「ウォーリアせーんせっ」
勢い良くガラリと保健室のドアを開ければ、ピンと背筋を伸ばしてパソコンに向かう先生の背中が視界に入る。
流れるような銀髪。カーテンを揺らす風がその銀色をなぞり、窓から差し込む陽を反射させてキラキラと輝いていた。
「…また君か」
「ちょっと、会って早々それはないんじゃないですか!」
「昨日は腹痛、一昨日は頭痛だったな。今日は一体何の用だ?」
「えーと。眠くて勉強どころじゃないのでお昼寝に来ました」
「帰りなさい」
ぴしゃり。変わり映えしない無機質な表情で言い放ちつつも、椅子を回転させてちゃんとこちらに向き直ってくれるから、ウォーリア先生は優しい。
やけに真面目で生徒に厳しくて、ウォーリア先生のこと怖いなんてクラスのみんなは言うけれど。私からしてみれば、言葉が少しストレートなだけで特にどうってことはない。むしろ、一緒にいると落ち着くというか、なんだかホッとするというか。言いようのない安心感に包まれてなんだか嬉しくなる。
「あ、先生眼鏡掛けてる!めっずらしー」
「話を反らそうとしても無駄だ」
「違います、違いますって。ホント単純に珍しいと思っただけで。先生って視力悪いんでしたっけ?」
「いや…生活には大して支障はない。読書やパソコンをする時だけ掛けている」
「へぇ、でもすごく似合ってます」
それにすごく格好いい、と出掛かって慌てて喉奥へと飲み込んだ。若干焦ったような様子のわたしを見て先生は不信そうに目を細めたが、笑ってごまかしたら先生もつられたのか少しだけ口角を上げる。それだけで胸が熱くなった。
この不思議な感覚が、一教師に向けるただの好意ではないということには自分自身、とっくのとうに気付いていた。ただ、解ったところでどうにもならないのが現実だ。気持ちだけが前へ前へと焦って、空回りしている感が否めない最近でもある。どうすることも、どうしたらいいかさえもわからない。私にはこうして、出来る限り理由を作って先生に会いにくることしか、出来ない。
「私の記憶が正しければ、だが」
「何でしょうか」
「シオン、君は二学期まで皆勤だったろう。それが何故、今になって頻繁に休むようになった?」
「う…それは、」
「卒業までそう日にちはない。最後くらいしっかりと授業に出たらどうだ」
「……」
言えなかった。まさに今考えていたことを指摘され、思わず口ごもる。もうすぐ卒業だからこそ、少しでも多く先生と一緒に居たいだなんて。言えるはずがない。
生徒と教師という立場上、だなんてただの言い訳だ。こんなに好きなのにも関わらず、わたしが自分の想いを先生に伝えようとしないのは、単に自分自身に自信がないからに過ぎない。
「ここにいるの、迷惑ですか」
「私は一向に構わない」
「なら、」
「だが理由を付けてこのような所に来るより、君は残り少ない学生生活を楽しむべきではないのか」
「……」
こうして遊びに来るたび相手をしてくれる先生だけど、もしもわたしが生徒じゃなかったとしても、先生の恋愛対象には一生成り得ないのではないかという気がしてくるのだ。この人が、どういった女性を好んで、どんな恋愛をするのかも皆目見当がつかなかった。ましてや、わたしみたいな子供が先生の隣にいるなんてことは想像すら出来なかった。
「生徒」という立場に甘え、利用して接することしかできないことがひどく悔しい。どうしたら、どうしたら先生はわたしを見てくれる?もう時間はないのだ。卒業してしまったら、顔さえ見れなくなってしまう。
「聞いているのか、シオン」
「…ちゃんと聞いてますよ」
「なら今日はもう戻れ。今から行けば六限に間に合う」
「…いやです」
「何?」
「いやって言ったんです」
