七月一日

 亜衣は普段通りに渡り廊下を渡り、自動販売機を目指していた。三年生の校舎の中にも自動販売機が設置されているため、三年生はここをあまり利用しなかった。しかし、五人ほどの男子生徒が自販機の前にいる。ネクタイの色で三年生とわかった。亜衣は戸惑った。基本的に男は苦手だ。あまり話したことがないし、力が強そうで怖いから。今日は飲み物なしで我慢しようと亜衣は踵を返した。
「あっれぇ、安藤さん、帰っちゃうの?」
 亜衣の背中に下衆な声がかかる。振り返るのが恐ろしく、亜衣は彼らに背中を向けたまま固まった。それは明らかに自販機の前にいる三年生から発せられた声だった。
「俺らさあ、安藤さんに聞きたいことがあるんだよねえ。ちょっと付き合ってくれるかな」
 口調は優しげだった。しかし何故名前を知られているのかもわからないし、一人ならまだしも男が五人いることが更に亜衣の恐怖を煽った。振り返ることが出来ない。まさか自分がこのような人種に絡まれるなどとは夢にを思いはしなかった。着いてゆけば、何かしら危害を加えられることは間違いないだろう。亜衣は逃亡を決心した。
 勢い良く一歩踏み出そうと右足を出した瞬間──亜衣の右腕は凄い力で掴まれた。
「痛っ……」
「逃げんなよ」
 先ほどの穏やかな声色とは打って変わって、男の声は急に低くなった。周りの男たちも、笑みを抑えられずにいる。
「安藤さあん、ね? ちょーっとでいいんだからさ。俺らに付き合ってよ」
 亜衣の腕を掴んだ男が、わざと音を立てて厭らしい舌なめずりをした。亜衣は恐怖で言葉を発することもできず、ただ背中に冷や汗が流れるのを感じるだけだった。


 引っ張られ連れて来られたのは、もう使われていない体育館裏の倉庫だった。鍵は掛かっておらず、何年も足を踏み入れられていない様子だった。
「おら、入れ」
 男は亜衣の背中を蹴って、部屋に入れた。地面に倒れた亜衣の口からは小さく悲鳴が漏れたが、男のうちの一人が「声出すな」と亜衣の手首を踏みつけたので、亜衣は声を出すことが出来ず痛みに顔を歪めた。
「いいねぇいいねぇ……もっと痛がってよ」
 手首に踏み付けられていた足が背中に移動した。背骨に衝撃が走り、身体が硬直した。亜衣の背中を痛めつけている間に、他の男は亜衣の手と脚をまとめて縄で縛った。
「ちょっ……」
 亜衣は思わず抗議の声を上げてしまい、ハッと口を噤んだ。男はニヤリと嗤う。
「声出すなって言ったよな」
「──っ……! や、やめてくださ……」
 男は亜衣の髪を掴み、顔を近づけた。耳元で何本か自分の髪が抜ける音がして、亜衣は顔を青くした。男はこれ以上ないくらいに楽しそうな表情をして、言う。
「ごめんね? 俺らだって安藤さんに恨みがあるわけじゃないんだよ。恨むなら自分の彼氏を恨んでね」
「彼氏……?」
 本当に誰のことを言っているのかわからなかった。亜衣に恋人は居ない。男は亜衣が何を考えているのかなどどうでもよいと言うように、乱暴に亜衣のブレザーを剥ぎ取り、その下の白いシャツを破った。
「ひ……」
「はい大人しくしてねー。あっれぇ、可愛いのつけてんじゃん。アイツこういうのが好みなの」
「年上趣味って言ってなかった?」
「こんな地味な女じゃ勃たねえわな」
「でも結構イイ身体してんじゃん? ほら、ほっそいのに意外とおっぱいでかいし」
 男のうちの一人が、亜衣の桃色の下着の真ん中についている小さいリボンを指で弄ぶ。
「どうせ静雄と毎晩ヤッってんでしょ? 俺らの相手もしてくれよ、ボランティアだと思ってさ」
 静雄。憎い男の口から突如出た愛しい男の名前に、亜衣は自分の状況も忘れて瞬きを繰り返した。そして瞬時に納得できた。静雄と話しているところや、一緒に歩いているところを目撃されていたのだろう。亜衣は静雄の隣にいること自体に精一杯で周りの視線を気にする余裕がなかった。静雄にはほかに親しい女子生徒がいないため亜衣が静雄の恋人だと勘違いされたのだ。
「ちがいます。平和島先輩とはそんな関係じゃ」
「平和島先輩ィ?」
 男は心底馬鹿にするような笑みをうかべた。亜衣の両頬を乱暴に掴み、再び顔を近付けた。亜衣は顔を背けようとしたが、男の手の力に逆らうことはできなかった。
「あのさあ、安藤さん。俺らはね、本っ当に本っ当にアイツを恨んでんのよ。安藤さんが思う千倍ぐらいはね。だからせめて静雄の女を痛めつけるぐらいのことはやってやりたいわけ。もう本当プライドとかかなぐり捨ててるわけよ」
 亜衣は目の前の男の、憎悪の込められた瞳を近づけられ、言葉を発することができなかった。
「だから俺らのストレス解消に付き合ってくれよ、なあ」


