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02.彼は誰時



 ジョシュアはその日、夜も遅い時間に目を覚ました。起き上がってまず、自分の身体か酷い喉の乾きと目眩を訴えていることに気が付く。そして同時に考える。
 一体今は何刻で、自分はどれ程の間眠っていたのか、眠りにつくまで一体自分は何をしていたのか。何故こんなにも身体が不調を訴えているのか。不思議と理由も原因も、全く思い出せなかった。
 痛む頭に瞼を揉みながら思案するも、数日何も食べていないかのような飢餓感に、たちまち気分が悪くなった。ジョシュアは耐えきれず、周囲を見渡しながら探した。
 まず目に入ったのは、ベット脇のサイドテーブルに置かれた水差しとグラスだった。これ幸いと、彼はゆっくりとうつ伏せになりグラスに手を伸ばす。だが不運にも、すぐにくらりと目眩が彼を襲い体勢が崩れる。
 そのまま堪えきれず、彼は大きな音を立ててベット脇に転がり落ちてしまった。痛みと目眩と体勢と、三重苦に身動きひとつとれず、ジョシュアは誰もいない部屋でしばし悶えた。

「何をやってるんだお前は」

 ふと、部屋の入り口の方から聞こえた声に、ジョシュアは既知感を覚えた。だが妙な体勢で床に転がったため、腕が下敷きになり起き上がるどころかそちらを見ることすら叶わない。しばしもがいていたが、彼自身で抜け出す前に、その人物に襟首を摘まれ引っ張り起こされた。そのまま、まるで子供にするようにベットに座らされる。
 ここで既に、ハッキリとしない意識の中でもこれ以上の恥を晒す事もないだろう、とさえ思ったのだが。現実はそれ程甘くは無かった。かなりバツの悪い気分で、ベッド脇に立つ人物を見上げる。自分よりも大分背の高いであろうその人の顔を目にした所で。ジョシュアは絶句した。

「こんな美女にここまでさせるなぞ、貴様は大した男だ」

 情けない状況にあったジョシュア彼をつまみ上げたのはそう、女性だったのだ。それも、大層な美人である。今迄ジョシュアが見た事もない程の美女だった。
 その事実に面喰らいながら、ベットに腰掛けたまま彼女を見上げれば、彼はやはり既知感を覚えて困惑する。
 この女性とははて一体どこでどうやって知り合ったのだったか。記憶を探るように思い返そうとしても、ある時からプッツリと記憶が飛んでいる。この街に来て、ギルドで登録して買い物して、酒場で飲んだ事までは覚えている。
 だが、それ以降の記憶がなかった。何度も思い出そうと頭を捻るが、頭痛がどんどん酷くなるばかりで答えなど出て来そうに無い。起きてから続く、経験したことの無いような酷い目眩が、彼の思考を阻害した。耐え切れずに顔を顰め頭を片手で抱えれば、頭上から声が降ってきた。

「どうした、辛そうじゃないか?……仕方ない、この私がソイツをどうにかしてやろう」

 イヤに明るい彼女の声音に、ジョシュアは益々困惑する。この女性と自分が何故ここにいて、自分はなぜ彼女に介抱されているのか、いくら考えても理由が分からない。謎は益々深まっていくものの、酷くなる頭痛に考えることを放棄する。頭上から優し気にかけられる声にも、反応する事ができなかった。

 そして次の瞬間、彼の鼻腔を芳醇な香りが擽った。ジョシュアは全身の血が騒ぎ出すのを感じる。今までに感じたことの無い高揚感に、彼は混乱する。ゴクリと、音を立てて喉が鳴った。

「欲しいか?」

 声をかけられ、びくりとジョシュアの身体が揺れる。自然、息が荒くなった。その声に誘われるように見上げれば、女が怪しい笑顔を浮かべながら、その何かを、ジョシュアの目の前へと差し出してきた。

「本能に身を委ねろ」

 聞き心地の良い声に言われると同時に、目がソレに釘付けになる。ショットグラスに注がれた一杯の液体。部屋が暗く、それが何かはジョシュアには皆目見当もつかない。しかし、ジョシュアはそれが欲しくて堪らなかった。
 我慢ならずに、震える手で差し出された其れを受け取る。口許に近付ければ、一層強くなった香りにクラクラした。

