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02



嫌なくらい聞いた波の音が、耳の奥深くまで響く。

拷問された後、縛られたまま粗末ないかだに乗せられ、何日も漂流した今、この身はすっかりボロボロだ。金だった髪は、血と泥で薄汚れ、身にまとっていた白の服も茶のズボンもはあちこち破けて元の色が分からない程くすんでいる。申し訳程度に残った黒のローブさえ原型を留めない程に裂けていた。数日で縄こそ解けたが、辺り一面見渡す限りの海。水も食料もなく、むしろこの日まで意識を保っていられる事に驚く程だ。こんな所に、鍛え上げた肉体の効果が発揮されている。いっそ、とっとと意識を無くしてそのまま逝ってしまう方が何倍も楽だったろうに。己の頑丈さをこの時ばかりは恨むのだった。

ただぼんやりと、考える事もせず、その日もまた、いかだに俯せで海を眺めた。ふと水面に、大きな鳥の影が、チラリと過った。上を向く気力さえない今、その姿を見ることはなかったが、今までに見たことのない程の大きさだった。こんなに大きい鳥類がこの世に存在したのか。この目で見てみたかったなぁ、そんな戯言をふと思った。海に出されて7日目にして、海上で初めて興味をそそられた出来事であった。

そうしてその日の晩、己は出会ってしまったのだ、その大きな鳥類に。否、正確には鳥類ではなくーー

「にゃんだこれ……人間?ーーうわっ、生きてる!」

魔族だった。
人の形をしながら鳥のような翼を背に生やし、頭には二本の小さな角が生えていた。見た目はとても小さく、5歳程の子供くらいしかない。
子供のような好奇心からか、ランランと輝く真紅の目の中には、己の無様な姿が映っていた。そんな目で、みすぼらしい自分を見てくれるな。そういう意味を込めて、魔族から顔を背けた。だが、それはこの魔族にとっては些細な事であったようで。

「わー、わー、ええもんめっけたー!まおー様にみーせよーっと!褒めてくれるかにゃー?」

ウキウキ、そんな形容の似合う様子でその魔族は、己の服を持ち羽ばたくと、軽々と空へ飛び立っていった。そう、この自分を持ちながらである。ーー随分と力がある子供だ。

「飼ってもいいって言ってくれるかにゃぁ……頼んでみよー!」
「…………」

これから自分は何処へと連れて行かれるのだろうか。そんな疑問を胸にしながらも、何もないという苦痛から逃れられると安堵した。きっと、己は魔族に喰われ、この世を去るのだろう。パクリと喰われればそれっきり。あの、延々と漂流する苦しみから逃れられるのであれば、そういう死に方がよっぽど良いに決まっている。そう、これはきっと、疑う事をしなかった哀れな自分に、神がお与え下さった最期の祝福なのだろう。そう自己完結し、ふと意識を失った。ただその時はひたすらに眠かった。










「死んだかにゃー?」
「いや、息はあるようだが……ん?この顔、どこかで……」
「にゃー!目ぇ開けたにゃー!生きてるにゃー!僕が飼うにゃー!」

騒々しい、そんな気分で意識が浮上した。目を薄ら開けるが、暗い上に目がぼやけているせいで何も認識する事ができない。パチリと瞬きをするものの、目の前は大して変わらない。ぼんやりと暗い。

しばらくぼうっとして、あの海でない事に少し驚いた後、海で会った魔族に、空へ連れて行かれた事を思い出す。なぜ、まだ喰われていないのだろうか。純粋に疑問だった。

「にゃーにゃー、いいでしょー?僕面倒見るんにゃからさー、にゃーいーでしょー、まおー様ー!」
「……っおい、この男もしかして……!」
「にょ?」
「おいカルお前なんてもの拾って……」
「飼っていいんでしよ?」
「さっきはそう言ったが……この人間、国王だぞ!」
「こくおー?こくおーってにゃにかにゃー?」

何か話をしているらしい、話し声が複数聞こえる。あの羽の魔族以外にも、まだ仲間がいるようだった。何の話をしているのだろうか。言葉が頭を素通りしていく。

「私のような偉い人間だ」
「?……でも、海の真ん中で見つけたよ!海で!お城にいなかったよ!」
「海で……?」
「うん!ずーっと海にいてねー、にゃーんにも食べないし動かないから拾って来たの!」
「……そうか。カル、少しだけ広場で遊んで来てくれないか?リュメル、カルの相手してくれ」
「わーい!まおー様、終わったら僕に返してにゃー」
「ああ」
「ルュメーあーそぼー」
「はいはい、しょーがないなぁ……ちょっとだけだぞー」

