように。
 しばらくの間動きを確かめるかのように、手はビクビクと動いていたが、気付くと上へ上へどんどん伸びていった。始めは手首まで、それが肘まで、肩まで、そしてーー顔と胴体が現れていく。そして、全身が余す事なく現れるのは、それからすぐの事だった。

 その気配を察した魔王城はその日、大騒ぎであった。
 魔王様が復活したーーと。
 喧騒の中、涙ぐんだ魔人によって肩にマントを掛けられながら、俯く魔王は穏やかに優しい笑みで呟く。

「感謝する。ーーこれでお前は、私のモノだな。暫し眠ってくれ。次に会う時には、今度は私がお前に身体を与えてやろう」

 魔王の中へ取り込まれながらも確かに自我を持ったそれは、与えられる心地良さに抗い切れず、ゆっくりと力を抜いていく。

「ゆっくりと眠れ。お前の悪夢は、もう終わったんだーー」

 そんな子守唄を最後に、そこで一旦彼の意識は途切れる事となった。





* * *




「イェレ、人間共の様子はどうだ?」

 その男は、再び身体を取り戻して早々に、己の部屋で宰相の名を呼んだ。それから殆ど間を置かず、どこかの空間から別の男が降ってきた。背中程の黒髪を後ろに結い、黒いローブに包まれた男は、僅かにズレた眼鏡を右手で押し、左手に羊皮紙の束を携えている。キリリとした彼の雰囲気とは裏腹に、その目は薄ら赤く腫れ、何かを耐えるかのようにその口はギュッと真一文字に結ばれている。
 それを、ベッドの上で起き上がりながら目の端に捉え、男の口が少しだけ笑みを湛えた。そんな男の様子が少しだけ気怠そうなのは無理もない事だろう。つい今し方、その身体を取り戻したばかりなのだから。
 声を掛けたいのだろうに、宰相イェレは私情も何もかも挟む事なく、聞かれた事だけを端的に応えていった。彼がそうであるからこそ、冷徹な宰相と呼ばれるのだ。

「魔王様が復活なされた事には奴らも勘付いたようです。城へ入城しようと試みる間者が確認されました」
「対処は?」
「幻影により惑わせました」
「それでいい、我々も戦力を失いすぎた……。国力が回復されるまでは戦闘は出来るだけ回避し、魔人達の避難を最優先させろ。しばらくは引き続き、お前に任せる。ーー済まない」
「っ承知、致しました。…………魔王様」
「ん?」
「よくぞ、お戻りになりました。私含め皆、信じておりましたーーッ」

 魔王の話が途切れ、一息つこうとしたその時。とうとう堪え切れなかったイェレから、歓喜の言葉が溢れ出た。
 魔王が敗れるなど、どんなに信じられなかった事か。そして、その帰還をどんなに待ち望んだ事か。口にせずとも、涙を堪えて震えるその様子からありありと分かる。
 魔王はそれにただ、一言告げただけだった。

「我は今、戻ったぞーー」


 それからしばらく、その部屋からは誰の声も聞こえず、その代わりに堪えるような微かな息づかいだけが響いた。


 しばらくそうした後、再び訪れた沈黙を破ったのは、イェレの方だった。

「魔王様。実は……彼はーー勇者が……人間に処刑されました。魔人国家への侵略を止めた事で、国家反逆罪に問われたと……」
「ああ、知っている」
「なんと……ご存知だったとは、流石魔王様」
「私がこうしてこんなにも早く復活出来たのは、その勇者のお陰だ」
「んな……!?」
「処刑された勇者は、その力ーー魂とでも言うのか?と共に私の元へと流れ着いたのだ。すぐに、その力が勇者のものだと……エドヴァルドのものだと分かった」
「…………」
「呼び掛けに気付いたのか、アレが私の元へときたのだ。そしてアレが、私に力を与えた……偶然ではあるまい。アレは今、私の中で眠っている」
「なんとーー!」
「実体を与えるだけの余力が今は無い。だがーーすぐに、取り戻すさ。さすれば此奴は、最早私のものだ。誰にも渡さん」
「…………」
「もう二度と、人間の元へは返さん」

 そう言って、何処か嬉しそうに目を瞑った魔王の姿に、イェレは何とも言えない目を向ける。

 彼等魔人にとって、勇者は仇なのだ。勇者達には大勢の仲間を殺された。家族を、街を奪われた者だって居る。例えそれが、勇者にとって不本意な戦いだったとしても、逆らえず仕方なくやったと言われたとしても、とても割り切れるものではない。

 だがその反面、滅びの一歩手前まで追い詰められた彼等魔人達が、イェレ達がこうして生きて居られるのもまた勇者のお陰であるのだ。勇者の目的は魔王のみ、戦場で歯向かわなければ逃げても追うまいと、確かにそう言ったのは勇者だったのだ。イェレの複雑な気持ちは、とても言葉に表す事は出来ない。

