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01.大禍時



  彼がソレに出会ってしまったのは、偶然と運命の気紛れに過ぎなかった。

「走れ!前だけ見て走れ!振り返るな!」

 前を駆ける女性と自分すらも叱咤しながら、ジョシュアは駆けていた。背後からゾワゾワと駆け上がってくる恐怖に脚が竦むよう。しかし、足踏みする暇もなければ振り返る暇もなかった。少しでも遅れれば死ぬ。そんな想像が出来てしまう程、ジョシュアは追い詰められていた。手を出すんじゃあなかった、そう思えど後の木阿弥。
 まさか、こんな平和で大きな街の郊外に《あんなの》がいるなんて、なんて物騒な世の中だと世界に文句を言いたくなる。だが、どんなに足掻いても叫んでも愚痴っても、結果は変わらなかった。
 背後からじわじわと己を追い詰めてくる気配に、ジョシュアはぶるりと身体を震わすのだったーー




* * *




 彼の立ち寄ったその街は、国の北部の中でも一番に栄えた街だった。中心街ともなれば、どこを見ても賑やかで、人通りの絶えない豊かなところ。そんな街を拠点にすれば、ある程度国の状況も分かるし、何より依頼に困ることは無い。あまり難易度の高くない、彼にうってつけの依頼も豊富に用意されている。

 それを確認して、ジョシュアはしばらくここに厄介になろうか、と人混みに辟易としながらもそんな事を考えていた。この人の多ささえなければと思うのだったが、人が多くなければ依頼は集まらない。彼の葛藤は押して図るべし。

 街に着いたその足で、ジョシュアは街のハンターギルドへと向かった。依頼を受けるにしろ、討伐を依頼するにしろ、あらゆる街に設置され、あらゆる情報が集まるギルドはハンターにとって欠かせないものだった。
 ジョシュアは外から来たハンターであるが、そう言った場合、各街のハンターギルドには滞在を登録する事が義務付けられている。故に街は、滞在中のハンターを把握する事も出来るし、街を訪れるハンターのサポートを的確に行う事も出来る。実に合理的なシステムである。

「ジョシュア様ですね。滞在はどの位ご予定されていますか?」

 案内表示に従い登録受付に願い出れば、にこにことした印象の良い受付嬢が彼を迎えた。ジョシュアが何年もハンター生活をしていた田舎町とは違い、広くしっかりとした作りのこの街ハンターギルドは大いに賑わっていた。彼の見たところざっと30人ほどのハンターが思い思いに過ごしていた。登録待ちの者、依頼掲示板に目を通す者、誰かを探す者、受付に馴れ馴れしく話しかける者、様々な人相の、そして様々な格好の人間で賑わう。
 元々はひと月程滞在の予定だったが、気が変わってもう少し居るかもしれない、ジョシュアは登録を待ちながらそんな事を思った。田舎ばかりで過ごしていた彼には、煩くともしかし魅力的な街でもあった。

「では、登録完了いたしましたので、ご案内いたします。滞在中に優先的にご利用頂ける宿のリストとこの街の注意事項、治安についてが記載されておりますのでご確認の上依頼をお受けください。尚、ジョシュア様は【C】ランクでいらっしゃいますので、【C】ランク以上の優先依頼受付が可能です。上位依頼に関しては、パーティ登録の上受注ください。では、良い滞在を」

 ハキハキと説明をした彼女に礼を言い、彼は早速貰った羊皮紙に目を通しながら依頼掲示板に向かう。今日は様子見と決めてはいたものの、依頼の内容は気になっていた。討伐ものは出来る限り避けたい彼にとって、収集依頼がどれほどあるものかと期待は膨らんでいた。他のハンターに混じり、自ランク程度のものを探す。お目当ては余り数はなく、パーティ優先依頼が多く目についた。
 ハンターにとっては、パーティを組むのは当然と思われている節があった。ジョシュアも覚悟していた事であったが、実力のないソロハンターは肩身が狭い。掲示板でそれをまざまざと目にして、少しだけ悲しくなった。

