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盲目な目蓋



まさか彼がそんな事をするなんて、僕は全く考えていなかったーーいや、違う。僕は自分の勘を無視したのだ。じわじわと腹の底から湧き上がってくる嫌な感じを、僕は気の所為だと言って憚らなかった。それをどうにかしていれば、もしかしたらあんな結末を迎える事は無かったのかもしれない。

もし仮に、あの時何も無かったのならば、僕はひっそりとあの人の傍で暮らし、時折笑い合いながら人の人生を眺めていたのだろう。そうして、あの人が老いてゆく姿を眺めながら僕は一人になるその時まで、彼の傍らに立ち生きてゆく。その時が来た後は……僕は旅に出たかもしれない。人として街を点々としながら、国境を超えてみたり沢山の人と出会い別れ、沢山の人種と出会うのかもしれない。西のはてには、僕のような長寿の人も居ると聞く。彼らに会いに出掛け、そこで果てしない生涯を過ごすのも良いのかもしれない。そうして、僕は死にゆく人々を眺めながら、一生をかけて人をまるで喰らうかのような自らの生を、その価値を、探っていくのだ。

ーー何て虚しい。

人から生まれ、しかし区別され葬られてきた僕の仲間達は、苦悩しながらも必死でもがいていた。人としてのプライドを持ちながら、しかし自由に生きられないこの命を考え続けていた。彼もまた、その内の1人だった。例え、どんなに彼の事が嫌いでも、彼のやることが気に食わなくても、やはり仲間には違いなかった。だから全てが終わってしまった今でも。僕は彼が憎いとはどうしても思えないのだーー。

死んでいった仲間達を、僕は今日も1人で弔う。


* * *


その日も、僕はいつも通りだった。
あの日、クロードとの仲を深めたあの時から、僕は毎日彼の家に通うようになった。夕方の散歩がてら、話をしに。時々泊まりに行く事もあった。そういう時は人の食事をもらう事もあったけれど、断る事が多くなった。それでも、1人での食事は虚しいから付き合えと言うクロードに根負けして、イマイチ味のわからない料理を口に運ぶ事もあった。味を聞かれて正直にその旨を話せば、クロードは『正直でよろしい』と笑いながら僕を撫でてくれる。隠さなくて良い事がこんなにも嬉しいだなんて。そうして、毎日とは言わずともちゃんとした食事を取るようになった僕は、全てが満たされるようになった。生まれてからずっと空腹に耐える日々を送ってきた僕にとって、それは幸福以外の何物でも無かった。僕は、完全に舞い上がっていたのだ。

「クロード」
「何?」
「仕事の休める日とか、無いの?」
「休みねぇ……今は少し難しいかなぁ。今丁度、新しい水路を造っているところでさ。雨季になる前に完成させないと、全部流れちまうからさ」

泊まりの日、僕らは小さなベットに肩を寄せ合いこそこそと会話を繋げる。少しだけ肌寒い夜は、継ぎ接ぎだらけの毛布に包まり時折笑いながら眠る。


「そっかぁ……一緒に、夜出かけるのは難しいんだね」
「悪い……あと一ヶ月だ。すぐだよ」
「うん……待ってるよ」
「そんな顔すんなよ」
「ん」

生憎と夜型の僕に、明け方までは眠りが訪れる事はないのだけれど、時折唇を合わせながら眠りに落ちていく彼を見つめる。僕はそれだけで幸せだった。

僕の両親は、物心がつく頃に殺された。当時生活していた町で、僕らは奇襲にあったのだ。まだ幼かった僕を庇うように死んだ両親を目の当たりにして、その日初めて人を殺めた。未熟な精神故に、悲しみと怒りに囚われ思うがままに次々と。そうして命からがら生き延びた僕は、仲間の手助けを借りながらもずっと一人で生きてきた。ぽっかりと空いた穴を埋める方法も分からずに、生にしがみついてきた。

両親を殺されたショックのせいなのか、それとも僕が幼すぎたせいなのか、僕は家族がどういうものなのかを知らない。けれども、こうやって身体を寄せ合っていると、時々家族とはこういうものなのだろうかと思うことがあった。身を寄せ合うだけで得られるこの安心こそが、家族で過ごす事の大切さなのではないかと。