いっそひと思いに、この場で喰らってはくれまいか、意識も朦朧としながらそんな気分でいれば、いつの間にやら話し声が止んでしまった。この場には、己以外に気配はひとつ。あの元気な子供は、どこへ行ってしまったのだろうか。そんな事を考えた。

「お前……人間の国王じゃなかったか?なぜーー?」

一際低い声は己の真上から聞こえてくる。何だろうか、そうぼんやりと声の主の行動を待つ。

「喋れないのか?」

男は、己の服を掴み上げ、うつ伏せの状態をぐるりとひっくり返した。おかげで、ある程度周りが見えるようになった。随分と薄暗いが、天井がとても高い事が窺える。城、だろうか。相変わらずぼやけた視界では、その男の顔すら判別できなかった。黒く大きな影は、相変わらず自分に話しかけてくる。

「片目を潰されたのか……?酷い有様だな、海を漂ってたと言っていたが……」

ふと、男の影が視界から消える。足音を辿れば、どこかへ向かったようだった。そのまましばらく、男は戻ってこなかった。何をしに行ったのか、そんな疑問を胸にしながら周囲を見渡す。随分と大きな空間で、やはりどこか薄暗くそういう雰囲気があった。ひんやりとした石畳、足音が遠くから反射してくる程の大きな空間。蝋燭の灯りでもあるのか、ぼんやりとしたオレンジ色の光が所々で輝いているように見える。ここは、何処かーー魔族の国にある城なのだろうか。そんな事を考えていると、先ほどの足音が早足に戻ってくる。はたり、己の真ん前で立ち止まったかと思えば、しゃがんで何かを口に差し出してくる。

「ほれ、これを飲め」

そう言って、口に液体が垂らされた。水だろうか。そう判断はできたけれども、飲もうという気分にすらなれなかった。役立たずの己など、このまま死んでしまえばいい。どうせひとり虚しく死んでいくのだ。放って置いてくれ。

「……おい、飲み込めと言っている。ーーおい!なぜ飲まんのだ!死にたいのか!」

己の態度に、段々と男がイラついていくのが分かる。そうだその通りだ、己はこんなにも死にたがっている。だからこんな死に損ない、放って置けばよいのに。

「おい、この……貴様、私に逆らうとはいい度胸だなーー!」

ピタリ、男の言葉と共に口の水流が止まった。諦めたのか、そうホッと一息ついたその時だ。頭が強引に持ち上げられ影が近付いて、気付けば口に生暖かいものが侵入してきた。

「!?」

それが何だか認識する暇もなく、口に液体が流れ込んでくる。これは一体、どういう状況か。考える間に、己は反射的に喉をゴクリと鳴らした。多少噎せはしたが、久方ぶりの水が身体に染み渡る。一度飲み込んでしまえば、もっと、という欲に満たされるのに時間はかからなかった。

何度も、口に水が注ぎこまれる。少しずつ少しずつ、およそ十回程繰り返しただろうか。口がそれを追いかけるように舌を出すようになった頃。男はそれで満足したのだろうか、水のなくなった口の中を舌でぐるりとかき回してきた。いくら今の自分でももう分かる。この男は、己に口移しで水を飲ませてきたのだ。それが済んではたまた頭がどうにかしてしまったのか、それとも悪戯でも思いついたのだろうか、男の口付けは己の息が切れるまで終わらなかった。

「ぅ、は」

散々弄ばれ口を離された時には、からからであった身体に水分が行き渡り、身体に幾分と力が戻ってきた。視力も幾分か戻り、暗い中で男の顔を認識できるようになった。それは、その男は、想像していたよりも何倍も美しい魔族だった。魔族の証である真紅の眼は、青白い顔に不気味な程よく映えていた。角もある。子供のそれとはくらべものにならないほど、立派なものだった。
純粋に、それを綺麗だと思った。

「次は食い物だ、話ができなきゃ意味がない。食らえるだけの力はないだろう?この私が食わせてやるーーありがたく思え!」

そう、バッという効果音がついてきそうな勢いで話し出した男は、綺麗な姿とは裏腹にとても憎らしい口調だった。ナルシスト、とでも言えばいいのか、きっと男はそういう性格なのだろう、実に残念だ。そんなことをつらつらと考えていると、再び、今度は食物を口移しで与えようとしてくる男が見えた。ギョッとして、慌てて首を逸らし拒否する。さすがにそれはみっともない。死んだ方がマシだ。

「ぃ、らん」
「あ?きはまに拒否へんなおあるわへなはろう」
「ぅっ!」

結局、弱った己が男を拒否できるはずもなく。為す術もなく食べ物を与えられ、己は失意のまま意識を飛ばした。食べてすぐ寝ると牛になるというのは迷信だろうか。本当に牛になってしまえばよいのに。そう、割と本気で思った事は決して忘れない。






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