「君、ソロでやってるのかい?」

 そんな気分でジョシュアが掲示板じっくりと眺めていると、不意に横から声がかかった。顔を向けると、茶髪の青年が隣にいた。彼よりも少しだけ背の低い、若い男だった。背に背負うのは長剣で、纏う装備からも剣士である事が見て取れる。そんな青年に、ジョシュアは少しだけ違和感を感じていた。そうだが、と青年の質問に応えながら、はて一体何だろうかと思案する。しかし、ジョシュアがその答えを見つける前に、その理由はすぐに明かされる事になる。

「俺、まだいないんだ。実は数日前に登録したばかりで……良かったら、慣れるまで一緒に組んでくれないかな?」

 そこでジョシュアは合点する。新品、とはいかないまでも磨き上げられた綺麗な皮の装備に傷は殆ど見られない。そんな装備に、かの青年は着られている。駆け出しのハンターにありがちな、違和感だ。

「生憎と俺は誰とも組むつもりはないんだが……なら、代わりにーー」

 かつて自分がそうされたように、ジョシュアは手頃なパーティメンバー募集中の貼り紙をピックアップしてやる。

「この辺ならおかしなのはないだろう。念の為、受付ではきちんと情報を貰え。変なパーティ募集には応募しないよう注意してもらえる。自分の判断で接触するなよ」
「!あ、ありがとうございます。あの、お兄さん、一人のようだったので一緒にどこかのパーティで組めたらなと、思って声をかけたんだけど……」
「俺か……俺に団体行動は無理だ。組んだとして、戦闘は苦手だし……しばらくパーティは組まないと決めている。俺は良いから早速行動しろ。良いパーティはすぐに応募があるから、無くなるぞ」

 言いながら、ジョシュアはパーティ募集貼紙を青年に押し付けてやる。こういった手合いは、多少強引に話を進めないとズルズル引き摺られる可能性が高い。ジョシュアの長年の経験による賜物だ。

「そ、うなんだ……残念」

顔が暗くて怖いだの弱いだの、散々避けられた過去からすれば素晴らしい進歩だなぁと、ジョシュアはぼんやりと思ったのだった。

 ギルドを後にしたジョシュアは、街中を見て回る事にした。このような大都市に出てくるのは久々のことで、装備や日用品など、どういったものが売られているのか興味はあった。なにせ、片田舎に卸される品物などたかが知れていて、流行の物などはそもそも入ってこない。決まった品物が定期的に仕入れられるに過ぎない。偶々物珍しいものも入ってくるが、高値で、しかも瞬く間に品切れとなるのだから一般人の目に入ることはまずない。
 と、そんな事情もあったので、立ち並ぶ武器店をジョシュアは一軒ずつ見て回った。その内、目に入ったもので気になった武器を物色し、この際だからと新調する事にした。珍しい電気の付加効果を備えたボウイナイフを一本、そしてそれに対応するグローブを揃えた。

 そんな風にフラフラと街を回れば、日が暮れるのはあっという間だった。さて宿をとろう、とジョシュアは、その場から最も近くに位置していた所を選んだ。一先ず3日ほどを纏めて支払えば、受付のふくよかな女性は人の良さそうな笑みを浮かべ、部屋のキーを彼に渡した。部屋に抱えていた荷物を置き、ジョシュアはそこでようやく一息つく事ができた。長らく野宿生活も続いた事もあり、ゆっくり眠る事ができる事にホッとしていた。
 食事はどうしようかと思案し、結局情報収集も兼ねて酒場に繰り出す事にした。
 店では、適当な酒とつまみとを注文し、端の目立たない席でちびちびと飲む。店のあちこちで様々な話が飛び交っていた。