「今から散歩、行ってくるね」
「おー。んじゃ、俺は飯食っとくわ。ゆっくりでいいから」

その日もまた、僕は日課である散歩へと出掛けた。沈みゆくオレンジ色の夕陽を眺めながら、身体を解していく。ここ最近の体調の良さも手伝って、僕は村の東側にある森の入り口にまで足を運んだ。時折人を襲ってくる獣の巣窟。危険だとずっと教えられてきた。特に、夜の森は最悪で、人を喰う夜行性の生き物達が森中を徘徊する。大きいもの、小さいもの、果ては不思議な力を使う魔の物まで。この森は不気味な気配で満ちていた。

昔は、もっと爽やかで美しい獣や聖なるもの達が穏やかに暮らしていたと聞く。だが、ある時から森中に黒い影が蔓延するようになったそうだ。そうしてたちまちに、穏やかな獣達は姿を消し聖なる獣は死に絶え、獰猛な生き物達が森を支配するようになった。その時から、この国までもがおかしくなった。森のように、穏やかな人々は成りを潜め或いは死に絶え、他人を信じることすら出来なくなった。いつ襲われるかもしれない恐怖に怯え、自分の為に明日を思う日々。余裕も穏やかな心も荒み、明日は我が身と人を蹴落とし生きていた。皆、疲弊している。生まれてから死ぬまで、人々はこの国の異常さを憂いながら、しかし為す術もなく流されていく。まるで羽根をもがれた鳥のように羽ばたくことも忘れ、閉じ込められた囚人のように只管に死を待つ。

しかし、人々は自由であるはずだ。飛べる羽根も逃げる足もあるのに、しかし何かに取り憑かれたかのようにこの地に留まる。一体、何故なのだろうか。それ程の魅力が、この地のどこかにあるとでもいうのだろうか。

そういう僕も、ずっとこの森が気になって仕方なかった。この森が人々や獣をおかしくしている事は明白で、もし僕が本当に強い人間であったのならばその原因を突き止めてやろう、と常々考えていた。この気配すらどうにかすれば、人も獣も穏やかな心を取り戻すのではないか、そんな夢物語のような事を僕はずっと考えていた。だからこうして、調子の良い時は性懲りも無く足を運ぶ。どうしたって、鍛えてすらいないこの僕が森を進んで行くことには無理があった。けれども、何故だか僕は諦めきれなかったのだ。

別に、森を鎮めてヒーローを気取るつもりもなければ仲間の中心に立って人間と共存する道を創りたい!だなんて大それた夢を求めている訳でもない。ただ本当に、気になって仕方なかった。

ぼんやりと森の入り口に佇み、森の奥深くを見つめる。入り口よりもずっと先、薄暗い木の隙間に何かが動く様子が見えた。普通の人には見る事すら敵わないその距離で、僕はその生物の行動を観察した。何か、餌でも追っているのか、ゆっくりとしたネコ科の生物のようにそろりと動いている。ゆっくりゆっくり、何かににじり寄り、突然立ち止まる。何か、と思った次の瞬間には、その生物は僕の視界から外れてしまった。遠くでぎゃあぎゃあと騒ぐ獣の鳴き声を聞いた。

ようやく森から目を離した時には、辺りはすっかり暗闇に包まれていた。どれだけの時間森に心奪われてしまっていたのか、僕は少しだけ反省しながら村に繋がる道へと戻った。そうして早足で村に戻る途中、僕は異変に気付いた。

何か嫌な臭いが、料理の臭いに混じり漂ってくる。何だろうか、料理の強い香りの上に、微かな香り。それも、嗅ぎ覚えのある嫌なもの。胸の辺りがザワザワとする。僕は歩みを早め、焦る心を鎮めるように自分に言い聞かせた。きっと何もない、自分の勘違いだ、ただどこかで珍しい料理でも作っているか、或いは何かゴミでも燃やしているのだろう、村はいつものように静かだし、これはただの僕の思い違い。調子が良すぎるせいで、何か普段と変わらないものを敏感に捉えてしまうのだーー。

収まるどころか、臭いが強まるにつれて酷くなる胸の動悸に息が詰まるようだった。早く早く、はやる気持ちに急かされ、ほとんど全力で僕は目的地まで走った。扉の前に辿り着き、僕は絶望にも似た感情を抱えながら、走る勢いのまま飛び入る。

そうして、目の前に飛び込んできた光景に僕は茫然と立ち尽くした。





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