いらいらする。呆れたような表情を浮かべる先生にも、下を向いてむくれることしか出来ないわたし自身にも。これじゃあ本当の子供だ。
諦めたのか、それとも本格的に呆れてしまったのか。ため息を一つこぼした先生はパソコンの画面へと向き直ってしまう。別に困らせたいわけじゃない。だけど、もう少しわたしの気持ちを汲み取ってくれてもいいんじゃないかという自分勝手な考えが、頭の中にもやもやと巣を張る。同時に自棄な気分になった。
どうせ振り向いてもらえないのなら、いっそ壊れてしまっても構わない、そういった考えが瞬時に脳を支配する。
「シオン?……ッ!?」
気が付いた時には、先生の白衣の襟元を引っ付かんで顔をこちらに向けさせ、そして唇を重ねていた。
「わたしは、先生が好き」
すうっと唇を放し、間近にある先生の瞳を見つめて、言う。突然の出来事に先生は驚いたように両目を見開いたが、依然として無表情なことには変わりない。
(悔しい、くやしい)
自分で勝手にしておきながら、開きかけた口から発するであろう先生の言葉を聞くのが怖くなって、再び強引に口付ける。そのまま身を屈めれば、椅子がギィと音を立てた。
頭を引き寄せて微妙な体制のバランスを必死でとって、片手は未だシャツを掴んだままで。試すようにその味を楽しんだら二回目は簡単に離してなんかやらない。舌を引きずり出して噛み付いて、長く長く、わたしはこんなにも先生が好きなんだって伝えたくて。
必死で角度を変えている内に涙が滲む。酸素が足りなくて苦しいのか、それとも他の理由で胸が痛むのか自分でもわからなかった。ただただ、苦しくて虚しくて仕方がない。
「ッはぁ、はっ…」
互いに濡れしとった唇を離して、酸素を目一杯肺に送り込む。下を向いたまま、先生の顔なんて到底見れやしなかった。目の前の先生は何も言ってこない代わりに、先ほどより重たくなったかのような空気に心臓がずきずきと痛み出す。
ああ、取り返しのつかないことをしてしまった。恥ずかしいと思うより前に、体が動く。ここにはもう来れない、もう話すことすら叶わない。
背を向け走り出そうとしたその時、逞しい腕に腰を引き寄せられた。バランスを崩した身体は後ろへと傾き、先生の胸へと倒れ込む。驚いて顔を上げれば、わたしが言うより早く唇を塞がれた。
「!?…んぅッ」
ぐいっと胸元のスカーフを引っ掴まれ、反動でがちんと歯と歯とがぶつかる。パニックになった頭が身体に危険信号を送る、暴れて必死に離れようとするも後頭部を片手で抱え込まれて、直後噛み付くようなキス。
先程としてることは同じな筈なのに、何度も何度も角度を変えるたび口内でずるりと這う舌とやらしい音とが絡んで、その度に背筋がびくびくと震えた。
「ん…ふぅッ……っんんッ」
いよいよ酸素が足りなくなり、力の限りに両肩を押す。ぜえぜえと身体を上下させて息をするわたしとは対照的に、先生は呼吸一つ乱れていない。そしてわたしの腰を片手で支えた状態のまま、先生が薄くわらった。
「はぁ、ッは、ゴホッ!!」
「まだまだ子供だな」
「ッはぁっ、な…!」
「あのようなキスの仕方、どこで覚えてきた?」
「せん、せ、離し」
ぬらりと奥で光る瞳を揺らし、先生がおもむろに眼鏡を外した。レンズを通さないアイスブルーの瞳は、心なしかいつもより妖艶に映る。逃げ出そうにも、がっちりと身体を掴む両腕がそうさせてくれなかった。
端正な顔が、近付く。目の前にいる人は、いつもの先生じゃない。
鼻にかかる互いの息がやけに熱い。そんな熱に浮かされた今、先生の気持ちとか、生徒だとか教師だとか。途端に何もかもがどうでもよくなってしまうわたしは、やっぱり子供なのだろうか。
左の欲か右の望みか