「ーー隣国の女王がこの国に来て視察してーー」
「最近、巷で行方不明になる奴らが増えてーー」
「ーーのギルドで、とんでもないハンターが現れて、S級のモンスターが倒されてーー」
「幻の魔族の目撃情報がーー、ーーもし出会いでもしたらーー」

 有益そうな情報に耳を傾けていれば、あっという間に頼んだエールがカラになる。もう一杯、と食事と共に注文したところでふと、女性の二人組が彼の目に入った。酒場の隅で、やけに楽しそうにクスクスと語り合っている。このような物騒な場所で随分と珍しいなと、ジョシュアは何ともなしに目を惹かれる。
 一人は、肩につく程の茶色の髪をした小柄な女性。お淑やかな柔らかい表情で、白いシャツに紺色のワンピースを着、もうひとりの話を楽しそうに聞いている。
 そのもう一人は、黒いウェーブがかった長い黒髪で、男勝りな格好をしている。白いシャツに黒いピッタリとしたズボン、そして膝下丈のブーツを履き、苔色のフードローブを肩に掛けている。足を組んで豪快に酒を飲む様子からも一層、その男勝りな様子がうかがえる。しかし、何処と無く表情に色気があり、その女性が何故だかジョシュアの気にかかった。
 女二人で夜の酒場、面倒事にならなければ良いけれど、と彼は興味を無くして再び噂話に耳を傾け始めたのだった。新入りだと目敏く気付いた者が、親切にもジョシュアに声をかけるなどしたが、また後日、などと適当にあしらい、ジョシュアは適当な所で店を後にする事にした。

 ほろ酔い気分でのんびりと宿への道すがら、仄暗い空を見上げ街道を歩いていく。ここまで大きな街であっても、早い時間から殆どの店は閉まってしまう。昼と夜の境目、大禍時、ーー或いは逢魔が時とも云われるこの時間帯には、ヒトの理から外れた者達の跋扈すると伝えられている。人通りは殆ど無い。
 そこでふと、女性のものらしき声が彼の耳に入って来た。ふいと振り向けば、先ほどの女二人組が街道を歩いているのであった。黒髪の女性が予想以上に背が高いだろうことに少しだけ面食らう。下手をすれば、ジョシュアの身長よりも上かもしれない。勝手に敗北感を感じながらも、何処かの軍にでも所属しているのだろうかと彼は漠然と思った。だからこそ、この時間帯でも出歩けるのであろうと。それにしても、女性だけで外を彷徨くなんて大丈夫だろうか、そんな彼の心配を余所に、彼女らは相変わらず姦しくも楽しそうだった。

 少しの興味本位と心配とで、彼はペースを落として宿までの道をゆっくりとした足取りで歩く。こんな時間帯に出歩くなんて、一体二人はどんな事を話しているのかと、彼はほんの少しの下心で少しだけ耳を澄ませた。
 会話は、茶髪の小柄な女性がほとんど話しているようだった。

「ーーミラーカさんは大変面白いですね、色んなお話を聞かせていただいて嬉しく思いますわ」
「そうかい?」
「あなたは一体、どういった方なのでしょう……私、どうしても、知りたいのです。……貴女のような素晴らしい方の事を、知らずにはいられないーー」
「そんなに?」
「ええ……どうしても、知りたいのです……でないと……今夜は、眠れませんわ……。私、何だって出来ますのよ……貴方が望めば何だって、死ぬのも厭わないの、その辺の人を攫う事だってできるの。……だって、貴女は普通の人ではないものーー」