「喰らえ」

 声に誘われるまま、グラスを仰ぐ。喉を潤すそれに、じわじわと身体が楽になっていく。満たされていく感覚に、彼は大きく息を吐き出した。途端に頭痛は瞬く間に引いてゆき、我慢出来ない程であった飢餓感が瞬く間に消えていく。一体、グラスの中身は何だったか。飲み干してしまってから、彼は少しだけ不安に駆られた。ジョシュアは漠然と、後戻り出来なくなったようなそんな気分になる。中身のなくなった空のグラスを、ぼうっと眺めた。

「満足したか?」

 問われ、三度女を見上げれば、相変わらず何か含みを持たせたような笑みで彼を見下ろしていた。男の様な格好をした、絶世の美女だった。

「え、ああ……これ、何なんだ?一気に身体が楽になった。……それに、アンタは一体何者だ?俺は、何故ここに……ここはどこだ?」

 多少回復した事でようやく頭が回り出し、疑問が次々と湧いて出る。頭を整理するつもりで、ジョシュアは疑問を次々と口にする。
 それと同時に部屋を見渡せば、そこはどこかの宿の一室のようだった。ジョシュアの質問に、女は変わらず緩い笑みを浮かべている。薄暗い部屋の中にも関わらず、弧を描く女の口元はやけにハッキリと目に映った。ジョシュアはゾクリと背を震わせた。

「すぐに分かるさ。それと、お前、どこまで覚えてる?」
「?どこまで……?」
「酒場に居たのは覚えてるか?私を追って来た事は?」
「酒場で、飲んだのは覚えているが……以降の記憶が……アンタを追ったって、俺、何かしたのか?」

 彼が不安気に聞けば、女はさも楽しそうに答えた。

「ふふ……そうだとも、お前はとんでも無いことをしでかしてくれた」

 そんな返答をされて、ジョシュアは酷く面喰らう。ジョシュアには彼女との記憶が一切なく、おまけにそんな事までを言われてしまって、ジョシュアは変な想像をしてしまう。女性にはとことん縁のない彼だったが、人並みの欲はある。まさかそんな、と嫌な想像に目が泳いだ。それを見て女が遊んでいるとも知らず。

「まぁ、やらかしてくれたには違いないが、恐らくはお前の想像するような事ではないだろうよ。ーーすぐに思い出すさ。後悔先に立たずなのは変わりないだろうがね」

 女の言葉も半分に、ジョシュアは一体何をやらかしたのだ、と次々に酷い想像をしてしまう。今までにも、とんでもない事態を引き起こしてしまった事もままあ。彼の事を想い慕った女性から逃げてしまった事とか、かのパーティに怪我を負わせてしまった事とか、すぐに思いつくものだけでも両手で数える程には出てきてしまって、ジョシュアは途端憂鬱になる。

「それはそうとーー、お前は今日から私の下僕だ。従え」
「…………え?」

 素っ頓狂な声が出たのはご愛嬌だろう。唐突な要求に、彼は二の句が告げかったのだ。何を言いだすかと思えば、会ったばかりの人間に、自分に従えと命令された。そういうプレイなのかと一瞬錯覚してしまう程には、彼は困惑していた。

 だがそのショック故にか、あの夜の出来事の記憶が少しずつ蘇って来ていた。この女はそう、彼が酒場で見かけた女であった。もう一人、町娘のような女性を連れていて、同じ酒場で飲んでいた自分は、それを少しばかり不審に思ったのだったーー。

「下僕というか従属というか……正確には、お前は私の眷属だ」
「は?」
「何を言っているんだと言う顔をしているな?だがお前、今し方飲んだろう?」

 言われた瞬間、ドクリと彼の心臓が嫌な音を立てた。
 思い出すのは、あの日の夜の事。ジョシュアの背後で交わされた、女たちの会話。殺すのも差し出すのも厭わない、町娘は熱に浮かされたような声音で、女にそう言っていて。人気の無い廃屋に入って行った2人、朦朧としたその町娘を、その危機から救い出したジョシュアは、彼女の為に女の前に立ち塞がったのだーー。

 カラカラになった口を、何度も喉を鳴らす事で口内を潤す。そうして捻り出した声はしかし酷く掠れていて、おまけに途切れ途切れだった。

「何、を?」
「血を」

 女の言葉を理解した途端、さあっと血の気が引くのを感じた。ジョシュアは、自分の手に持ったままのグラスに、目をやった。所々、赤黒く変色した滲みがこびりついている。今の彼ならば分かる。夜にも関わらずハッキリとよく見えるそれは、血液だった。