 そうであっても。この戦いで最も苦しんだ筈の魔王が、勇者を受け入れているのだ。それ以上、イェレが魔王に対してかけられる言葉は無かった。


 イェレの去った寝室で、魔王ーーアレクシスは微睡みながらも考えていた。
 イェレ達の思いは知っている。多くの仲間を失い、哀しみに暮れながらも必死に生きてきた。そんな風に、そこまで自分たちを追い込んだのは、紛れも無い勇者の存在だ。彼が居たからこそ、彼等はここまで苦しい思いをした。勿論、アレクシスもそれは理解している。

 だが、理解して居るにも関わらず、アレクシスは勇者エドヴァルドを憎めなかった。世界の希望として向かわされ、個を殺し心を殺し、歯向かう者共を殺して魔王すらも殺し尽くしたそんな男が、どうしようもなく可哀想で仕方なかったのだ。あんなに苦しそうな顔で魔王に剣を突き立てたその姿はまるで、自分に剣を突き立てているかのようで。アレクシスはどうしてだか、その表情を忘れる事が出来なかった。





* * *




 彼はその時、肌に当たる感覚を覚えて意識が浮上していくのを自覚した。ふわふわとしていた心地好さがずっと続いていたような気がしたが、微睡から彼を引き離す者がいるのだ。それを少しだけ億劫に思うも、そうしなければならないと思う気持ちも確かにあった。

「エドヴァルド」

 柔らかい声に誘われるがまま、彼はそっと目を開けた。まず彼の目に映り込んできたのは、真っ黒な美しい長髪を垂らし、切長の目から真紅色を怪しく輝かせる美丈夫の顔だった。
 はてこの人は一体誰だったか。重くてぐるぐると回っていて、ロクに回らない頭を必死に働かせて、彼は何度も眼を瞬いた。こんなに美しい人間、一度見たら忘れる筈もない。見覚えはあるのだ。ただ思い出せないだけ。どうしても思い出さなければならない気がするのに、叶わない。それが少しだけ勿体無い気がして、彼は眉間に皺を寄せた。
 そんな彼の様子が可笑しいらしく、彼の目の前の人はフッと笑みを浮かべた。

「寝起きにそのような顔をするな。今迄肉体を失っていたのだ、無理もない。……私の事はゆっくり思い出せば……ーー否、思い出さなくても良いのだ……。無理だけは、するな」

 言われると同時に、彼の額には口付けが落とされた。突然の事に何をされたのか理解出来なくて、彼は衝動のままに口を開いた。

「おーー、ーーーー?」

 俺は一体どうなっているのか、そう問おうとした口からは、声が漏れる事はなかった。空気の吐き出されるような、そんなガラガラとした音が少し漏れただけだ。

「今言ったであろう。お前はつい先程まで肉体を失っていたのだ。肉体と魂との繋がりがまだ完全ではない」
「そーーー」

 そうか、と音にならない言葉を呟きながら、彼はゆっくりと力を抜く。今無理に動いても無駄であると、すぐに理解出来たのだ。一度死んでいるとは言え、元勇者だ。咄嗟の状況判断力は一般人のそれとは比べものにならない。

「ところでなんだが……お前の名はエドヴァルドだ。覚えているか?」

 彼は聞かれてふと考えてみる。だが今の彼には一切のーー生き返る前の記憶がない。己の名前すらも含めてまっさらな状態であるのだ。
 正直に頭を横に振ると、男はそうか、と少しだけ寂しそうな顔をした。彼がそれに疑問を思う間も無く、男からその気は消えてしまう。

「兎に角今は、何も考えずにゆっくり休むといい。お前は、良くやってくれた……我が恩人よ」

 そう言って、男は横になっている彼の額にそっと口付けを落とした。それを微睡んだ中で受け止めながら、彼は胸の内にギュッとした奇妙な感覚を覚える。その感情が一体何だったか、思い出しそうで思い出せなくて、彼は少しだけ勿体無い気分を味わった。
 そして男は、そんな彼を優しい手付きで撫でると、そっとその場を離れていったのだった。
 彼はそれを寂しく思うも、それを表に出す事はしなかった。離れはしたものの、変わらず心は暖かい。それだけで十分だと思えたのだ。


 男が部屋から出て行く様子をぼんやりと眺めながら、しかし彼はひとつ、気が付いてしまった。
 ドロドロとした汚らしい感情が、自分の奥底に眠っていることを。これは多分、絶対に消える事はないだろう。何もかも消してしまえ、破壊しろ、人間を殺せ、一人残らずと、そう囁く呻くような小さな声。
 何も思い出せないのにも関わらず、彼はそれが、自分の心からの叫びである事だけは理解できた。
 チリチリと焼け付くような胸の痛みは決して、消える事は無いのだろう。それだけは、確かに言えるのだった。





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