 会話を聞いている内に、彼はその異常性にすぐに気がついた。当然彼女らの表情なんて見えるはずも無いのだが、話しかける女性の声音が、何処かおかしい。上の空のような、熱に浮かされたような、正気では無い事は確かだった。物騒な言葉も飛び出してきて、ジョシュアは思わずギョッとする。
 こんな街中でなんて会話をしているんだと。彼のほろ酔い気分は、あっという間に吹き飛んでしまった。怪しい女性の二人組、一体何の目的でこんな時間帯に街へ繰り出してきたのか。それを考えると、背筋の凍るような思いだった。
 ジョシュアは思案した。長身の黒髪の方は、軍属と言われても不思議ではない。ならば、魔法の類いを扱えそうでもある。一方の茶髪の方の女性は、どう見ても街の娘のようだ。荒ごとに明るいとは如何しても思えない。だのに、こんな時間に出歩くなんて。
 とすれば、黒髪の方が、茶髪の女性に何やら命令していると考えれば辻褄が合う。この後の事を想像して、彼は身震いした。一体、あの長身黒髪の女は何を企んでいるのだろうかと。

 ジョシュアは、酔ったフリをしながら一度、宿の中へと入った。武器を手にするためだ。気配を断ちながら急ぎ部屋に戻り、ナイフを数本手して、部屋の窓から彼女らの様子を伺った。まだ、彼女らは窓より見える位置にいる。それを確認し、ジョシュアは宿の裏口から再び外へ出た。
 すぐに家の壁を素早く登り屋根へ出ると、彼女らの声を頼りに追いかけた。彼の唯一得意な探知魔法により、気付かれないよう、見られないよう、細心の注意を払い付かず離れず追いかける。追っていくうちに、段々と状況が悪い方に進んでいる事を察してしまう。既に繁華街を抜け、彼女らは街の北の外れまで来てしまっていた。

 この先にあるのはポツリポツリと住宅が数軒。更に進めば、人の住まなくなってしまった廃屋が一軒と、そしてその先は街の外へ続く街道へと続く。しかし、街の周りには囲うように壁が張り巡らされており、今の時間は軽々しく外へ出ることは出来ない。ならばその目的は何か。
 彼は小さく舌打ちを打った。ギルドに戻り助けを呼ぶかと、彼はそんな事も考えもしたが、相手がどういうつもりで女性を連れ出したか判らず、判断をし兼ねていた。ギルドからそれ相応に距離が離れてしまっている以上、戻っている間に茶髪の女性の方に何かあれば、彼のこの行動は徒労に終わる。
 それに、目的も二人の関係もわからないままの今、ギルドに持ち込むような仕事なんだろうかと、彼は躊躇していた。本当に、酔った女性を送り届けるだけかも知れない。最後の最後まで、望みを捨てたくなかった。

結局、彼は決断を下す事ができず、そのまま彼女らを尾行する選択肢を選んだ。それから5分程経っただろうか。彼は二人に動きがあった事を察知する。彼から離れていく気配がした。この道は一本道だ。例の廃屋へ入ったのだろうと、彼にも容易に想像ができる。嫌な予感がすると思いつつ追えば、ギィギィと嫌な音を立てて扉の閉まる音が彼の耳にも届いた。
 彼の僅かな魔力を使い気配を完全に断つと、そのまま玄関へは向かわず、家の側面へと向かった。慎重に近づき、半分以上割れている窓を見つけて中の様子を伺う。窓より1メートル程離れた位置に、件の女性達は居た。幸い、黒髪の女は後ろを向いており、僅かに顔の左側の輪郭が見えるだけだった。女は、茶髪の女性に何事かを小声で囁いているようだった。声までは今の彼には聞き取れない。しかし、それを聞いている茶髪の彼女の方は、どこか恍惚として上の空、明らかに普通ではない。ジョシュアはゾッとした。