「ただ私の力を分け与えたとて、自らの意思により血を喰らわなければ永久に半端者。そして放っておけば野垂れ死ぬ運命だ。例え従僕とて、この私がそんな事を許してはおけん。
どんな手段を使っても、生き永らえさせる。記憶を消してでもだ。ハンターだったなら尚更、自ら血を飲むなど拒否するだろう?だから記憶を消した上でお前に選ばせた。上手くいったよ、お前は本能に任せ飢餓を潤す事を選んだ」

 血を飲む、眷属、そして、あの戦いぶり。そして何より、ジョシュアの殺されたであろう、あの一撃。ジョシュアの導き出した答えは、あの時と同じものだった。

「吸血鬼ーー」
「その通りだ。お前は生まれたての我が従僕だ。自ら血を喰らい、晴れて吸血鬼と化した」

 突然告げられた事実に呆然とするジョシュアは、女に見つめられ少しだけ倒錯的な気分になる。まるで、夢でも見ているようだった。

「働いてもらうぞ」

 突如女が近付いてきて、髪を掴まれ上を向かされれば、近付けてきた女の顔がよく見える。ニヤリと笑う女は酷く美しかった。細められたその目には、隠しようのない歓喜が浮かんでいる。怪しい雰囲気に呑まれ、彼は一言も、それこそ否定する事すら出来なかった。




* * *





「ほら、狩ってきなさい」

 女吸血鬼ーーミライアとジョシュアは、夜の街、彼らが泊まる宿屋の屋根の上に居た。
 宿の一室で真実を告げられた彼は、そのまま屋根まで引き摺られてきたのだった。宿は、二人が出会った街とは別の街にあるようで、夜も早い時間帯にも関わらず人通りは些か少ない。道を歩く数少ない人間たちを眺めながら、そんな言葉をかけたミライアに、ジョシュアは聞き返すように声を返した。

「狩るって……あえて聞くが、何を……?」
「何って、女に決まってるじゃないか」
「何故」
「何故って、分かりきった事を聞くでない、食事に決まっとろうが」

 頭では分かっていても、現実を認めたく無いあまり聞いてしまうのは人間のサガであろう。ジョシュアも例に漏れず、突然突き付けられた嘘のような現実に、頭が追い付いていなかった。

 そもそも、吸血鬼ーー滅んだとまで言われた最強の魔族の眷属にされたらしい事ですら実感が湧かないのに、自覚して早々、女を狩れと言われ躊躇するのは無理もない。人ひとりの命を彼が左右すると考えれば、抵抗は大きかった。
 そもそもジョシュアはハンターだったのだ。こういう人間を付け狙う魔族や魔獣から人間を守るのもハンターの役目だったはず。遠回しながらも、それを拒否しないはずがなかった。

「……俺は、女にモテない。そもそもハンターなんだ、人を襲うなんて素直に承伏できるわけ無いだろ」

 不服そうに言って見せれば、ミライアはきょとんとしながら首を傾げた。

「何言ってる、女を誘うなら男の方が都合がいい。異性の方が魅了にかかりやすいからな。ーーそれと、一応言っておくぞ、お前はもう死んだ事になっているはず。ハンターも死ねば形無し、只の屍人だろうが」
「は……!?」

 ミライアの告げた言葉に、ジョシュアは思わず声を漏らした。そして更に悪い事に、その後に続いたミライアの発言でとんでもない事に気付いてしまったのだ。

「あの女の子、ギルドに駆け込んだんだろう?記憶消去する暇もなかった。あれから何日経ったと思っている。連絡もなし、街に姿もない。ハンターという職柄上、返り討ちに遭って死んだと思われているだろうに」
「あーー、あれから、何日経ったんだ?」
「1ヶ月程か?」
「そんなに……」

 ジョシュアは呆然とする。確かにあの時は必死で、あの女性を助けることしか考えて居なかったが。こうして息をしているのに死人扱い、というのも妙な気分であった。
 あの時は死ぬ覚悟でこの吸血鬼女と対峙したが、どうしてか魔族にされてまで生かされている。途方に暮れそうになる。人間でもハンターでもない、血を喰らう全く違う生き物として生きねばならないのだから尚のこと。