 門田京平は体育館裏から三年校舎に戻ろうとした。登校すると下駄箱に「放課後体育館裏で待ってます」という古典的な手紙が入っており、告白か決闘か判断のつかないまま指定の場所へ行くと、待っていたのは小柄な一年生の女子だった。少女の愛の告白を門田は丁重に断り踵を返そうとしたその瞬間だった。
 倉庫から物音がした気がした。何か固いものが床に落ちる音や、ドスッと何かを蹴るような音。門田は喧嘩かと思い倉庫へ向かう。人気のないところで喧嘩するのは良いが倉庫の中で袋叩きとは、些か卑怯だと思ったからだ。、
 倉庫の扉は簡単に開いた。詰めが甘い。入口からは奥に何人いるのか見えないが数人の男の声がした。
「おい、誰かいるのか」
 門田は大きな声を出した。その瞬間蹴る音も話し声も止んだ。そして男子生徒が数人勢いよく走ってきて、倉庫から逃げて行った。相手は目を合わせようとしなかったが、門田は同級生だと気付いた。
「おい、大丈夫か」
 門田に見つかり焦って逃げるような奴らなら、きっと卑怯な手を使っていたのだろう。怪我をしているなら保健室に連れて行くくらいしてやってもいいと、門田は倉庫の奥の方へ進む。
「おまえ……!?」
 シャツはずたずたに破られ、全身に殴る蹴るの暴行を受け傷だらけになった亜衣がいた。門田と亜衣は少し前に一度顔を合わせただけだったが、門田は覚えていた。両手と両足は頑丈に縛られているため抵抗できなかったに違いない。口を塞がれていないことだけが不幸中の幸いだった。
「大丈夫か!?」
 門田の大声で亜衣はやっと門田の存在に気付いたようだった。ゆっくりと顔を上げ、驚いたような表情で名前を呼んだ。
「門田先輩」
 蚊の鳴くような声に、門田は今すぐ引き返して逃げ出した男子生徒たちを殴りたい衝動に駆られる。女を殴るなど、門田にとっては許せない行為だった。しかし、怪我をした亜衣をこの状態で放っておくわけにはいかない。
「保健室連れてく。行きたくないなら、そのまま病院行くけど」
 保健室にはほかの生徒がいる可能性があることからの言葉だった。亜衣は俯いた。
「ごめんなさい。大丈夫です。門田先輩、五限、ありますよね」
「おい!」
 びく、と亜衣の肩が揺れた。門田は亜衣を縛っていた縄を解き、シャツを脱いだ。下にはTシャツを着ていたため、ほかの生徒には昼休みに運動でもしていたように見えるだろう。
「これ被っとけ」
「あ……」
「取り敢えずその怪我なんとかしないと駄目だ。静雄に見られたらなんて言うつもりだ」
 静雄の名前が出た途端、再び体を硬直させた亜衣の瞳が潤んだ。門田はやってしまった、と思った。そういう世界に関わりのない亜衣がこんな人気のないところに連れ込まれた時点で、誰が絡んでいるか、門田には大体想像がついていた。
「平和島先輩には言わないでください」
 亜衣は瞳一杯に溜まった涙をぼろぼろと零した。
「でも……」
「お願いします」
 亜衣はまるで乞食が恵みを乞うように、門田の服を掴んだ。
「平和島先輩に喧嘩してほしくないんです」
 門田は面食らって何も言えなかった。この子のこの愛を、想いの強さを静雄に伝えたかった。しかし泣いて俯く亜衣を前に、それはできなかった。