 そして次の瞬間、女は一頻り笑ったかと思うと。牙を剥き出しに女性の喉元に喰らい付こうとしたのだ!嫌な予感が当たってしまったと、彼は腹を括った。
 ありったけの魔力を引っ張り出し、脚力や様々な筋肉を強化して窓を破りながら侵入する。気付いた女は、目を剥いたが、ジョシュアは止まらなかった。手に持っていたナイフで女の首を狙う。しかし、相手は相当の手練れらしい。この距離、背後からの不意打ちを見事に避けてみせたのだ。
 この瞬間、彼は悟ってしまった。これだけ、力もスピードも最大限に強化して、不意をついたにも関わらず仕留められなかったのならば則ち。彼とこの女との間には埋められない実力差がある。
 自分は死ぬのか、ジョシュアはそんな事を思いながらしかし、他人事のようにそれを受け入れていた。ならばせめてこの女性だけでも助けねば、彼は自覚している以上にお人好しであった。予め用意しておいた煙幕を叩きつけ、女が怯んでいる間に、彼は女性を抱えて廃屋の外へと無事に脱出を果たした。

「ーーえ……あ?私一体……ここは?」
「怪我、ないか?」

 自分の腕の中で混乱する女性に声をかけながら、彼はしばし全力でその場を離れる。いつ追い付かれるか、そもそも逃げられるかすら分からないからだ。

「え、ええ、大丈夫みたいです……私、何故、こんな所にーー?」
「覚えていないのか?あの女、ミラーカだったか?あんたを、食おうとしてた……それより、走れそうか?このままだとあの女に追い付かれる」
「え……そんなーー嘘、あのヒトが私を……」
「信じられないかも知れないがすぐわかる。アレはヒトですらない。魔族か何かかーー?」
「っそんなーー!」

 それから少しだけ走り会話を促し、女性の意識がハッキリしてきた事を確認してやっと、ジョシュアは一瞬だけ立ち止まり彼女を下ろす。だがすぐに手を引き、全力で走るように促す。そんな次の瞬間には。

「この私から逃げるつもりか?」

 背後から、響くような声がした。女は最早、そのオーラも威嚇も、隠す気もないようだった。周囲に漂い始めた重苦しい威圧感は全て、女から発せられたもの。女の魔力によるものだろう、ビシビシと肌を刺す空気がジョシュアの勇気を尽く捻り潰していく。
 彼は舌打ちを打った。この場からどうにかして逃げ仰せたいが、どうやったって、逃げ切れる想像なんて出来やしなかった。しかしそれでも、諦めるわけにいかなかったのは、前を走る女性のためか。ジョシュアは必死に走った。前を走る女性を庇いながら、迫り来る恐怖に目を細める。再度捕まればきっと命はない、そう思えてしまった。

「全く……敵わないことを知りながら私から獲物を奪い去るとは、命知らずも居たものだ」

 ギラギラと光る、真紅の瞳を細めながら悠々と追ってくる女。纏うオーラは普通のモンスター、魔族、どれとも比較し難かった。

「走れ、前だけ見て走るんだ!振り返るな!」

 女は、一定の距離を保ちながら、ジョシュア達を追って来ていた。急ぐ事無く、しかし逃さぬように真っ直ぐ、他の何にも目を向けること無く、追って来ていた。
 ジョシュアはギルドまでの道のりを考えながら舌打ちを打った。ここのような中小都市ともなれば、街の外れからギルドまでは、走っても十分はかかる。そこまで追い付かれず逃げ切る事ができるだろうか。
 そもそも、人の多い街の中までこんな得体の知れない魔族を引き連れ逃げ帰るのもどうかと思う。選択肢はどう足掻いても一つではないか。狙われているのは誰でも無い、彼女なのだから。
 女とこの女性を出来る限り引き離す。それすらも、上手くいくかどうかも分からぬ賭けであったが、やらぬ訳にはいくまい。さもなくばこの女性と共倒れ。ジョシュアが助けた意味もなくなる。それだけはどうにか避けたかった。

「おい、あの女を引き止める、貴女は近くのハンターギルドに駆け込め。ありのまま報告してくれ」
「っ、でも貴方は……」
「俺はハンターだ、アンタよりは助かる確率は高い」
「お名前は?……せめて、教えてください」
「……助かったら教えよう」
「っ分かりました」
「行ってくれ、振り返るな、駆け抜けてくれ。もしかしたら、間に合うかもしれない」
「ありがとう、御座いますーーまた、必ずお会いしましょうね?」