「そりゃな、お前は一度死んだも同じだ。私に本気で喰われたのだ。再生に時間がかかったんだろう。ま、自ら人間の血を飲めば一発だがーーああ、それと一つ言っておくが、我らは死人も同然だ。どんな傷を負えど私が生きてる限り、心臓さえ守り抜けば滅びることはない。腕や脚、頭をがれてもその内再生する。夜にしか我らは活動できないがな。概ね噂通りよ」
「…………そう、か」

 頭をボソボソ掻きながら、ジョシュアが搾り出せた返答はそれだけであった。聞きたい事は山ほどあるはずなのだが、肝心な時にジョシュアの頭は全く役に立たない。てんでポンコツ。とことん、本番に弱い。けれども何とか、最低限にジョシュアは考える。
 ミライアの命令ならば、恐らく彼女の眷属らしいジョシュアは抵抗出来ないはずだ。魔力を持って命令されれば、彼は従わざるを得ない。そして、自分の意思で死ぬことも許されない。元々は、こういう魔族や魔獣から人間を守りながら生計を立てていたのだ。そんな彼が、今や逆に人間を襲う側。真逆の立場だ。どうして良いか分からなくなる。
 そんな、迷子のような表情になったジョシュアを見て、女は思い出したように言った。

「おい、別に狩った人間全てを殺すわけじゃないぞ。少しだけ頂戴するだけだ」
「……そうなのか?」
「そりゃそうだろうよ。別に人間一体分丸々飲む必要無かろう。そんなに食べ切れんよ」
「そういうものなのか」
「人間どもの我々に対する認識も妙なもんだ。エサにした人間全員殺してたら人間も我々も滅んでしまうよ」

 誤解が解けた事でジョシュアはほんの僅かに気分が軽くはなる。別に殺す必要が無ければ、元人間の彼でも抵抗感は多少は薄れる。薄れるだけではあるが。

「と、言うわけで狩ってこい下僕。初めてのおつかいだ」
「人攫いのやり方なんか知らない。それは人間からすれば犯罪だ」
「つべこべ言わず、背後から襲って催眠でもかけてこい。堅いヤツだな。目を見つめて眠れと魔力で念じればいいんだよ。お前の魔力も少しはマシになってんだろ」
「催眠で人攫い……ストーカー……」

 ハンターの仕事には犯罪者の捕縛等を依頼される事もある。ジョシュアも何度かそれに関わった覚えがあった。それが故に渋るジョシュアに、ミライアは大きく溜息を吐いた。一々相手にするのも面倒になったのであろうか、少しばかり口調が刺々しい。

「別に私はお前にきちんと、命令しても構わないんだからな?ちゃんと意識のある状態でやらかした方が、お前も良いだろうが」
「そんな事ができるのか……」
「私の眷属だと言ったろうが、その気になれば私はお前を好いように動かせる。ーーそうならない内に動いておいた方が身の為だぞ」

 立ち竦むジョシュアを、ミライアは腕を組み仁王立ちして見下ろしている。彼女はジョシュアよりも頭ひとつ分程背が高い。そんなミライアが、苛々と威嚇するような口調で話すのだ。威圧感もある。
 そしてジョシュアは再認識する事になる。ジョシュアはこの吸血鬼に殺されたのだと。それで従わされているのだと。ミライアは好きな時にいつでも、ジョシュアをねじ伏せる事が出来る。それをしないのは、ジョシュアの意思を尊重する気があるから。それを思えば、自分の我ばかり通す訳にもいくまいと気付いた。もうジョシュアは人では無いのだ。ミライアの眷属になったのだから。

「……分かった。失敗しても、文句言うなよ」
「そうだ、それでいい。攫って来いストーカー」
「嫌がらせか」
「成功したら撤回してやるぞストーカー」

 忌々しげに主人を見遣ってから、ジョシュアは屋根の上から音もなく飛び降りた。
 本人にはその自覚こそ無かったが、その動きはもはや人間の為せるものでは無い。音もなく気配もなく闇に溶ける。元々その手の動きは得意ではあったのだが、ジョシュアはまるで初めからそれが使えたかのように、吸血鬼の能力を惜しみ無く使用している。

 ミライアはその一部始終を見てニヤリと嗤い、屋根上から監視するのだった。
 真っ暗な夜闇に紛れ、その日もまた、人を喰らう化け物が跋扈する。





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