 運が良ければ、また生きて会えるかも知れない。全く思っていない事を自身に言い聞かせながら、彼は覚悟を決め、背後に迫り来る恐怖に対峙すべく咄嗟にブレーキをかける。ナイフを女目掛けて投げれば、軽々と避けて見せた。だが、足は止まった。女性が走り去る足音を耳に精一杯構えた。せめて、彼女がギルドに駆け込むだけの距離と時間を稼げればと。

「危ないな。ああ成る程、足止めか……一分も保つのか?お前程度で?」
「一般人を巻き込む訳にはいかない」
「巻き込む?首を突っ込んできたのはお前の方だろうが。せっかく苦労して取り入った獲物を逃すなんて……」

 はぁ、と態とらしく溜息を吐く女の姿は、何処からどう見てもヒトのそれであった。ジョシュアよりも10cmは背が高いだろうか。それでも、見た目だけは麗しく妖艶であった。
 腰まであるウェーブの黒髪が、月明かりに照らされた白い肌に映える。切れ長の目に鈍く光る紅い虹彩は、なんとも怪しい雰囲気を醸し出す。
 店で見た時とは違う、女の異様な雰囲気がジョシュアに残酷な事実を突き付ける。勝てない。どう考えても殺される。それでも、どうにもできない事をどうにかできないかと考えてしまう。でも、それもすぐに無駄だと思い直してしまった。
 ジョシュアは察してしまった。小手先の技術でどうこうできる相手ではないのだ。
 魔族のーーそれも恐らく高位だろう女。そうなれば、凡庸な技術しか持ち得ないジョシュアが相手になるはずもない。無駄に経験だけはある、戦闘の苦手なハンターなど。本当は今すぐにでも逃げ出したい。逃げ出して、これから始まる新しい生活を楽しみに生きたい。だがきっともう、そんな生活など戻っては来ない。
 だからこそジョシュアは、それならばと最期くらいは格好付けたかった。

「お前、随分と肝が座ってるな。私を見た人間は、ハンターすら逃げ出すんだがね」
「逃げられる相手とそうじゃない相手くらい見分けがつく。逃げられるなら脇目もふらずにとっくに逃げている。……でなきゃ長年ハンターなんてやれていない」

 出来るだけ会話を引き延ばせればと、無駄に足掻いてみる。女は、先程までは少女とあれだけ楽しそうに長々と会話をしていたのだ。少し位は付き合ってくれるかも知れない。それに、上手くいけばあの女性がギルドに駆け込み助けが来て、自分も命は助かるかも知れない。話下手なジョシュアがだ。藁にもすがる思いで、必死に口を動かした。

「ん?お前、若そうに見えてそうでもないのか?歳はいくつだ」
「……35」
「ほう……その年齢は人間からすれば若いのか?どうなんだ?」
「えっ……いや、……別に若くは、ないだろう」
「ほう?ならばお前は何故続けている。もっと楽に生きていけるだろうに」
「何故と言われても……俺に出来るのなんて、これしかないし……生活の一部だからか」
「成る程成る程。だが、お前は、この私に出会ってなお、そのハンターだのを続けるのか?」
「まぁ……生きていければ、何でもいい。アンタが逃してくれればの話だが」
「それもそうか」

 上手く会話に繋げたことに、ジョシュアは一瞬呆けてしまう。命の危機だと言うのに、一体自分は魔族相手に何の話をしているのだろうかと訳が分からなくなる。先ほどまでは、あっという間に首を掻き切られるような、そんな危機感を感じていたというのに。僅かだが、緊張感が緩む。しかし、そう上手くいくほど、現実は甘くはない。

「だが……小動物とは言え、この私が逃すわけなかろう?」
「ッ!」

 ニヤリと笑う女に、ジョシュアは息を呑んだ。瞬く間に周囲が女のオーラに包まれる。魔術に疎い彼にも分かる程の膨大な魔力。同時に、周囲には何やら結界が張られたのが分かった。これでもう、ジョシュアと女を邪魔できる者などいない。騒ぎに気付いて駆け付けてくる者も居ない。一気に、突き付けられた現実へと引き戻されたような気がしていた。

「折角見つけたご馳走の邪魔をしてくれたのだ、私が満足するまで付き合ってもらう。妙齢の処女なぞ早々居ないのだぞ?彼処まで連れて来るのに、どれだけ時間をかけたと思っているのだ。せっかく何度も味わおうと……」

 態とらしく大きく溜息を吐く女に、ジョシュアは気付いてしまう。処女の女性をご馳走と呼ぶ魔族、鋭く伸びた牙、首筋に噛み付こうとしていたあの刹那。嫌でも気付いてしまう。女の正体にジョシュアは戦慄した。

「……アンタ、吸血鬼か」
「如何にも」
「最高位魔族……滅んだはずじゃーー」

 ハンターの界隈では有名な話だった。何十年も前に滅んだと言われた魔族の一族。太陽こそ嫌うが、全てにおいて人間を凌駕する。吸血鬼に出会ったが最期、生存確率は僅か1%。例え、人類最強とまで謳われる【S】ランクのハンターが束になって挑んだとて、生還できるのはほんの一握りだという。退治など以ての外、出会ったらすぐに逃げろと教わるほど。
 そんなツワモノ達はどういうわけか、30年程前からパッタリと噂を聞かなくなったという。一説には内乱が起こったらしいと言う話は彼も聞いていたが、実際どうだったかは彼の知るところではない。そんな事情もあり、その生態はほとんど知られていない。分かっているのは、彼らは闇に紛れ暗殺者のように音もなく忍び寄り、ヒトの生き血を啜る事くらい。だのに。ジョシュアの前にいる女は、ソレだと言う。

「滅んだのではない、私達の為に滅したのだ」
「!」
「秘密を知られたな。これで、お前をタダで帰す訳にもいかなくなったーー付き合ってもらうぞ」
「っ!」

 楽しそうに微笑む女の何と美しい事か。ジョシュアは恐怖した。今にも襲いかかって来そうな気配に、思わず彼の足が竦む。ジリジリと、逃げを打ちそうな足に力を込め、汗の滲む右手のナイフを握りしめる。秘密とは一体何だろうか、そんなことを頭の片隅に追いやりながら必死で生き抜く方法を考える。

 ナイフを投げる?
 しかし、投擲用の物は手に持つ一本と、そして残りは彼の脚に巻きついたポーチの中。彼の戦闘スタイルはナイフを使うため、おいそれと無駄にする訳にもいかない。そもそも、投げた後に攻撃された場合、それを防げる得物の準備が間に合うかどうか。
 魔術で女の行動を止める?
 彼に魔術合戦が出来るだけの技術はない。一番苦手とする攻撃がそれなのだから。一度防がれれば再発動まで時間がかかるし、上手くかけられたとて、備わった魔力量は雲泥の差。あっという間に押し切られる。
 逃げを打つ?
 あの伝説の吸血鬼相手に、脚で勝てるはずがなかった。数メートルも進まないうちに捕まって八つ裂きだろう。想像するも容易い。
 ならば、彼に残された手段は、人を見くびっている女の油断を誘い堂々と突っ込むだけ。例え負けると分かっていようとも、彼は必死で生にしがみ付くしかないのだ。

 生きて、あの少女にどこかで再会するという未来が、全く思い描けない。そう、彼はごちる。どう転んでも、ジョシュアには獲物にされるような未来しか想像できなかった。やるもやらぬも結果は同じ、ならば相手の油断を誘いつつ時間を稼ぐ事。それが唯一、彼の出来る事であり、助かる為の路であった。


 刹那、女が動く。
 不意に消えたかと思えば、彼は背後に僅かに風を感じる。距離を詰めて来るのは、彼にも容易に予想できる。神経を研ぎ澄まし、タイミングを見計らい右手で横に一閃。微かに目を見開いた女が飛び退けば、再び姿が消える。彼には全く、気配が追えなかった。極限の緊張感に、息が上がる。
 勘だけが彼の頼りであった。察知して避ける、事それに関しては、ジョシュアの右に出る者はいない。それだけ、ではあるが。お陰で色んな人間に怪我をさせてきた。恨まれもした。今更もう、ジョシュアには関係のない事であるが。

「何だお前、意外とやるじゃないか。カンが良いのか?」

 声がしたのは彼の左手後方。ナイフの切っ先の届かない所に、女は嗤って着地する。猫のように、ジワジワと嬲り殺す気であろうか、ジョシュアの頭に嫌な考えが浮かぶ。しかし、動きを止める訳にもいかない。彼は圧倒的弱者だ。考えるよりもまず、行動する以外に生き残る手立てはない。
 ジョシュアのナイフの攻撃範囲は全方位に及ぶ。彼の僅かばかりの魔力を知覚に総動員し、神経を研ぎ澄ませる。近接戦闘にならざるを得ないナイフの弱点も扱い方も、熟知していた。相手の思い込みを突くのが、彼の戦い方だった。
 パワーの圧倒的に足りないジョシュアが相手に致命傷になる程の傷を負わせる事は稀だったが、当てる位、ジョシュアにだって出来るのだ。
 故に女の油断もまた、彼にとっては幸運であった。女の声にビクリ、驚くフリをしながら身体で手元を隠しナイフを持ち替える。ナイフ相手に敵がどう回避しどう出て来るか、彼には経験から何となく分かっていた。それがこの女に通じるかは分からなかったが、彼はそれに掛けるしかなかった。振り向きざま、左手で再度一閃。そのまま背後に飛び退けば、意外そうに切れた服の端を眺める女が目に入った。

「服を切られたか……」

 裂かれたシャツの襟首を摘みながらポツリと溢した女の声は、嫌に呑気に聞こえた。

「ふむ、決めたぞ」

 そう呟いた女は、一度ジョシュアを見据えると、次の瞬間にはその姿を消した。警戒した彼が咄嗟に構えるよりも早く、ジョシュアは瞬く間に背後から羽交い締めにされた。ギリギリと、大漢にそうされていると思える程の力で両腕の関節を掴まれ押さえ込まれる。苦悶の声を微かに上げたジョシュアに笑いながら、女はジョシュアの首筋に顎を乗せた。それはほんの、1秒にも満たない出来事であった。

「っ」
「お前は私の非常食だ」

 無視できない言葉に堪らず震えるが、ジョシュアはもう、抵抗すら儘ならなかった。女の怪力に骨が軋む。
 ジョシュアが多少相手にできたのは、女にそのつもりがなかったに過ぎないと思い知らされる。反応すらも出来なかった。気付いたら背後を取られ、彼が全く何も出来ないまま無力化された。圧倒的な力量差。出会ったが最期、例え助けが来ていたとて、唯の人間如きがこの女を御せる者などいるはずがなかった。彼はいよいよ死を覚悟した。

「いっーー!」

 生暖かい風を感じると同時に、ブツリと首筋の皮膚が喰い破られる。そのままジワジワと血の気が失せ、彼はあっという間に気が遠くなる。目の前がチカチカと白く明滅して何も見えなくなる。

「まぁ、男も飲めなくもないかーー」

 胸から込み上げるような何かに耐えきれなくなり、ジョシュアはとうとう気を失った。気を失う直前、女の発した言葉がひどく他人事で呑気だった事にも、ジョシュアは気付けない。

 呆気なく、そしてつまらない人生だった。
 ジョシュアは嘆息して、来世はもっと楽な人生を生きたい、と漠然と思ったのだった。





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